3 祭り明け
サディア・クィンスがマニーユ国に来てまだひと月。
けれど低い位置で髪を二つに束ねた彼女の姿をパティオで見かけるのはもう定番の光景となっている。時は浅くとも彼女はすっかりこの街の住民の一員なのだ。
サディアが暮らす住居はパティオを中心として五つの部屋が構えられている。
二階部分に三部屋。一階部分に二部屋だ。一階は大家とトビアスが住み、二階にはニコラとサディアともう一人、工場に寝泊まりし滅多に家に帰ってこない時計職人が住んでいる。
大家の娘の趣向でパティオには様々な花が咲き乱れ、壁を覆うようにして植物が配置されている。敷地に一歩足を踏み入れると緑の壁が出迎えてくれ、一日の疲れを癒してくれるのだ。
床のタイルはつい最近住民たちが協力して補修を行ったという。サディアが入居したちょうど前日に作業が完了したそうだ。
パティオの改修を労う彼らのもとに鞄一つで部屋にやって来た彼女を皆はビール片手に歓迎した。
「サディア。今日は仕事?」
三日間に渡った光の祭典が終わった翌日、二日酔いのせいか目が半分しか開いていないニコラが二階の廊下に出てきたサディアに声をかける。
パティオで迎え酒を楽しむニコラは急ぎ足で階段を下りてくるサディアにグラスを掲げて見せた。
「仕事なんていいからさ、サディアも一杯飲もうよ」
午前十一時。祭りの余韻はあれど街はもう通常運転に慣れてきた頃合いだ。しかしレース職人で仕事のスケジュールを自ら調整可能なニコラはまだ日常に戻るつもりはないらしい。
「ううん。これから仕事だから。お酒を飲んで行ったりなんかしたらトビアスに怒られてしまうでしょう」
飾り気のないシンプルなワンピースに身を包んだサディアは鞄から飛び出ていたエプロンを押し込んで苦笑する。
「トビアスだってきっと二日酔いだよ。絶対気づかないって」
「そうかもしれないけど、彼と違って私は雇われの身だから。ようやく仕事にも慣れてきたところだし、変に目立つようなことはしたくないの」
「ふぅん。まぁそう言うなら強制はしないけど」
ニコラはテーブルにグラスを置いて頬杖をつく。
「ティーハウスはどう? わたしはレースを納品するときくらいしか行く機会がないからさ。いじわるな同僚にいじめられたりしてない?」
「そんな人いないから大丈夫。右も左も分からない私のことを雇ってくれたお店だから。むしろ感謝の気持ちしかないくらい」
「そっか。まぁあまり無茶しないでぼちぼちやっていけばいいよ。いってらっしゃーい」
「はい。いってきます」
再びグラスを手にしたニコラが気怠そうに手を振ってきたのでサディアもそれに返してパティオを出た。
酒を喉に流し込み満足気に笑うニコラの声が背後に聞こえてくる。
天気の良いこんな日に彼女のように好きなものを飲んでのんびりできたら最高だろう。
けれどサディアはそうも悠長なことは言っていられない。
マニーユ国に来たばかりの頃、まだ仕事が見つかっていないと呟くサディアのことを自らが経営するティーハウスに誘ってくれたのは他でもないトビアスだ。
トビアスと友人歴の長いニコラとは違い、もし自分が彼女と同じことをしたら彼に呆れられてしまうに決まっている。恩を仇で返すような真似はできまいと、ニコラの楽し気な声を振り払うようにサディアは首を横に振った。
そもそもサディアは酒というものを生まれてからこれまでの間に一度も口にしたことがない。先の祭りでものらりくらりとその機会をかわしてきた。
幼い頃からの彼女の保護者が酒を猛毒だ、下衆の飲む下等な飲料だと言い聞かせ続けたことで自然とサディアは酒という存在から遠ざかっていたからだ。
かといって、ニコラのように酒を嗜む者を彼女が蔑むことはない。
サディアにしてみれば、ただ単に興味がない、の一言で終わる話だった。
「お疲れ様です。調子はいかがでしょうか」
ティーハウスに着いたサディアは裏口から店に入りぺこりと一礼する。
「サディア、今日もぴったり時間通りだねぇ」
店に入ったサディアと時計を交互に見やり、店で一番古株の給仕長アンドレアが快活な声で感心したように言う。
ティーハウスの営業は正午から。開店準備はサディアの仕事ではないが、彼女は必ず開店の三十分前には出勤することを心掛けている。
それもこれも、トビアスの厚意を無下にしないためだ。
「私もお手伝いします。今日は新しい茶葉は入りましたか?」
「いいや。今日は特にそういったものはないねぇ。でも新しい帽子が完成したようだから、それを一番目立つところに飾ってきて欲しいかなぁ。ほらそこに置いてある箱だよ」
「わかりました。ふふ。今回も素敵な帽子ですね」
「トビアスがデザインした新作だよ。あの子も腕を上げてきたね」
サディアは持ってきたエプロンを腰で結び、アンドレアに指示された帽子を手にフロアへ出る。
開店前のフロアはまだ誰もおらず、整然と並べられたいくつかのテーブルには華やかなクロスが皺ひとつなく敷かれていた。
