23 はじめての
視察から二日が経ってもジーノは全快とは言えなかった。部屋から出すと無理をしてでも働きかねないのでフェリクスは彼に追加で一週間の休暇を命じた。
彼が不在の間は主にサディアがフェリクスの世話を務めた。ジーノとは違い難しい政治や軍備の話などは手に負えないため自分に出来る範囲のことでしか力にはなれなかったが、それでもサディアは懸命に彼に尽くした。
彼のために働くことは苦ではなかった。それこそ目標を定める前は身体を動かす原動力が分からず戸惑ってはいたが今は違う。
視察の帰り道に聞いた彼の言葉が彼女を突き動かすのだ。
フェリクスから信用を得ることが彼女の歯車を動かす一番の動力となる。そのきっかけを掴んだのだ。まだダリアニに辿り着くまでには至らないが、少しずつでも彼の信頼を集めれば道は開ける。
「フェリクス様、私を呼びましたか」
すでに一日の仕事を終えていたサディアはフェリクスの部屋の扉を叩いて尋ねる。自室に戻る途中で衛兵から彼が自分を呼んでいると止められたのだ。
「サディア。来てくれたか。入ってくれ」
「失礼します」
つい先刻去ったばかりの部屋に再度足を踏み入れサディアは一礼する。
「フェリクス様、もうすぐ日が暮れます。私はそろそろ部屋に戻らないと──」
「少しくらいはいいだろう。フクロウになったら君を部屋まで送り届けるから。心配ない。誰にも見つからない道を知っている」
「そこまで言うのであれば……あの、何か不備でもありましたか?」
フクロウを人に見られるかもしれない危険を犯してまで自分を呼び出す目的がサディアには分からなかった。彼は怒っている様子もないし、特段事件があったようにも思えないが。
「前に言ってただろう。君は酒を飲んだことがないと」
「はい。グラハムも私も一滴も飲みません」
「グラハムは好んでのことだ。が、君はまだその選択にすら辿り着いていない」
シマリス姿で部屋を駆けた彼は中央の机に置かれた瓶の隣に並ぶ。さっき部屋を出た時には何もなかったのに。いつの間にどこから持ってきたのか、見たことがない薄桃色の液体が入っている。
シマリスは机から下り、窓の外を一瞥する。気づけば霧が彼の身体を包み込んでいた。
「よし。小さい身体でこれを運ぶのは苦労したが、時間が勿体ないから仕方がない。これは初心者でも飲みやすい酒だ。サディア、君も飲んでみるといい」
人間姿に戻ったフェリクスがグラスに酒を注ぐ。思いがけない展開にサディアは落ち着きなく周囲をきょろきょろと見回す。
「え? でも……私、本当に飲んだことがなくて──ほ、ほんとうに、それは飲んでいいものなの? 身体を悪くしたりしない?」
「身体に合う合わないは飲んでみないと分からない。だが酒を薬という人もいる。君が飲んでいたあの薬よりは美味いだろう。ま、どう捉えるかは君次第だ」
「く、薬?」
サディアにグラスを渡す前にフェリクスは自分用に用意したグラスで先に飲み始める。薄桃の液体が彼の喉に流し込まれると、甘く気怠い香りがふわりと舞った。
「ほら、時間がないぞ」
今度は君の番と言わんばかりにフェリクスはもう一つのグラスに酒を注いでサディアに差し出した。グラスが目の前に来ると先ほどよりも酒の匂いが強くなる。鼻を抜ける芳しさに思わず脳がくらくら揺れた。パティオでニコラが飲んでいたものよりアルコール度数は薄そうだがそれでも間違いなくこれは普通の飲み物ではないと分かる。
恐る恐る手を伸ばし、サディアは差し出されたグラスを受け取った。見下ろすと、薄桃の液体がさらさらとグラスの中を揺蕩っていた。
「毒ではない。無理にとは言わないが、せっかくグラハムの目がないんだ。経験してみるのも悪くはないだろう」
「酔っ払ってしまわない?」
「それくらい少量なら酔うにも酔えない。人にもよるが。さぁ、どうする」
グラハムは酒を下等な生物が飲むものだと罵倒していた。けれどニコラはそれを美味しそうに飲み、いつもご機嫌になっていた。グラハムの言い分もニコラの趣向もどちらも間違いではなく、極端な判断を下す必要などきっとないのだ。しかし、未知のものを口に含むのには勇気がいる。
