19 咳き込み
ケホ、ケホ、ゲホ──。
広い部屋の中に響く乾いた声にシマリスの表情が歪む。
「陛下、ダシティア様からの招待状、無事に到着いたしました。明日はこちらを必ずお持ちください」
「ああ。ありがとう。しかし、ジーノ──」
「今回許可を頂けたのは陛下と付き添いの二人のみでございます。馬車などは施設の前で控えるようにいたしますので」
「前よりも少し厳しくなったか。患者が増えたとは聞いていたが……。いや、その件はいい。それよりジーノ」
てきぱきとした身のこなしで言葉をかわし続けるジーノをフェリクスが強い語調で呼び止める。さすがのジーノも強調された自らの名を無視するわけにもいかない。
「──はい。何かご不明な点がございましたか」
ぎくりと動きを止め、シマリスに背を向けたまま、ジーノがようやく呼びかけに答えた。
「その声はどうした。ガサガサじゃないか。聞いているだけでも苦しくなる。調子でも悪いのか」
「けほ……いえいえ、少し空気が乾燥しているだけでございます」
「誤魔化すな。どこかで風邪でももらったのだろう。何人かの使用人たちが体調を崩した報告を受けている。ここのところ急に寒くなったからな。無理もない」
あっけらかんとした笑顔を取り繕うジーノの演技はフェリクスには通用しないようだ。いくらジーノが平気な顔をしようと、フェリクスはそんな陳腐な嘘に付き合うつもりはないらしい。
「ロザリアの一件から君は少し気負い過ぎだ。もう少しサディアにも仕事を分ければいいものを」
「しかし陛下、またあのような綱渡りの状況に陥ったらたまりません。私であれば確実です。そもそもはじめから助手など必要ないのですから」
洗濯したカーテンを取り付けるサディアを尻目で一瞥し、ジーノは得意気に鼻を鳴らしてみせた。堂々たる口ぶりではあるが、その声も鼻声だ。
「あれから一週間、ロザリアは宮殿に来ていない。ある意味では効果があった。君に助手が不要なのは承知しているが、たまには違う知見を垣間見るのもいいだろう。働きすぎて擦り減るのは体力だけではない。明日の視察も別の者に頼むから、ジーノはまず体調の回復に努めろ」
「そんな──! 私、まだ働けます。不調なことなどなにも──ゲホッ、ゲホ、コホ……ッ」
「もっと悪化したらどうする。俺に移らないとも限らない。それは避けたい。休んでいる暇などないのだから」
盛大な咳を腕で隠したジーノにシマリスは困ったように笑いながら命じる。まるで童話の中に出てくる挿絵にも似た朗らかな表情だった。
「今日はもういい。回復するまで部屋にいろ。これは命令だ。念のために診察も受けさせる。あとで世話する者を送るから、たまには自分のことだけを考えて過ごすといい」
「…………承知いたしました」
まったく納得していない塞ぎ切った声だったがジーノの首が縦に振られた。
「ではせめて、サディアを部屋に送らせてください。そこまでが私の一日の務めですので」
「もちろんだ。サディア──君は、また明日も来てくれ」
「はい。フェリクス様の仰せの通りに」
サディアが深々と頭を下げるとフェリクスとジーノは目を見合わせて瞬きをした。彼女がこんな恭しい態度をとるのは初めてだ。それまでは借りてきた猫のようにただ大人しく、礼儀作法も最低限のものだった。彼女が慣れない環境に身を置いていることを承知しているためか、そもそも彼女の所作に高望みはしてこなかった。が、宮殿に来てジーノや他の使用人たちを見るうちに真似るようになったのだろうか。
フェリクスたちには彼女の心の変化が読み取れなかった。しかし大枠では間違ってはいなかった。フェリクスの信頼を得ようと目標を定めたサディアは、出来る限りの誠意を見せようと心に決めていたからだ。
「あなたを一人で陛下の傍に置いておくのは気が乗らないですね」
サディアの部屋に向かう途中、鼻声のジーノがつまらなそうにぼやく。
「懸念に思うのは当然です。でも、同じような過ちは犯しませんから。どうか、信じてください」
「さぁどうでしょうかね。やはり心配なので、送り迎えくらいはいたしましょうか」
「それでは休養になりません。風邪が長引いては復帰も遅くなってしまいますよ」
「それは困ります」
「なら、ゆっくり休んでいてください。フェリクス様を傷つけるようなことなど絶対にしませんから」
「なぁに? フェリクスを傷つけたの? まぁ、見た目通り期待はずれの召使ね」
二階に下りる階段の途中で会話に割り込んできたのはロザリアだった。ちょうど上階を目指す彼女は二人の正面に立ち、サディアのことを責めるように睨みつけていた。
「ロザリア様。陛下に会うことはできませんよ。私たちも邪魔になるからと先ほど追い出されたところですから」
すかさずジーノがロザリアを敬遠して先回りの断りを入れる。
「いいわ。今日はミンカに会いに来たの。外で父も待っているから長居はできないし。流行の帽子について話に来ただけだから。最近人気で、なかなか注文が出来ないそうなの。だから優先して案内してもらえないかミンカに頼もうと思っているのよ」
ロザリアの口から出た「帽子」という単語にサディアの目が僅かに見開かれる。もしやそれはトビアスの帽子のことだろうか。宮殿にいて奉公していてはなかなか外の話題に触れることは難しい。友人の活躍を予感したサディアの頭からは先ほどのロザリアの嫌味がすっかり消し去られていく。
「ところでジーノ。あなた風邪を引いているみたいじゃない。フェリクスに移さないでよ?」
「当然のこと。言われるまでもありません」
「ふふ。分かっているならいいの。きっと、その使えない助手の分も仕事が増えて調子を崩してしまったのでしょう。あなたは悪くないわ」
一歩ずつ上品に階段を上がってくるロザリアはサディアの前に立ちはだかってニヤリと意地悪く笑う。
「ああでも。この前の夕食はとっても素敵に過ごせたから、まったくの使い物にならない召使ってわけでもなさそうね。ねぇ、名前は忘れてしまったけれど、あなたにお願いがあるの。またフェリクスに会う時間を用意してもらえないかしら。フェリクスも私に会えてすごく嬉しそうだった。多忙な彼を癒せるのはわたししかいないの。あなたもフェリクスの使用人なら分かるでしょう?」
「ロザリア──!」
サディアに顔を近づけて胃もたれするほどの甘い声でまくしたてる彼女にジーノが苦言を呈そうと声を荒げる。が、虚しくもその声は咳に奪われてしまった。
「ジーノかわいそう。明日の隔離院への視察も、その調子では無理そうね」
「それはあなたが決めることではないですよ、ロザリア様」
「ジーノったら強がるんじゃないの。あ! そうだ。なら代わりに彼女が行けばいいんじゃない? ねぇ、あなたはどう思う? そうすればわたしとの時間を調整する相談ができるじゃない? 道中、どうせ話すことなんてないでしょう? あなたの話はつまらなさそうだもの。そのぼうっとした顔を見れば分かるの」
ロザリアは嬉しそうに手を叩いて小首を傾げる。サディアに向けられた瞳はキラキラと輝き、侮蔑と期待が歪に絡み合っていた。




