2 夜帝様
サディアの顔が二人の視線を追いかけて斜め上を向く。周りの人間たちも見つめる先は皆同じだった。
今日はエンダロイツ帝国下の国々が一斉に祭りを行う通称「光の日」の初日。帝国の安寧と繁栄が長らく続くことを願う祭りでは、国中が連日お祭り騒ぎとなる。
サディアたちの暮らすマニーユ国は皇帝の本拠地となる主要国で、ここで皇帝が祭りの開始を告げることによって周囲の国々が絶え間なく色を変える空のごとく祭り一色に染められていくのだ。
祭りの幕開けとなる皇帝の声を聞こうと、マニーユ国の中心に位置する帝都マニュには多くの人が集まり街中にランタンを灯してその時を待つ。
人々が集うのはマニュで最古の城とされるカダリア城前の広場だ。
カダリア城に今は誰も住んでいない。けれどかつて帝国が成立する前には旧マニーユ国の軍師が住んでいたという。カダリア城そのものはこぢんまりとしているが、広場の中央にある長い階段を上った先にあることで実物以上の迫力を持つ。
城の造形は現在の建築様式とは異なっている。長い歴史を見守ってきたこのカダリア城は今や帝国の象徴のひとつだ。母国の物なのにどこか異国情緒の溢れる古城の前で皆は瞳を輝かせて非日常の雰囲気を存分に楽しみ、高揚に浸る。
皇帝が現われるのは城に設けられた謁見用のテラスだ。
ランタンの灯が消えたということは皇帝の登場はもうすぐ。
人々は階段下からテラスを見上げ、唯一の明かりで照らされたその場所に意識を集中させる。
滅多に人前に姿を現さない皇帝への期待が高まり、広場は抑えきれない熱気に包まれていた。
「夜帝様を見るなんて久しぶりだな。去年の祭り以来か。元気にしてたかな」
「元気も元気でしょう。トビアス、何を言ってるの」
テラスを見上げるトビアスの呟きにニコラがくすくすと笑って肩を揺らす。
「なんで分かる?」
「当然。宮殿には夜な夜な女たちが入り浸っているんだよ? 元気ないわけないじゃん」
「ああ。なるほど。そりゃ心配なさそうだな」
ニコラの嫌味たっぷりな微笑みにトビアスは苦虫を嚙み潰したようにぎこちなく笑い返す。
「──ねぇ。そういえば、疑問だったんだけど、彼はどうして夜帝って呼ばれているの?」
二人の会話を聞いていたサディアはきょとんとした顔で首を傾げる。
「ああ。そっか。サディアはまだここに来たばかりだものね。よく知らないか」
「ええ。前は帝国に属さないところに住んでいたから──あまり皇帝のことも知らないの」
一か月前にこの街に引っ越してきたばかりのサディアを気遣い、ニコラはコホンと咳払いをした後で得意げな顔をする。どうやら皇帝のことを話してくれるようだ。
「皇帝の名前はフェリクス・ミュドール。まだ若くて、エンダロイツ帝国の歴史の中でも最年少で皇帝になった人物だって。私たちと歳もそう変わらない。だけど先の貴族選挙で勝利して正式に皇帝に選ばれたの。皇帝になって二年が経ったけど、彼のおかげで治安も良くなったし、帝国下の王族たちへの締め付けも緩和されて各国の発展も目ざましい。今のところ彼の成績は上々って感じかな」
「灌漑をつくることで人工的に水を供給、循環させて、渇水の地でオアシス農業も成立させたしな」
トビアスが補足を挟んだのでニコラは「そう」と頷いてから話を続ける。
「それに何より彼の初めての仕事、皇帝になって一週間も経たないうちにあの人体売買組織を壊滅させたのが大きかった」
「あれは凄かったな。もう長いこと帝国下に蔓延っていたあの組織が、皇帝率いる少数の部隊にあっという間にやられちまったもんな」
「ほんと。彼らに苦しんだ人は多かったはず。手当たり次第人を攫っていたものね。サディアは知っている?」
「──いいえ。そんな恐ろしい人たちがいたのね」
ニコラの問いかけにサディアは静かに首を振る。
「ヒトの臓器や部位を売るとんでもない組織だったぜ」
トビアスが身を震わせるふりをしながら過去を振り返った。
「それを──今の皇帝が潰したの?」
「ああ。先頭に立ってな。組織の連中は夜に動く奴らばかりだった。まぁ人を攫うんだからさもありなんってところだが」
