29 毒の華
新しい部屋はすべてが眩しかった。
ベッドと机一つが精一杯の前の部屋の三倍以上の広さがある。角部屋で窓が三面に広がっていることもあり室内は常に柔らかな光に包まれていた。
窓を覆うカーテンは絹でつくられ、上品な金色の糸で丁寧に織り込まれている。そのささやかな煌めきのおかげか、窓を隠しても部屋には繊細な黄金の粒が揺らめく。
ベッドも一人分には少し大きいくらいで、腕を伸ばして広々と寝転ぶことができた。
鏡台と机が二つ、椅子、クローゼットのほかになんとソファまでもが置いてある。
フェリクスやジーノからはこの部屋を自由に使っていいと言われているが、こんなにも贅沢な部屋では逆に緊張して気が休まらない。
慣れない感覚にサディアはまだ戸惑いを隠せなかった。そんな彼女は夜、部屋の隅にある椅子にちょこんと座ってフクロウ姿のまま眠りにつく。そこが彼女の定位置となっていた。やはりこぢんまりとした空間の方が肌に合っているらしい。
部屋を移ってから三日目の朝、椅子に座った状態で目を覚ましたサディアは懐中時計を確認してから急いで身支度を始める。
いつもより早い時間に支度を終え、廊下を出てすぐ目の前にあるジーノの部屋の扉を叩く。通常であれば彼がサディアを迎えに来る決まりだが、今日は先手を打ってみたのだ。
昨夜は例のロントン氏主催のパーティーが開催された。フェリクスに付き添ったジーノも遅い時間まで宮殿を留守にしていたはず。きっと彼も疲れているに違いない。ならば彼に負担をかけるわけにはいかないと思ったからだ。
「ジーノ。おはようございます。まだ休まれていますか」
扉を叩いても何の反応もなく、サディアは続けてそう訊ねてみる。けれどその声にも同じく返事はない。
「──ジーノ?」
パーティーの帰りがよほど遅かったのだろうか。
しっかり者の彼から返事一つないことを不思議に思ったサディアが首を傾げる。すると。
「今日は早いのですね。サディア、あと五分ほどで迎えに行こうかと思っていましたが」
ようやく彼の声が返ってきた。しかしサディアの予想とは違い、彼の声は彼女の背後から聞こえてきた。
「ジーノ。自室にいるのかと思っていましたが」
サディアが振り返るとジーノは彼の部屋の斜め向かいの扉、つまりはフェリクスの部屋の中から顔を覗かせていた。その整った髪を見る限り、彼はとっくに身支度を終えて仕事を始めていたということか。
「ええ。つい先ほどまでは部屋にいましたよ。ですが──」
ジーノの声が濁る。気まずそうにフェリクスの部屋の中を一瞥した後で、コホン、と絡んだ痰を流すように咳をした。
「少し、問題が起きまして」
「問題? 昨晩のパーティーで、なにかあったのですか」
彼の複雑な表情にサディアの瞳も曇る。心臓に蛇が巻き付いたような不快な感覚に襲われた。あまりよくない予感がしたのだ。
「それが──……」
ジーノが言葉を詰まらせると、半開きのドアの向こうからフェリクスの声が飛んでくる。どこか覚悟を決めた勇ましさの混ざる潔い声だった。
「ジーノ、俺から話す。もとはと言えば俺のせいだ」
「しかし陛下──」
「言い訳など虚しいだけだ。サディア、部屋に来てくれ。君に話がある」
フェリクスのきっぱりとした口調に押され、ジーノは渋々扉を全開にし、サディアに中に入るようにと目で促す。
「フェリクス様。問題とは、一体──」
部屋に入ると浮かない顔のシマリスがサディアを待ち構えていた。やけに物々しい雰囲気にサディアは思わず言葉をしまいこむ。今にも腹を切るとでも言いかねない凄みが滲むシマリスの大きな瞳にサディアは僅かに息をのんだ。
「サディア、すまない。俺はまた、取り返しのつかないことをした」
「フェリクス様──?」
