26 すこしずつ
鷲の一件以来、ジーノの態度が少しだけ変わった。
一緒に働くのであれば。そう言葉にした通り、以前は触れることも許されなかった機密書類をフェリクスに届けることも任せてもらえるようになった。
また、できることが増えただけでなく、補佐であるならばサディアも政治や軍事の話を学ばなければと、帝国の取り組みなどを丁寧に教えてくれた。
自分を部下として認めてくれた彼の期待に応えるべく、サディアも部屋に籠る夜中はその日に学んだことを復習する時間に充てるようになっていった。
今日もまたジーノは届いたばかりのダシティアの研究報告書の詳細を噛み砕いてサディアに教えた。密かな楽しみとなったジーノの講座を終え、サディアは彼とともに部屋を出る。
「ダシティア様は研究熱心な方なのですね」
まだ難しくて全容は理解できなかったが、彼女の覚悟は伝わってきた。サディアは必死になって書き留めたメモを読み返しながら廊下を歩く。
「前を見て歩かないと危ないですよ。誰かが不意に走ってくることもありますから」
「はい。気をつけます」
ジーノのささやかな注意にサディアはハッとしてメモをポケットにしまう。すると、ジーノの足が見えない壁にぶつかったかのように急停止する。本当に誰かが走って来たのか。サディアは険しくなったジーノの表情に向けた目を正面に戻す。
彼が見つけた人物が誰だか分かるなり彼の浮かない表情にも納得がいった。
「あら。そろそろおねむの時間なの?」
二人の前に現れたのは可愛らしいドレスに身を包んだロザリアだった。花飾りまで付けていて、色使いのせいか今日の彼女は一段と目をチカチカと眩ませる。
「最近、夕刻に来ることが多くなったんです。彼女も知恵をつけた」
サディアにしか聞こえない声量でジーノがぼやく。サディアが横目で彼を見やると、彼は固い表情をなんとか崩し、作り笑顔を準備しているところだった。
「ロザリア様。じきに夜になります。こんなところにいてはお父上が心配なさるのでは?」
「平気よ。このくらいの時間ならまだお父様も文句を言わないわ。従者を一人増やしたの。だから少しくらい遅くなっても問題ないわ」
そう言って可憐に笑う彼女の言葉の裏には万が一にでも賊に襲われた時には増やした従者を盾にすればいいとの魂胆が窺える。
「それより。前にお願いしたのにちっともフェリクスに会わせてくれないじゃない。やっぱりあなたは役立たずなのね」
「彼女のせいではありません。本来、陛下に会うには前もっての約束が必要です。優先順位もございます。お父上の仕事を知っているのであれば、ロザリア様もその仕組みは理解されているでしょう」
ジーノが一歩前に出て朗らかに言い放つ。優しい声だが相手を強く突き放す冷たさも感じられた。
「なら余計におかしいじゃない。フェリクスがわたしを後ろに追いやるなんて。前の夕食はただのまぐれで、本当は彼女、そこまでの力なんて持っていないのでしょう。フェリクスになんの影響力もなさそうだもの」
「ロザリア様。少し言葉を慎んでいただきたい。ここは宮殿です。陛下は従者に対してそのような言葉を望みませんよ」
「ふん。それはあなたたちの願望にすぎないのではなくて? でもいいわ。フェリクスが使用人に情があるというのなら、まだあなたは使えるはずってことよね。そんな不幸そうな顔をしているのだもの。きっとフェリクスは憐れんで、またあなたの言うことに耳を貸すわ」
ロザリアは腕を組んでニヤリと笑う。愛らしいはずの笑顔に邪悪な思惑が混じっていた。
「今度、お父様主催のパーティーがあるの。もちろんフェリクスも参加する予定よ。そこにあなたも出席すればいいわ。どうせジーノが来るのでしょうけれど、たまには珍しい顔がいた方が面白いもの。そこでわたしがフェリクスと二人きりになれるように協力してくれないかしら。ジーノは絶対に許してくれないの。でもあなたなら、懸命な乙女心を分かってくれるはず。仮にも女なのでしょう?」
「いけませんロザリア様」
「いいじゃない。彼女も変わりのない日々に退屈しているはずよ。眠いからって断るのは、あまりにも幼稚じゃない」
