18 籠鳥恋雲
ジーノに挨拶をして頭を下げる。彼の足音が聞こえなくなったところで顔を上げれば、今日の仕事は終了だ。
自室に入ったサディアは仕事着のまま柵越しに見える窓の外を見つめた。そろそろ日が暮れ始めるところだ。一晩中ロザリアの相手をしたフェリクスははじめこそぐったりしていたが、ザクロジュースを飲んだことで気が休まったのかあの後すぐに仕事に戻った。
サディアはいつも通りジーノの補佐として彼の仕事を遠くから観察していただけ。昨日余計なことを言ってしまった反省もあり、今日はいつも以上に息を殺して彼らの邪魔をしないようにと務めた。ひとまずのところ一日を無事に終われそうで一安心だ。ロウソクに灯をともし、サディアは瞼を閉じてふぅ、と息を吐く。
あとは夜が明けるまで部屋の中にじっと留まっているだけ。こうも何事もなく日々が終わってしまうとグラハムとの約束に残された時間に少しの焦りを覚える。けれど深呼吸すると僅かながらにも気が休まる。まるでフェリクスにとってのザクロジュースのようだ。
そんなことを考えながら彼のことを思い返していると、せかせかと部屋の中を懸命に駆け回るシマリスの姿が瞼の裏に蘇ってくる。寝る間も惜しんで動き回る彼に自分はどう映っているのだろう。
ふと、今日彼に言われた言葉が耳に響く。ぴくり、とサディアの指先が跳ねた。ちょっぴりの電流が流れたかのような衝撃が柔く身体を駆けたからだ。
彼は言った。自分にとってトビアスたちは友人で、彼らを信用することは何も悪いことではないと。
当たり前のように言い放った彼の言葉はサディアにとって不思議な言葉に思えていた。言語をしっているはずなのにまったく知らない異国の言葉を聞いている気分だった。が、同時に妙に力強く心を掴まれる感覚もあった。彼が何を言ったのか一瞬では理解が追いつかなかったくせに、直後にはその難解な言葉に背中を押されたようだったのだ。
芽生えたばかりの幼い願望を、もしや彼は肯定してくれたのだろうか。彼にしてみればくだらないことだったろうに。サディアはどこか落ち着かない気持ちに戸惑いながら髪を解く。
磨かれていない古い鏡台にぼんやりと自分の顔が映る。浮かない顔をしているのは慣れない感情を整理できていないからだろう。けれど今日、一つだけ確かな目標を見出すことができた。
信頼は悪しきことではない。
ならば自分も彼に信用してもらわなければ。
そうすれば、きっとダリアニへの足掛かりを掴むことができる。
「信頼は、悪くないこと……」
自分に言い聞かせるように呟いた声がぽつりと床に落ちていく。鏡台に懐中時計を置き、サディアはパティオに集う皆の顔を思い浮かべる。友人と呼べる者などこれまで一人たりともいたことがない。彼らを自分の友人と呼んでいいのだろうか。ニコラとトビアスの笑顔が脳裏にぽっと現れると、途端に照れくささを感じてしまった。
サディアの胸が小さな音を立てた瞬間、鼓動に呼応して扉が静かに叩かれる。
「サディア、少しいいか」
フェリクスの声だ。微かに熱を帯びた頬を慌てて冷まし、サディアは急いで扉を開ける──と。
「その姿で、こちらまでいらしたのですか」
視線を下げた先に佇むシマリスに驚くサディアに構うことなく、フェリクスは開かれた扉の隙間から部屋の中へ入っていった。
「ジーノに黙って部屋から抜け出してきた。宮殿の中なら迷うこともないし、万が一には隠れ場所も把握してる。わけないことだ」
「──でも」
前に昼食を食べに行くときは一緒に行動したのに。
彼の飄々とした口振りに疑問が浮かんだサディアだったが、あの時は自分を監視する意味もあったのだと思い直して口を閉じる。
「今日の昼間にグラハムの話をしただろ。それで興味を持ったんだ。随分と徹底した奴のようだから、彼は一体どんな魔術師なのかと」
シマリスは閉じられた扉の前に立ってサディアを見上げる。
「ええと──彼は」
サディアの瞳が柵の隙間から立ち込めてきた霧の大群に向かう。眠りについた太陽が彼の身体を返しに来た。
「彼は、そろそろ三百歳になる魔術師です。旅人と呼ばれ、訪れる場所はどこも彼のことを歓迎していました。良い噂しか、彼は認めませんから」
「そうか。ダリアニも確かそのくらいの齢になる。数が少ないぶん生粋の魔術師の人生は長い。つまり二人は同世代ってところか」
薄れていく霧の向こうに伸びた高い影が腕を組んだのが見えた。扉に軽く寄りかかったフェリクスはサディアを見下ろして眉を顰める。
「やはり、なにか因縁があると考えた方が無難か」
瞳は警戒しつつも口元は悪戯な微笑みを浮かべていた。どうやら彼は魔術師二人の関係性を推理することを少し楽しんでいるようだ。彼の軽快な口調がサディアの好奇心をくすぐった。
「その可能性はあるかもしれません。彼は普通、何事にも執着しない性格ですから。私を遣ってでも会いたい強い動機は何かあるのだと思います」
ちく、たく、と繊細な音が耳に届き、サディアは鏡台の上の懐中時計を一瞥する。最近は陽が落ちるのが早くなった。彼が人間に戻ったということはそろそろ自分の番。呪いの効果がすれ違う彼と人間同士の姿で会えるのは一日のうち大体五分くらいだということをサディアも覚えた頃だ。
