17 祈りの満月
「陛下、どうぞこちらを」
ショットグラスを机に置くジーノの声色は優しく思い遣りに満ちていた。ほかの感情など持ち合わせていないといった具合に、彼がフェリクスのことを気に掛けているのが伝わってくる。
「ザクロか。気が利くな」
「陛下の好みはすべて身に沁みついておりますので」
「大袈裟な。でも助かる」
ショットグラスに注がれたザクロジュースを少しずつ飲みながらフェリクスはクスリと笑った。
シマリスの身体でショットグラスを持つとちょうどいいか少し大きいくらいだ。頭を下げてフェリクスから離れるジーノを観察し、サディアはなるほどと感心する。
彼はフェリクスが皇帝に即位してからずっと彼の世話をしているらしいが、相手がシマリスだろうと抜かりなく要領がいい。とことん彼のことを研究し尽くしているのだろう。自分のことをじっと見てくるサディアの視線に気づいたジーノが僅かに顔を歪めた。彼自身はあまり注目されることを好まないようだ。
「彼はもとからザクロジュースが好きなんですよ」
サディアが何を思っているのか見透かしているらしい。ジーノは軽く吐いた息の中に呆れた声を混ぜてやれやれと首を振った。
「フェリクス様、今日はまた随分とお疲れの様子ですね」
「ロザリア様が帰られたのは陽が昇るほんの少し前のことです。ずっとお喋りされていたとか。酔い潰れていたロントン氏があの時に目覚めなければまだいらしていたかもしれない」
ザクロジュースを飲んで心を休めるシマリスの表情から目を離すことなく、ジーノは少し硬い口調で応える。
昨夜は約束通りロザリアとその父親であるロントン氏が宮殿を訪れ、フェリクスと夕食をともにした。その時間には既にフクロウとなっているサディアは自室にいたため、彼らがどのような会話をしていたのかは分からない。が、今朝、ジーノとともにフェリクスの部屋を訪れた時に見たシマリスのげっそりした顔を思えば、なかなか濃厚な時間を過ごしたのだと予想がつく。
「まったく。聞けばあなたの提案だと言うじゃないですか。ロザリア様を夕食に招くのだなんて。陛下の秘密が漏れなかったのはただの偶然で、幸いなことでした。途中の底が抜けているのが見えている橋を渡ろうとするようなものですよ」
「──勝手な真似をして申し訳ありませんでした」
「今後、このような軽薄な提案をすることは控えてください。昨日は私があなたの傍を離れた責任もあります。なので強くは責めませんが──忘れないでいただきたい。私はまだあなたのことを信用できない。私がいたなら絶対にそのようなことはさせませんでした。が、今回は陛下が受け入れたのならと、彼の選択に賭けたまでです。しかし陛下にもしものことがあったら……」
「分かっています。私も、希望を壊すことはしたくありません」
「──まぁ、分かっているのならいいでしょう。で? 何故、あのような大胆なお誘いをしたのですか」
ジーノを横目で見上げると、彼もまた横目でサディアの表情を捉えていた。感情の見えにくい瞳ではあるが、執拗に責めるつもりもないようだ。ただ興味のもとに訊いているのだろう。
「ロザリア様はずっとフェリクス様に会えていないと仰っていたので。私には幼馴染などという存在はありませんが、きっと、彼女も寂しい思いをしているのだと思ったのです。だから、久しぶりに顔を合わせることができればロザリア様も喜ぶし、フェリクス様も良い息抜きになるのではないかと」
「あなたはお人好しですね。いや、単純とも言えるでしょうか。やはり軽率だ」
サディアの答えにジーノは肩を落として瞼を閉じた。
「念願の陛下に会えた彼女が簡単に帰ってくれるはずがない。彼女は明るく、力強い。押しが強すぎるくらいだ。長時間一緒にいると体力を削られて当然です」
「そんなに──?」
「ええ。昨夜会えたことが彼女にとっての成功体験となり、今後は夜に遊びに来ればいいのだと知恵をつけたらどうするのです。陛下も仕事どころではなくなりますよ」
「これまで彼女が夜に訪ねてくることは一度もなかったの?」
「ない」
サディアのジーノへの問いに答えたのはフェリクスだった。いつの間にかザクロジュースをすべて飲み干した彼は机に置き直したショットグラスに寄りかかってはっきりと言い放つ。