シマリスの眼差しは懺悔の意思を示すとともに誠意を帯びている。サディアは彼の立つ机の前に膝をつき、彼の話を聞こうと真っ直ぐに彼を見る。合わせた視線を逸らすこともなく、フェリクスは昨夜の出来事を話し始めた。
それはパーティーが始まって二時間弱が経った頃だった。
今回のパーティーはあまり堅苦しい形式ばったものではなく、楽団たちが演奏する音楽とともにダンスや酒を存分に楽しむことを目的とされていた。
しかしフェリクスは飲み食いすらまともにしないままジーノとともにパーティーの参加者たちへの挨拶回りにほとんどの時間を費やし、周りの浮かれた気分とは一線を画していた。取り巻きとなる衛兵たちは休ませていたため、無防備なフェリクスをダンスに誘ってくる女たちも多かった。が、なかなか踊る気分にもなれなかったフェリクスはその全てに三十秒だけ付き合い、手を離してはまた次の娘、といったように流れ作業的に場をやり過ごすようにしていた。
頑なに断ってはせっかくのパーティーの雰囲気を台無しにしてしまう。ほんの少しだけでも彼女たちの要求に応えることが最善の策だと、フェリクスはこれまでの経験の中で学んできたのだ。
そうすれば大多数の者たちは満足し、しつこく誘いを続けることもしなくなる。噂の皇帝を三十秒だけでも独り占めできたことは彼女たちの自慢となるのだ。
──が、何事にも例外はいるもので
「フェリクス。もうそろそろ挨拶回りはいいでしょう? 今日のパーティーは仕事の話は禁止よ。ねぇ、そんなつまらない人たちと話ばかりしていないでわたしと踊ってよ」
乾いた喉を潤す機会をようやく得たフェリクスの腕に絡まりつく可憐な花束は、一度踊っただけでは満足せずに甘い声で囁き続ける。ちょうどジーノは外の空気を吸いに行っているところだった。疲労が溜まり、人酔いしてしまったらしい。
「もう踊っただろ。君ももっと別の人と踊るといい。皆、君のことを見ている。きっと君を誘いたくてうずうずしてるんだろう。俺といたら彼らも気まずいはずだ」
グラスを口に運ぶことすら困難だったフェリクスはロザリアの腕を払い、彼女を見つめる周りの男たちの視線を見回す。
「嫌よ。わたし、今夜のパーティーはフェリクス以外とは踊らないって決めたのだから。殿方たちの相手はきっとミンカが引き受けるわ」
「それはどうだか」
ロザリアのきゃぴきゃぴとした声にフェリクスは眉根を寄せる。実際に目に入ってきたミンカを見るに、特注のレースであしらったドレスが崩れてしまうから、と彼女はダンスの誘いを片っ端から断っている様子だ。あれは確かニコラ・ブノワという名の若い職人に製作を依頼したドレスだったはず。フェリクスはぼんやりとした記憶を辿りながら近くを通った給仕にグラスを返した。
「フェリクス? 妹のドレスばかり見ていないでわたしのドレスも見てちょうだい。ほら、とってもかわいいでしょう? わたしにしか着こなせないドレスよ。たくさんの花に囲まれているみたいでしょう?」
フェリクスの意識をこちらに戻そうとロザリアはくるくると回転してスカートを広げてみせる。彼女の言う通り、確かに今日の彼女は花束に差し込まれた一輪の花のようだ。
「暴れると迷惑をかけるだろ」
狭い場所で大胆な動きをするロザリアを止め、フェリクスは怪訝な顔でこちらを見てきた数名に詫びの視線を軽く送る。
「ふふ。いいじゃない。フェリクスは皇帝なんだから。あなたの言うことがこの世のすべてよ」
「そんなわけないだろう。暴君のように言うな」
「そんなつもりはないわ。ただ事実を言っただけ。皆、あなたに首ったけよ。フェリクスの指示だけが世界を変えるって。ふふ。まさかフェリクスがここまで支持されるなんて驚きだわ。でも当然かもね。あなたは魅力的すぎるもの」
動きを止めるためとはいえ一瞬でも腰に手を添えられたロザリアはそのままどさくさに紛れて彼の胸に身体を預けていく。