気づけばジーノからは笑顔が消えていた。これは視察の時と同じ流れだ。彼女の横暴な言い分に余裕がなくなったのだろう。
「ねぇどうする? どうせパーティーなんて縁がないのでしょう? こんな機会滅多にないわよ。せいぜい人生の思い出でもつくったら?」
サディアを煽るロザリアはジーノの盾をすり抜けて彼女にぐっと顔を近づけた。柑橘系の香水がツンと鼻先を刺激する。
「私は──」
ごくりと唾を飲み込むと喉に痛みを覚えた。つい最近飲んだばかりのあの薬の感覚が想像するだけで鮮やかに蘇ってくるのだ。何も口にしていないというのに動悸がゆるやかに激しさを増していく。
「フフ。そんなに悩むことがある? たった数時間、楽しい時を過ごせるだけなのに」
もうあの薬は飲みたくない。次に飲めば身体が耐えられる保証もない。けれどここで断ればまた怪しまれる。本音と建前がいがみ合い、サディアはパニックを引き起こす一歩手前まできていた。ジーノが断ろうとしてくれているが、当然ロザリアは耳を貸さない。これはサディアが首を縦に振るまで許してくれなさそうだ。
胸を渦巻く恐怖心をどうにか抑え込み、サディアが口を開きかけた瞬間──
「悪いがその誘いは受け入れられない。彼女には仕事を覚えてもらうことに専念してもらわなければ」
上階からフェリクスの凛々しい声が響き渡る。三人が声の方向を一斉に見やると、フェリクスは威風堂々とした出で立ちでこちらを見下ろしていた。
「フェリクス‼ 会いに来てくれたのね」
彼を見るなりサディアに向けていたロザリアの意地の悪い笑顔は甘ったるいものへと豹変する。両手を頬の横で握りしめ、嬉しそうにぴょんっと跳ねた。
「ロントン氏主催のパーティーの出席者はもう前に回答しただろう。今更変えるつもりはない」
颯爽と階段を下りてくるフェリクスは早歩きでロザリアとサディアの間に入り込む。
「何よりジーノがいれば十分だ。今の彼女はあの場の話に追いつけるほどの知識がない。まだ学んでいる最中なんだ。遊ぶよりも学習に時間を充てるべきだろう」
「えーえ? つまんない。彼女にも華やかな場に行く権利はあるはずよ? いつもがんばって働いているのでしょう? 息抜きに楽しんでもらいたいと思っただけなのにぃ」
フェリクスの手を掴んでぶらぶら揺らしながらロザリアはさっきとは違うことをさぞもっともかのようにさらりと言う。
「気持ちだけ受け取っておこう。サディア、ジーノ、お前たちはもう下がれ。俺は少し、ロザリアと話をするから」
「えっ」
三人の声が重なった。一人は歓喜そのものだったが、あとの二人は驚きで反射的に出たものだった。
「彼女の相手は俺が引き受ける。もともと俺に用があったのだろう。ロザリア、サディアをパーティーに行かせることは認められないが、その代わりに今、君の話を聞こう。それで構わないか」
「もっちろんじゃない‼ それ以上何を望むというの?」
「俺の従者たちを気遣ってくれた礼だ。長く時間は取れないが──」
「時間よりも何をしたかが重要でしょう? ねぇ、わたし、フェリクスの部屋に行きたいな」
「それは無理だ」
「ええー? いじわるだなぁ」
ロザリアはフェリクスの腕にがっしりと自分の腕を巻きつけ彼に寄りかかる。フェリクスが歩き出すと、ロザリアもまた二人に背を向けた。
「今のうちです。サディア、早く部屋に戻りますよ」
「はい。急ぎましょう」
ジーノに急かされサディアも慌てて階段を下りる。彼が人間になっているということはもうほとんど時間がない。ほぼ駆け足で、二人はサディアの部屋を目指す。
「それにしても、陛下がロザリア様に面と向かってあんなにきっぱりと意見するとは驚きましたね」
「これまであまりなかったのですか」
「私の記憶にはほとんどありません。フェリクス様は、やはりまだまだ可能性溢れるお方だ」
感心するジーノの声は心なしか嬉しそうだった。
皇帝が自分の人生捧げて仕える価値のある人間だと再認識したその瞳は、爽やかな喜びに満ちている。