サディアがフェリクスをちらりと見やると彼は好奇心を滲ませた目元を緩める。彼は短気な人間ではないから断っても怒ることはないだろう。しょうがないと言って自分で飲むだけだ。けれどそれではどこかつまらない。胸にぼんやりと灯る好奇心がサディアの心をつつく。
せっかく彼が用意してくれたのだ。一杯くらい飲んでみても罰は当たらないはず。
本当のところサディアもニコラの好物に興味を示し、体験してみたいと思っていたのだ。
「じゃあ、一口だけ……」
意を決し、サディアはグラスを口元に運ぶ。グラスを傾ける手が緊張で震えた。仄かだった香りが強烈な塊となって鼻を塞ぐ。
「──けほっ、んんんん……うう?」
一口で酒を飲んだサディアは急いでグラスを口から離す。ぴりぴりと味蕾が痺れる中、彼女はグラスに残った水滴を見つめて不思議そうに首を傾げた。
「苦い……」
こんなに愛らしい色で、お菓子のように甘そうなのに。
サディアは想定していなかった酒の味に歯をむき出して苦い顔をする。ニコラはこんな独特な味を楽しんでいるのか。
サディアが酒を睨みつけて更に首を捻るとフェリクスの笑い声が軽やかに部屋に広がっていく。笑っては悪いと抑えていたのだろう。が、サディアの百面相に耐え切れずついに吹き出してしまったのだ。
「サディアの口には合わなかったか。悪かった、まさかそんな反応をするとは」
「フェリクス様、もしや私の反応を楽しんでいるのですか」
「悪い。そんなつもりじゃ……ふふ」
否定しながらも彼の笑いは止まらなかった。すっかりツボにはまってしまったらしい。胸がすくような晴れやかな笑い声を奏でる彼の目尻には微かに涙が浮かぶ。泣くほど笑うとはこういうことか。あまり見ない光景にサディアは前向きな涙の意味を初めて知る。
彼がここまでの笑顔を見せる人間だとは思わなかった。少し恥ずかしいが嫌な気分はしない。彼の知らない一面を見つけた気がしたからだ。
彼の笑顔に目を奪われている間に、視界が霧に包まれて低くなっていく。手から離れたグラスがコトンと床に落ちた。絨毯の上に落ちたのが幸いし、辛うじて割れることはなかった。
「ホー」
グラスを落としてしまったことを謝ると、フェリクスは「気にするな」と言ってグラスを拾う。
「さっきも言ったように酒を薬だと言う人もいるが、やはり薬は万人に美味いものではないな」
「ホー」
「酒が病や怪我に効く根拠はない。そう思って飲んだ方が効く気がするってだけだ。でもそれは一時的な誤魔化しで、麻痺にすぎない。酒を飲むことで余計に深く心を傷つける場合だってある。傷も心も、癒すのは簡単なことではないようだな」
フクロウがフェリクスの言葉に興味津々な瞳を向けると彼は自分の見解を教えてくれた。
「ま、酒は娯楽としては嫌いじゃないけど。何事も過剰に頼るのは良くないということだろう」
グラスを取って立ち上がったフェリクスはもう一杯酒を飲んでから瓶を閉じた。
「部屋まで送ろう。念のため聞いておくが、酔いは回ってないか」
「ホー」
「良かった。酔った次の朝は気分が良いとはいえないからな。仕事に支障をきたす」
フェリクスに促され、サディアは彼の腕まで飛び上がる。フェリクスはフクロウを隠すために適当な布を手に取り部屋を出た。
隠し通路があると言っていたが、布で隠されては視界が限られてしまう。彼がどこを歩いているのか分からぬまま、サディアは先ほどの彼の話を思い出す。
グラハムが美味しいとも言えない酒を嫌う理由はなんとなく分かったが、フェリクスの言うこともまた一理あると納得していたのだ。
酒の後味が良いとは思えない。つまりは、薬だと思って飲んでも治癒は一時的で長くは続かないのと同義。癒しは簡単ではない。
けれど、束の間だけでも痛みを忘れることが出来るなら。ごくたまに、酒を飲んでみるのもいいのかもしれないと。