「ロザリアは俺が皇帝になったことに不満だったんじゃないのか」
「ええそうよ。不満しかないわ。でも、皇帝の恋人だなんてよく考えればとても名誉なことだもの。なら、その特別な頂きを味わうのも悪くないかなって思って」
どんどん体重を傾けてくる彼女が頬に唇を寄せようとしたので、フェリクスは顔を背けてそっと姿勢を直す。支えがなくなり、バランスを崩したロザリアは前に少しつんのめった。
「地位は味わうものじゃない」
フェリクスが冷えた声でため息とともに言葉を吐き出すと、ロザリアはむっと頬を膨らませてフェリクスに詰め寄る。
「なによ。前は地位なんてなかったも同然のくせに。わたしより上に行ったからって、偉そうなことを言わないで。あなたが皇帝になれたのだって、可哀想なフェリクスたちを拾ってくれたミュドール伯爵のおかげなのだから」
「分かってる──俺は、もともと力なんかないってことくらい」
「そこまでは言ってないわ。フェリクス、あなたは奇跡の産物だもの。この極上の顔は誰も持ち得ない才能だわ。それだけでも十分でしょう。この顔にきっとミュドール伯爵も惹かれたのだから」
ロザリアの指がフェリクスの顔を舐めるように這う。フェリクスはまた顔を逸らしてそれを振り払った。
「やめろ。そもそも俺たちは恋人じゃない。友人だろ」
「照れないでフェリクス。あなたの気持ちは分かっているわ。わたしのことが大好きで堪らないんでしょう? 恥じらうことなんかないの。わたしはあなたのものなんだから」
「違う。君は君のものだ。これまでちゃんと言わなかった俺も悪い。そのせいで勘違いさせていたのなら謝る。が、君を好きだと言ったことは一度もない。友だちとしか見れないんだ。君のそれとは違うだろう。俺は君の想いには応えられない」
「そんなの嘘。フェリクスおかしいわ。前はわたしを傷つけることなんか一言も言わなかったのに。この前だって──そうよ。おかしい。あの女が現れてから──フェリクス、あの女に誑かされているのよ。騙されてるわ。だってあの女は突然あなたの傍に現れたんだもの」
ロザリアの顔に禍々しい光が差し込む。ぶつぶつと呪詛のように呟かれた彼女の言葉にフェリクスは顔をしかめた。
「あの女──? まさか、サディアのことか」
「ジーノ第二号の女に名前なんてあったかしら」
「彼女にも名前はある」
「ならそのサディアよ。あの女、あなたに取り入ってその地位を揺るがす気よ。見るからに貧乏そうだったもの。きっと内部に入り込んで財産をすべて食い散らかすのだわ。贅のあまりを尽くし、帝国を崩壊させるつもりなんだわ」
「彼女はそんなことはしない」
「どうしてそう言い切れるの? ミンカから彼女の部屋が変わった話を聞いたわ。ほかの使用人とは扱いが違うじゃない。彼女の何が特別なのよ」
「ジーノの補佐だから彼の近くに置いただけだ。何も扱いが違うわけじゃない。皆、それぞれの仕事に適した環境に身を置いてもらっているから──」
「おかしいわ‼ そこって、あなたの部屋のすぐ近くでしょう? フェリクス、まだ彼女と出会って半年も経っていないじゃない。たったの数か月よ。わたしの方が付き合いが長いのに──わたしは部屋にも入ったことない……ねぇ、わたし、あなたを心配しているの。まさか、彼女のことが好きなの?」
ロザリアがフェリクスの腕をがっしりと掴む。衣服をぐいぐいと引き裂きそうな指先には尋常ではない力が込められていた。
「そういう話じゃない。ロザリア、頼むから落ち着いてくれないか。皆、何事かと怯えている」
「はぐらかさないで‼」
フェリクスが宥めようとするとロザリアは喚きながら片足でダンッと力強く床を踏みつけた。どすの利いたヒールの音が静かな弦楽の演奏を破って会場に鳴り響く。彼女の声に驚いた楽団のリズムが一瞬だけ乱れた。