人形が住む家をイメージして作られたこのティーハウスは街でも五本指に入るほどの人気店だ。主な客層は婦人で年齢を問わず多くの客が毎日訪ねてくる。
トビアスの本職はデザイナー。しかし体力の有り余る彼はそれだけでは飽き足らず、三ブロック先にある帽子屋とこのティーハウス、そして紳士向けのコーヒーハウスの全部で三店舗を経営している。
中でも一番の売り上げを維持しているのがこのティーハウスで、人手が足りなくなってきたところにサディアを雇ったというわけだ。
新作の帽子を外からよく見えるようにショーウィンドウに飾り、サディアは店の中から街を眺めた。
祭りの間に何度も通った同じ道だが今日の景色は違って見える。お祭り気分はすっかり息を潜めてしまったらしい。
夢から醒めた顔で街を行き交う人々を照らす太陽の粒に目を細め、サディアは手で額に庇をつくった。
眩いばかりの空を見上げれば、その眩しさにくらくらと目を回しそうになる。
昼を迎えた今、一日はもうとっくに動き出しているのだ。けれどサディアにしてみれば今日はまだ始まったばかり。皆よりも遅い目覚めに微かに胸を痛めつつ、サディアは窓の外から目を離す。
「サディア、ちょっとこっちを手伝ってくれるー?」
太陽光と店内の薄暗さとの差異に視界が眩むサディアのことをアンドレアがキッチンから呼びつける。
「はい、なんでしょう」
サディアはぎゅう、と目を強く閉じた後で笑顔を湛えてキッチンへと向かう。
*
ティーハウスが開く正午を迎えると店内はあっという間に客でいっぱいになった。
常連客から新規の客まで、先ほどまでの薄暗さが嘘だったかのようにフロアは華やいでいく。それぞれが世間話に花を咲かせ、キラキラと顔を輝かせているせいだろう。今やフロアは夢心地の笑い声に溢れている。
給仕係のサディアは丁寧に注がれた色とりどりの茶や見目麗しい菓子たちをテーブルに運び、彼女たちの楽しそうな表情に胸を躍らせた。
例え仕事中だとしても、屈託のない笑顔が視界に入ってくるのはやはり嬉しくなってしまう。
これまで大陸の隅であまり人と関わらない生活をしていたサディアにとってはこの街で見るもののすべてが新鮮だった。
ティーハウスは今日も盛況で、十五時を迎えた頃には用意した菓子の材料も少なくなってきた。いつもならそろそろトビアスが店の見回りついでに買ってきた追加の材料を届けてくれるのだが──今日はちょっと遅れているらしい。
ハラハラした様子のアンドレア越しにサディアが時計を見上げると同時に店の扉が勢いよく開かれた。
ガランガランと通常の三倍以上の音で鐘が喚くのでアンドレアとサディアはびっくりして目を見合わせた。もしや祭りの余韻にあてられた厄介者の乱入か。
緊張感を漂わせたアンドレアがフロアを覗く。ごくりと唾を飲み込んだ彼女が来客に声をかけると、彼女の警戒の表情はあっという間に綻んでいった。
「いらっしゃ──って、なんだトビアスじゃない」
音の正体はトビアスが豪快に扉を開けたことで生じたものだったらしい。
「よっ! 今日も調子が良さそうだな」
「陽気に笑ってるんじゃないわよ。どうして裏口から入ってこないの」
飄々とした笑顔で片手を挙げるトビアスに対しアンドレアが唇を尖らせた。彼の頭には上品な帽子が乗せられている。これも彼の自作の物だ。仕事に取り組む時の彼は決まって自分の帽子を被っているため、普段の彼とは別人にも見える。
店主の派手な登場にフロアにいる客の会話も一瞬止まった。が、アンドレアが大きなため息を吐いたことでまたすぐに数秒前の光景に戻っていった。
「いやさ。すごいことが起きて……! 興奮して思わずこっちから入ってきちゃったわけ。はい、これ買い出しの」
「ありがとうトビアス」
言葉通り熱い表情をしているトビアスから紙袋を受け取ったサディアはそれをキッチンへ運んだ。トビアスとアンドレアはまだフロアで話を続けている。
「ぼーっとしてるんじゃないよ、店主サマ。で、すごいことってなに? 一体何が起きたって言うの?」
アンドレアはエプロンで手を拭き、やれやれといった具合に肩の力を抜く。
「聞いて驚くなよ? いや、聞いて驚け!」
「まったく。どっちなの」
「冷静に、冷静に聞くんだぞ?」
「もう、焦らさないで。紅茶を蒸らすのと違ってそういう話は勿体ぶった分だけ旨味が落ちていくんだからね?」
「いや、これはちょっとやそっとじゃそう簡単に味は落ちないね」
トビアスは自信満々に口角を持ち上げ、フロアに戻ってきたサディアにも笑いかける。
前にも彼のこんな嬉しそうな顔を見た覚えがある。
サディアが記憶を辿ってポカンとした反応をするとトビアスが大胆な身振りをつけて被っていた帽子を外した。
「今朝、侍女の使者経由で受けた依頼だ。ミンカ様が俺に──この俺に帽子をデザインして欲しいと仰っているそうだ。あの、皇帝の妹、ミンカ・ミュドール様が──‼」
両手を広げたトビアスがティーハウス中に響き渡る声で清々しい宣言をする。