「ロントン氏は娘をえらく愛している。金庫に入れておきたいくらいに大事な娘を夜に出歩かせることなど許すはずがない」
フェリクスは気だるげな身体をどうにか持ち上げて二本足で立ち、一息置いてから机に放置していた図案に目を通し始める。どうやら新しい兵器の開発案らしい。
「それに、俺にしてみれば夜は貴重な時間なんだ。例え夜に訪ねてこようと、彼女に会っている暇は取れないさ」
「──え。でも、じゃあ、あの噂は」
今のサディアには夜の時間が彼にとって貴重だということは十分に理解できる。しかし街での夜帝に対する噂によれば、彼は夜な夜な女を宮殿に連れ込んでいるという話だった。ならばあの噂は何だったのだろうか。ニコラたちが適当なことを口にするとも思えない。が、彼の言うことももっともな上に、自分もそのような光景を一度も目にしていない。サディアの頭が混乱していることは表情を見れば一目瞭然だった。彼女の動揺にフェリクスが呆れたように苦笑する。
「君はその目で何を見てきた?」
そう言われても最近の夜は部屋に引きこもったままで何も見れていない。その間に噂通りのことが行われているのであれば自分が知る余地もない。けれど以前の彼だけを見れば確かにそんな余裕はなかった。彼の言う通りかもしれない。自分は何を見てきたのだろう。
無意識のうちに頑なになっていた想像力をサディアは自覚した。
自分はただニコラや街の人たちの言うことを信じたかっただけなのかもしれない。困惑を隠せないままにサディアは俯く。
落ち込む彼女を見たフェリクスはジーノと目を見合わせてから細い息を吐いた。
「夜帝と呼ばれていることくらいは知っている。が、ある意味では間違っていない。皆の抱く幻想を否定するのも野暮だろう」
「どちらかと言えば書類帝といったところですがね」
フェリクスの言葉にジーノがすかさず口を挟む。夜しかまともに動けない彼は確かに書類と睨み合いをしている時間が長かった。
「その名だといつぞやの書類王みたいだな。期限を守るのだって大変なんだから」
「ええ。承知しておりますよ、夜帝様」
フェリクスが渇いた笑い声を飛ばすとジーノが恭しく頭を下げてみせた。わざとらしく芝居じみた彼の仕草にシマリスはまた笑う。彼につられたジーノもまた上品な笑みを浮かべた。
「ああそうだ。期限といえば──」
笑い合う二人をそっと眺めていたサディアの視線に気づき、フェリクスが気を取り直して咳払いをする。
「グラハムとの約束の期限は確か永久の祈りの満月だったな」
「はい」
「君はその習わしについて知っているか? どうやら、君がこの国に来たのは最近のことのようだからな」
フェリクスの問いかけにサディアは静かに首を横に振る。
「月の中央に、もう一つの月が重なるのが祈りの満月だということだけ聞いています。確か、祈りを捧げるとその想いが満ちて叶うという言い伝えがあるとか」
空に浮かぶ円形の月は中央がくり抜かれた空洞型になっているのが通常で、サディアも当然その月の形しか見たことがない。しかしグラハムが言うには、一定の周期で訪れるある一日だけはその月の中央部分に別の月が一寸の狂いなく重なることがあるらしい。
空洞を持つ月の中央にぴたりと嵌るように二つの月が重なり合う現象は永久の祈りの満月と呼ばれ、その夜、地上は幻想的な雰囲気に包まれる。ぽっかり空いた心を満たした月にあやかり、人々は祈りを捧げて願い事をするという。
サディアが聞いている満月に関する情報はそれだけで、あとはダリアニという別の魔術師をグラハムに会わせる期限の日だという認識しかない。
サディアの答えはフェリクスの思った通りだった。習わしについて知らない彼女にフェリクスは満月の逸話について語り出す。
「永久の祈りの満月は二百八十八年に一度だけ起きる天体現象だ。月と月が出会う長い年月を思えば、一生に一度見られるだけでも幸運なものだろう」
「そんなに長くは生きられない私たちにしてみればほとんど永遠と同じね」
