27 美しいあなた
フェリクスの指示で個別任務に取り掛かったジーノと別れたサディアは自室に帰る途中で足を止める。服のほつれに気が付いたのだ。袖の縫い目がほどけかけている。
部屋に戻ったら早速縫わなくては。
そう考えたサディアの目の前に鮮やかな長着を帯で締めた出で立ちのミンカが姿を現した。足音一つ聞こえず、顔を上げればすぐそこにいた。彼女を見たサディアは驚きでしゃっくりのような声が出てしまう。
「あら。ほつれてしまったのね」
サディアの間抜けな声とは真逆の清廉な声がクスリと笑った。ミンカはサディアの驚いた顔を一瞥し、糸が垂れ下がった袖に視線を移す。
サディアの視線もまた下へと向かう。ミンカの青と赤の布が重なり合うスカートの裾は金魚の尾を思わせる形をしており、中央のスリットからは麗しい脚が覗く。
「いつもはジーノが傍にいるでしょう。彼はどうしたの」
「今、彼はフェリクス様に個別で仕事を任されています」
ミンカの問いにサディアはハッとして答える。つい彼女の脚に見惚れてしまっていたのだ。
「そうなの。ジーノならこれくらいさっさと縫ってしまえるのに。彼、裁縫道具を持ち歩いているの。肝心な時に留守だなんて」
ミンカは宮殿のどこかにいるジーノを探すかのように視線をきょろきょろと散らす。
「あなたを一人にさせることはないと思っていたけれど、今のあなたを見るとそうでもない様子ね。それとも、兄様たちの気が変わったの?」
辺りを見回した最後にサディアに視線を戻したミンカは妖艶な微笑みを湛えた。彼女の言葉にサディアは一瞬どきりとする。ミンカはフェリクスのシマリス現象も知らないはずだ。つまりはサディアの事情も知らないということ。しかし彼女の見立てはまさに正解と言える。決して単独行動を許さなかったジーノですら、最近はサディアが一人になることを許す時間が増えたのだ。
まだダリアニの情報を得られるほど強固な信頼を得たわけでもない。が、サディアを見る二人の目は確実に変わってきている。
サディアが何も言えずにどぎまぎしていると、ミンカは口元を手で隠してくすくす笑い始める。
「慌てなくていいわ。わたしも驚いているの。あなたは前にエリエ工房の帽子を届けてくれたはず。その時に会ったでしょう。次に会うのはまた帽子を届けてくれるときかと思えば、それよりも早く兄様たちの隣に並んでいたものだから。まさか、使用人として再会するなんて思いもしなかった。あなたはどう? あの時に、もうここで働くことは決まっていたの?」
「え──えと……」
「ふふ。こんなところで立ち話しているのもなんだから、あなたをわたしの部屋に招待してもいいかしら。そのほつれ、わたしが直してあげる」
「えっ。でも、そんなこと──ミンカ様にはさせられません」
突然のミンカの誘いにサディアの声が裏返った。が、首を横に振って断るサディアの返答などよそにミンカはサディアの手首をそっと握りしめる。柔い圧が手首を拘束し、サディアの胸は瞬時に縮こまる。ミンカの柔らかな指の感触が服越しに伝わり、妙に緊張してしまったのだ。
「わたしには何も出来ないとでも? そんなことないから安心して? 裁縫は得意な方なの。自分で服を作るのも大好き。趣味の一つと言ってもいい」
「いえ……っ、そういうことではなく──‼」
慌てるサディアの手を強引に引き、ミンカは無邪気に笑う。華奢な体型からは想像もつかないほどの強い力に引っ張られ、サディアは問答無用でミンカの部屋へと連行された。
ミンカの部屋は三階の大扉の向こうにある。扉を抜けるとピンクベージュを基調とした華やかな空間が広がっていた。見ているだけで心が踊り出しそうなほど優美な部屋なのにどこか心休まる雰囲気が漂っている。窓際に置かれた香油の香りが充満しているせいだろうか。
初めて入るミンカの部屋の広さにサディアは思わず感嘆の声を漏らす。本棚は表紙の色別に整理整頓され、可愛らしい雑貨が所々に飾られている。中でも一段と美しく目を引いたのはピンク色の水晶玉だった。艶やかな輝きに満ちた水晶玉は本棚の中でじっと佇んでいる。見つめていると、まるで妖精と目が合っているようだった。
部屋の装飾に圧倒され言葉を失ったサディアにミンカはクローゼットから選んだ服を差し出す。
「じゃあ、まずは着替えないと。着るものはこれね。向こうの部屋で着替えてきてくれる?」
「着替え、ですか?」
「ええ。わたし、人が着ていると針を通せないの。怪我をさせてしまったらたまらないもの」
ミンカが渡してきたのは真白のドレスだ。ふんだんにあしらわれたフリルが幾重にも連なるそのドレスは、受け取っただけで身体が前のめりになるほどに重い。形容するならば生クリームやフルーツで美しく緻密に盛られたケーキのようだ。
裁縫のための仮の服にしてはあまりに贅沢な造り。サディアは困惑した表情でミンカにドレスを返そうとする。
「こんな立派なドレス、私には着る資格がありません。汚してしまったら大変です。捨ててもいいくらいの服で私は十分ですので」
「何を言っているの。わたしがそんな服を持っているわけないでしょう。捨てる服なんてないの。すべて作り直しができるのだから。これも前に別の服を作り直したものだから、遠慮せずに着てちょうだい」
ドレスをサディアに押し返し、ミンカは彼女の身体をくるりと回転させる。