「皇帝は組織をどうにかするなんてはじめは何も言っていなかったけど。でも厄介だったのは確かなはず。皆が寝ている間に闇夜に紛れて暗躍していたってところかな。目が覚めて飛び込んできた知らせに帝国中が驚いたものよ。夜帝と呼ばれ始めたのはその頃かな。今やぴったりの呼び名だけど」
「ずるいよな、天は一人に対して才を与えすぎだ」
「どういうこと?」
笑いつつも悔しそうに歪んだトビアスの表情の意味が気になったサディアが首を傾げる。彼女の興味に答えてくれたのはニコラだった。
「これから見れば分かるけど皇帝は見た目も結構整っててさ。外見と実績が相まってね、最初は彼に厳しかった勢力も今はすっかり彼を認めてる」
「へぇ。本当に優秀なんだね」
「まぁそうかもね……だけどそんな彼にも欠点はあって──」
「欠点?」
サディアが瞬きをするとニコラは神妙な面持ちで首を縦に振る。いかにも勿体つけた眼差しだ。
「そう。彼、夜は得意みたいなんだけどね──日差しが苦手なのか、事情はよく分からないんだけど、明るい時間には絶対に人前に姿を現さないの。宮殿に籠って、中で出来る仕事をしてるって言うんだけど」
「日光アレルギーって噂だけどな」
「トビアスの言う通り、そういう噂もある。だけど本人が公表してるわけじゃないからあくまで推測ね。で、外に出るときは決まって日が暮れてから。だから皆は彼を夜帝って呼ぶの。最初の印象も大きいけど、きっと彼は主に夜に仕事をするんだって」
「なるほど──それで夜帝って呼ばれ始めたのね」
ニコラの解説にサディアは納得したように目を見開く。
「ふふ。まぁさっきも言ったように毎晩のように違う女の相手してるくらいだから夜は仕事以外もお盛んなんでしょうね。日光が苦手なだけで心配する必要はなさそう。別の意味でも夜帝の名に相応しい人ね」
話しているうちに皇帝の行動に呆れてきたのかニコラは特大のため息を吐いて眉尻を下げた。
「ちなみに、彼の妹もなかなかの強者なんだぜ。なにせ貴族選挙での次点が妹だったって話だからな。妹は昼間も積極的に活動してるし親しみやすさは彼女の方が上だな」
「妹……」
「ああ。ミンカ様だ。兄に似て綺麗な人だぜ」
トビアスはサディアに顔を近づけてそっと囁く。皇帝の妹のことを嬉しそうに話すその表情をニコラには見られたくないようだ。
「多分、彼女も今日顔を出すはず──」
トビアスの声は途中で群衆の大歓声にかき消されてサディアの耳には届かなくなった。何か好奇心を揺さぶる事件が起きたかのような狂気にも似た突発的な歓声につられ、サディアとトビアスは再び城のテラスを見上げる。
煌々とした明かりに照らされたテラスに先ほどまではなかった人影がいくつか揺らめていた。まず最初に姿を見せたのは皇帝の側近や護衛たちだった。次にテラスにやってきた若い女性を見たトビアスが興奮気味にサディアの肩を叩く。
「あれ! あの方がミンカ様だ。いやぁ……いつ見ても美しいなぁ」
トビアスのキラキラした瞳を見た後でサディアはテラスの中央に立つ彼女の姿を見やる。
煌びやかなローズのドレスに身を包んだ皇帝の妹ミンカ・ミュドールは、艶やかな髪を後頭部でリボン型のように結び、残りの髪を細い三つ編みにして背に垂らしていた。
初めて見る独創的な髪型に感心している間もなく、また一段と大きな歓声が広場をうねらせる。
「皇帝だ!」
「ああ。なんて勇ましい……」
「フェリクス様ー!」
雄々しい声。黄色い悲鳴。盛大な拍手。
彼がテラスに姿を見せた途端、広場を包む空気が先ほどまでとはすっかり違うものに切り替わる。
感激で涙を流す者までいる。彼の姿を見た多くの女たちの瞳の色は変わり、男たちの瞳も敬慕に満ちていく。
ニコラに聞いた通り彼の評判は上々のようだ。彼は十分に皆の心を掴んで虜にしているらしい。
夜帝と呼ばれミステリアスな一面を残しているところがまた皇帝と世間との間に一線を画し、彼の魅力の一つとなっているのかもしれない。
雲の上のような人。