「そうだな。だから特別な夜だとされている。今では祈りを捧げ、自身の願いを託す日だと知られているが、当初は盃を交わした相手との約束を永久に守ると誓うことから始まった風習らしい。将軍のために命を捧げる、とか。重なり合う満月を見上げ、友や仲間と盃を交わすのが古来からの習わしだ。互いのすべてを認め合い、心を育て、寛容さを知る日でもある。人と人との繋がりはほとんど奇跡で、当たり前ではないことを身に刻むために。例え喧嘩をしても、最悪の言葉を口走って関係にヒビが入ろうとも。自らの軽はずみな愚行を省みてあの月明りの契りを思い出せるようにと誓いを立てるんだ。ちょうど風習が生まれた戦乱の世に見慣れぬ満月が人々を勇気づけたのだろうな」
フェリクスは空になったショットグラスにこつん、と小さな拳をぶつけてみせた。どうやら盃を交わす様子を再現したようだ。
「誰かを──相手を信じるって素敵なことね」
満月の風習を聞いたサディアはぽつりと呟いた。隣のジーノの瞳がちらりと彼女を向く。恐らく彼女は本人の意図せぬうちに声に出していたのだろう。ジーノと目が合ったサディアはきょとんと首を傾げた。
「ちょうど今年は祈りの満月が起こる年だ。そんな日を期限にするなんてグラハムはダリアニと盃でも交わしたいのか」
フェリクスは腕を組んで考え始める。未だ目的の分からないグラハムの事情を計りかねているようだ。考え込むフェリクスにサディアがそっと助言を出す。
「それはないと思います。グラハムは酒が嫌いなんです。だから私も酒は禁止されていました。酒を飲むような人間は存在に値しない。ただでさえロクでもない人間が穴を掘り出すだけだと。その穴に、みっともない連中を埋めた方がいいとグラハムは言っていました」
「そう聞くとグラハムは割り切りのいい奴のように思えるな。清々しさすら感じる。随分、信念のある人間だ。はっきりしている」
「はい。彼にはずっと人のことを信用するなと教えられてきました。なのでダリアニという魔術師と改めて契りを交わすようなことも彼はしないと思うのです」
「余計に不穏だな」
考えの読めないグラハムにフェリクスは首を捻って眉を凛々しく持ち上げた。
「じゃあ、君も誰のことも信用はしないのか。この街で──あのトビアスという男とは信頼関係があったように見えたがな」
輪郭すら思い浮かばないグラハムにはお手上げなのかフェリクスの興味は目の前のサディアに移る。本心を窺う眼差しに見つめられサディアは自分に問いかけてみた。これまでの人生で誰かに期待をして良い結果を得られたことなど一度もない。だからフェリクスの問いに答えるならば迷いなく首は縦に振れる。
が、なぜかそれを肯定したくない思いもあった。恐らく、グラハムとともに行動していた時には抱きもしなかった感情だ。サディアは得体の知れない情にまだ不安を抱きながらも口を開く。
「私はこの街に来てから自分を演じていました。私の正体が誰かに知れてしまったら厄介ですし、グラハムに失望されてしまうから。街に浮かないように模範的な市民となろうと努めたのです。思ったよりも上手くいって、演じることも苦じゃなかった。でも、今となっては──あの時、ティーハウスでの仕事やトビアスたちと過ごす時間は、とても気楽で肩の荷が下りたようにも思える。だから私は、あの時の自分は、ただ市民を演じていたのだと思いたくはない」
頑なに夜帝の噂を断ち切りたくなかったのもきっと根本はこの感情があるからだ。改めて自覚した願望にサディアは目を伏せる。
「もう遅いかもしれないけれど……私──」
ただ誰かを信じたかっただけなのか。
たった一つの意地が執着に変わっていたことに気づき、独りよがりな思い込みにサディアの心が重く沈んでいった。ジーノのフェリクスへの強い信頼を目の当たりにしたこともあり、余計に自分が醜く思えたのだ。しんと静まり返った部屋の中で、サディアは恥ずかしさに身を隠したくなった。が。
「なるほど。君はグラハムとは違うようだ」
「──え?」
静けさに広がる声にサディアが顔を上げるとフェリクスの真摯な瞳と目が合う。愛くるしいはずのシマリスの瞳には精悍な光が宿っている。その表情には人間姿の彼の面影が見えた。フェリクスはそのまま自分の見解を続ける。雄々しくも穏やかな声だった。
「人を信用して何が悪い。君にとって街の彼らは大事な友人なのだろう」