「執着がないわりに君とは長いこと一緒にいるようだ」
「私が彼に会った時、彼はちょうど一人に飽きた頃だったんです。手頃な相棒が欲しかったと言っていました。まだ私は七歳だった。使いものになんてならなかったとは思う。けれど、彼にしてみれば、新鮮で面白かったのかもしれません」
「退屈しのぎってことか」
「はい。私はそう思います。きっと長命の悩みもあるのでしょう。でもいつか飽きて、ほかの依頼者のように私も捨てられてしまうのだとずっと思っていました。その覚悟もあります。けど、今までの間、彼が私を追い払おうとしたことは一度もなかった」
フェリクスは腕を組んだまま、緩く交差させた足だけを組み替えた。
「誰も信用しないというグラハムだが、もしかしたら君に対してだけは違うのかもしれない。そう考えたことはないか」
「ありません。まさか、彼が私のことをそんな風に思うなんて……ただの気まぐれだと思います。私は運良く、ここまで彼と共に来れた。皮肉なことかもしれない。でも、彼がいたから私は今、生きている。容赦のない人で、冷酷だって思われてしまう人だけど。兄にも、両親にも見放された私を──彼だけが見捨てなかった。だから最後に彼との約束だけは守りたいんです」
「フクロウになる呪いを解くっていう約束か」
「はい。前にも言いましたが、彼は契約ごとに厳しい。だからきっと約束も守ってくれるはず」
「律儀な奴でもあるのか」
フェリクスは組んでいた腕を解いてサディア越しに見える薄汚れた鏡台に目を向ける。
「呪いが解けたらなにがしたい」
「え?」
「際限なくその姿でいられるとしたら、何かしたいことでもあるのか。月に祈るような、君の願いはあるのか」
鏡台から手前のサディアに視線を戻し、フェリクスは真顔のまま問う。突然の質問にサディアの頭は一瞬だけ真っ白になった。呪いが解けたら。そんなもしもを幾度となく空想したことはある。が、それを一度も口にしたことはないからだ。けれどここで黙っているわけにもいかない。今は彼の信用を得ることが第一優先。信頼の築き方をまだ心得ていなくとも分かる。隠し事など以ての外だ。
羞恥を抱えつつもサディアは頭に描いた思いを告げる。
「フクロウになることは、そこまで嫌いではないのです。楽しいこともある──空を飛べるなんて本当ならすごく貴重なことだから。一体どれだけの人が、空を飛んだことがあると言えるのでしょう。でももしかしたら私もそうは言えないって、そう思うことがあるのです。空を飛べてもどこかでずっと囚われている感覚があるから。私はどこまでも飛んではいけない。あんなに広く、果てのない空なのに。飛んでいても、自由な空なんてどこにもないと感じてしまう。見えない籠に塞がれ、好きな場所へ行くことはできない。それは少し寂しい。だから未だに、空に焦がれてしまうの。絶えず形を変え続ける雲のように、自由に、って」
サディアは両手の指を身体の前で結ぶ。そこに力を込めていないと恥ずかしくて正気を保っていられなさそうだからだ。
「夜空を飛んでいると、頭上に瞬く星はとても綺麗だって思います。だけど少しだけ近すぎて、私には眩しい。だから星空の下を大手を振って歩いてみたい。星を指差して、心行くまで空を数えたい。それに、毛布にくるまって眠りたい。ときに夜更かしをして、ニコ──友人たち、と、一晩中語り合ってみたい。トビアスに誘われていた助手の仕事にも挑戦して、旅をしてみたい。だけど──」
我に返る前にとひと思いに夢を連ねたサディアだったが、視界の隅を覆い始めた霧にぷつん、と声が途切れてしまう。
「やっぱり、難しそう」
今度は月夜が彼女の身体を奪いに来る。これが現実だ。
「ホー」
果てない理想にフクロウが鳴く。いくら希望を語ったところでダリアニに会う機会すら見出せない自分には夢のまた夢。皇帝に見つかったことを知ったらグラハムは今度こそ自分を切るだろう。サディアは情けなさにしょんぼりと俯く。
落ち込むフクロウを見下ろすフェリクスの背中が扉から離れた。フクロウの視界に一瞬だけ彼の膝が入り込む。が、すぐにまた持ち上がっていく。どうやら片膝をつこうと屈みかけてやめたようだ。
見上げると、フクロウに差し伸べかけられていたフェリクスの手がサッと背後に下げられていく残像が見えた。いつかの夜、何度か見た覚えのある彼の動きだ。あれは何だっただろうか。朧げな感覚を思い出そうとサディアは瞬きをする。
フクロウと目が合ったフェリクスは軽く喉を鳴らしてから何事もなかったかのように清涼な声で訊く。
「この部屋、寒くはないか?」
「ホー」
「そうか。もし不具合があればジーノに伝えろ。宮殿が、住み心地が悪いなどという噂が広まっては良くないからな」
「ホー」
「よく休め────おやすみ」
フェリクスはそう言い残して部屋を去った。彼が去り際に残した風が羽毛を揺らし、サディアの記憶を呼び覚ます。
もしかしたら彼は以前の癖でフクロウのことを撫でようとしていたのかもしれない。ただの偶然で、思い違いかもしれないが──。
パタンと閉じられた扉の前で、フクロウは忘れかけていた懐かしい感覚に首を傾げる。