まさしく天上に近い場所に立つ彼を見上げ、サディアは彼の姿をはっきりと瞳に映した。
仰々しい服装に身を包んだ彼は一見すると軍人のようにも見える。が、よくよく見ればその装飾たちは壮麗で繊細なものばかり。目を見張るほどに美を追求した大袈裟なくらいの荘厳な服だ。彼が動けば外衣に施されたタッセルの黄金の糸が緻密な輝きを見せた。
妹であるミンカの瞳が晴天を映す青であるのに対し、兄であるフェリクスの瞳は青緑だ。髪の色もミンカのシルバーグレージュとは異なり彼はアプリコットに近いブロンドだった。
きっちりと整えられた髪は後ろに撫でつけられ彼の精悍な顔つきが際立つ。なるほどニコラの表現には納得だ。確かに彼の顔の造形は恐ろしく整っている。華美な出で立ちに埋もれることは一切ない。
美醜に対する人の感情をも完璧に掌握した彫刻家が丹精込めて細部まで計算したような狂いなき美の結晶を彼は生まれながらに享受していた。
あまりの精巧さに黙って真っ直ぐに見つめられては少し怖いくらいかもしれないだ。
どちらか分類すればその瞳は鋭いわけではなく垂れている方なのに、彼の醸し出す独特の近寄りがたい雰囲気がそう思わせてしまうのだろう。
横を向いて妹と話していた顔が正面を向くと、群衆たちは再び歓声を上げて彼らの登場に狂喜乱舞した。
まだ開幕宣言もないというのにもはや祭りは最高潮を迎えている。
「お集りの皆さま」
ミンカの愛らしい声が広場に届くと一秒前までの歓声が嘘のように辺り一帯がしんと静まり返る。
「今日、この日を迎えられたことを誇りに思います。すべては皆さまの営みが健やかであること。それが何よりも帝国の望み。この場を借りて感謝申し上げます」
ミンカが両手を広げて皆を抱きしめるような仕草を見せる。すると一部からは黄色い歓声が上がった。彼女のドレスはスカートの広がりも大人しく、滑らかな曲線を持つ身体の輪郭すれすれを沿っている。ふわりとしたスカートが主流な中で一般的にはあまり見ない目を引く珍しいデザインだ。けれどミンカはそんな異質にすら思えるドレスに決して見劣りしない愛らしさを持っていた。サディアも思わず彼女の愛嬌に惹き込まれる。
ミンカが満面の笑みを湛えると彼女の横に立つフェリクスが一歩前に出た。温かな興奮が漂う広場に僅かな緊張が走る。
「ここに光の日の開始を告げる。皆、今日から三日間は日常を忘れて楽しんで欲しい。が、あまりに愉しんで四日後に後悔することがないように、な」
冗談の一つも言わなさそうな勇壮な出で立ちから思いもよらぬ助言が発せられ、群衆たちは砕けた笑い声を弾ませた。
すると、皇帝の開幕宣言を見計らったように夜空に大輪の花火たちが打ちあがる。
各国から献上された花火はそれぞれ特徴的な色彩を発して夜空を思い思いに彩っていく。
大空が花火で埋まり、視界のすべてが盛大な祝福に包まれる。皆はすぐさま花火に夢中になった。
彼らが楽しそうに笑う姿を見回し、フェリクスは落ち着いた微笑みを皆に振りまいてからテラスを後にした。
花火を邪魔せぬよう颯爽と立ち去る皇帝たちの姿を皆は拍手と歓声で見送る。拍手と花火の音が溶け合い、広場は瞬く間に幻想的な空間となった。
テラスから明かりが消え、再び灯のついたランタンに照らされた群衆の表情はどれも晴れやかで心地の良いものだった。
「じゃ、俺たちも祭りを楽しもうぜ」
「はーい。さっそくだけどトビアス、わたしガッツリしたものが食べたくって」
「はいはい。夜帝様の言う通り食べ過ぎて後悔するなよ?」
「余計なお世話過ぎる。ね。サディアも気になるもの全部トビアスに買ってもらお」
「え? うん。ありがとう、トビアス」
「いいって。気にすんな」
ニコラに手を引かれ、階段を見上げ続けていたサディアの視線が誰もいなくなったテラスから剥がれる。
きっと初めて見る皇帝たちの姿にまだ興奮が引かないのだろう。
隙だらけの表情でぼんやりと余韻に浸るサディアを横目で見たニコラとトビアスは、帝国の新参者である彼女の想いを察して穏やかに笑い合った。