「さぁ、着替えていらっしゃい。きっと似合うから」
「み、ミンカ様──っ」
またしても強引に背中を押され、サディアはあれよあれよと小部屋の中に放られる。サディアが逃げぬよう若干の圧を感じる微笑みを浮かべた後でミンカは小部屋の扉を閉めた。
「そんな……」
もうこのドレスを着るしか選択肢は残されていないようだ。
ミンカが物置として使用しているであろう小部屋に取り残されたサディアはドレスを見つめてごくりと息をのみ込んだ。
よりによって真白のドレスだなんて。汚してしまったらどうすればいい。
嫌な緊張感で胸がつかえる中、サディアは慎重にドレスの袖に腕を通す。
実際に着てみると想像以上に重く、真っ直ぐ歩くだけでも大変だった。裾は床につき引きずってしまっている。やはりミンカと自分の体格は大きく異なるらしい。きっと彼女であれば、こんな風にドレスに着られることなくさらりと着こなしてしまうのだろう。
「あの、ミンカ様……着替え終わりました」
小声で扉の向こうに声をかけ、サディアは肩をすくめて扉が開かれるのを待つ。彼女にドレス姿を見られるのが恥ずかしいのだ。鏡がないので分からないが、サディアはなんとなく自覚していた。不相応なドレスに身を包んだ自分は華やかさの欠片もなく、むしろ無様に見えることだろうと。
扉が開かれ、絵に描いた以上の美人がひょこっと顔を覗かせてくる。
「フフ。思っていたより素敵。期待以上ね──ほら、こちらにいらっしゃいな」
ドレスに着替えたサディアを見たミンカは、勿体ぶるように扉を開けてから彼女を手招く。サディアは恐る恐る小部屋を出て、脱いだ服を腕に抱える。
「こちらはいかがいたしましょうか」
「適当に置いておいてくれる? 服は後で直すから。今は、もうどうでもいいの」
「──え?」
ほつれた服には目もくれず、ミンカは香油を指先につけて両手を絡め合う。手を潤しているらしい。ミンカの返事にサディアがきょとんと瞬きすると、彼女は口角を緩やかに持ち上げ怪し気に微笑む。
「わたしね、あまーいケーキが大好きなの。しっとりとしたスポンジにふわふわのクリームが重ねられ、艶やかなフルーツが彩る。ふふ。とても愛らしいと思わない? わたしを食べて、ねぇ、美味しいよって、わたしたちを誘惑するのよ」
「あの……ミンカ様?」
ミンカの声の調子はとても楽しそうだった。が、その表情はさっきまでの優雅なそれとは違う。いたずらな眼差しは歓喜の時を目前にした小悪魔のようだ。色香を帯び、ふつふつと湧き上がる興奮に堪えているようにも見える。
「ねぇ、サディア。あなたは一体何者なの? ただの帽子屋の手伝いではなさそう。だって、あの神経質な兄様が誰にも言わずに雇った人なのだから。本当に使用人なの? 不思議な人。ふふ。あなたが誰だか、教えてくれる? いいえ──わたしが見つけてあげる」
一歩足を前に出したサディアは高いヒールの靴を脱ぐ。もう片方の足も前に出るなり靴から離れた。
「ミンカ様──これは──」
一体何を企んでいるのか。
服をどうでもいいと言った彼女の目的が分からず、サディアは混乱したままちらりと窓の外を一瞥した。そろそろ日が暮れる。ミンカの思惑がなんだろうと、もうこの部屋を出なくては。
「ミンカ様、やっぱり私、服は自分で直します。あまり長居しては失礼ですよね。あの、ドレス、貴重な機会をありがとうございます。でも、部屋に戻らないと──」
「ドレスに触らないで‼」
一歩一歩、獲物をスコープに捕らえたかの如く黙ったままサディアに近づいてくるミンカが突如として声を張り上げた。急いで着替えようとサディアがドレスに手をかけたからだ。
やけに鋭利なミンカの声に驚いたサディアは思わず動きを止める。
「それを触るのはわたしの役目。わたしだけの、特権なの」
「ミンカさ──」
「しー。喋らないで。わたしに任せていればいいから。あなたのこと、隅から隅まで探してあげる。大丈夫、怖くないわ。わたしが、あなたも知らないサディア・クィンスのことを見つけてあげるから」
「ミ────っ──あ、の……っ」
サディアの唇を塞いだミンカの人差し指は、彼女の輪郭を撫でた後で首筋へと回っていく。途端にゾクゾクとした感覚が身体を走り、サディアはびくりと肩を跳ね上げる。サディアの大袈裟な反応がおかしかったのか、ミンカの頬が柔らかく綻ぶ。
ミンカの指先から漂う濃厚で甘い上品な香りが脳天まで届くと、視界に星が見えた気がした。
もう片方のミンカの手が器用にドレスのリボンを解き始める。
「ミンカ様っ! じ、自分で脱げますので……っ‼」
「だめ。わたし、愛らしく盛られたケーキがぐちゃぐちゃに崩れていくところを見たいの。儚くて、無様で、虚しくて──とても、可愛いのだから」
ミンカの吐息が耳元で響き、サディアはその声を聞いてしまった恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして目を閉じる。が、ミンカから顔を背けた瞬間に見えた空の色に今度は絶望が緊張に勝っていく。彼女の魅惑からは逃れられない。というより、逃げることを許してくれない。けれどこのままでは──
ミンカの指先がサディアの鎖骨を撫でたところで、雷鳴が落ちたかのような衝撃音が部屋に響き渡る。




