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16 幼馴染


 懐中時計をポケットから出す。

 淡々と秒針が回る文字盤を見ていると手を振り送り出してくれた住人たちのことを思い出す。

 チクタク、チクタクと、時の針は容赦なく前へと進む。

 グラハムに言われた期限が少しずつ近づいている。きっとこの針が遠慮をしてくれることはないのだろう。


 懐中時計をポケットに戻し、サディアは机にかじりつき状態のふわふわの背中を見やる。

 彼を説得できないかという淡い希望はまだ胸の中に残っている。むしろそれしか策はないのだ。


「──フェリクス様」


 サディアが声をかけると彼はこちらを見ることなく声だけで返事をした。


「もう一時間は経とうとしています。やはり私が説得しに参りましょうか」


 後方に控えたサディアは部屋の扉を一瞥する。扉の向こうから感じる熱烈な圧に室内温度までもが上昇しそうだった。


「いいや。その必要はない。今はジーノも不在なんだ。君を一人野放しにするわけにはいかない」

「いえ。彼女がいるので一人にはならないと思いますが」

「とにかく必要はない。誰かが勝手に入ってこないか、そこで見張りを続けてくれ」

「……承知しました」


 フェリクスは一度も机から目を上げない。彼は一年前に終結した帝国領土内の小国と海の向こうの国との戦争の記録を洗いざらい確認しているところだ。きっと集中しているに違いない。サディアは扉近くに立ったまま両手を背中に回す。

 フェリクスに扉の見張りを任されはしたが、恐らく誰もこの部屋に立ち入ることはできないとサディアは確信している。なぜなら──


「ねぇええ! フェリクス。ずううぅっと仕事ばかりしていたら頭がおかしくなってしまうわ。少しだけでいいから息抜きしましょう。ね? ほら、わたしが楽しいお話をたくさん聞かせてあげるから」


 今、二人がいるフェリクスの部屋の前はロザリアが陣取っているからだ。

 もうかれこれ一時間、彼女は扉の前で甘い声の演説を続けている。

 フェリクスは問題ないと言うが流石にここまで大きな声を出されると迷惑行為に値するのではなかろうか。サディアは真剣な様子の彼に視線を戻し首を捻る。


「しかし仕事の邪魔では──?」

「いつものことだ。ここまでしつこいのは久々だが。ジーノがいないからな。彼女にしてみれば絶好の機会なんだろう」

「ではやはり私が」

「それはいい。君が説得しようにもロザリアは耳を貸さない」

「それは──」


 彼の予想通りだろう。

 サディアはロザリアの険しい瞳を思い返して口を閉じる。


「彼女に勝てるのはジーノだけだ。まぁ、たまには賑やかでいい」


 サディアが黙るとフェリクスは顔だけで彼女の方を振り返って苦笑した。眉こそは困っているものの、大きな瞳が柔らかに弛みなんとも愛らしい表情だった。人間の時のフェリクスの引き締まった顔つきとは真逆の印象だ。どうにもちぐはぐな二つの姿にサディアはなかなか慣れることができなかった。


 シマリス姿の時のフェリクスはやはり気が浮かないのか夜の姿とは性格も違う。人間姿の彼は凛々しく、堂々たる振る舞いをしているのに対し、シマリス姿の彼はどことなく気怠く、言葉も少ない。もともと彼の体格は恵まれている方だ。小さい身体を精一杯に動かすとなると余計に不便に思うのかもしれない。


 せかせかと机の上を走って次の資料を取りに行くシマリスを視線で追いかけ、サディアは手伝った方が良いのかと足踏みする。が、今日は他の仕事を任され宮殿を留守にしているジーノに何もするなと言われているので動くことを躊躇う。出過ぎた真似をして彼らとの関係性が悪化するのも困る。でも、見ているだけでこちらが疲れてしまうほどにあの小さな身体で仕事をするのは大変そうだ。


「あの、フェリクス様──」


 何か手伝えることはないか訊ねようとした瞬間、部屋の扉が一段と強く叩かれる。どうやら両手の拳で力いっぱい叩いているらしい。


「フェリクス‼ もうずっと顔を見れていないわ。私の相手もまったくしてくれない。前はしょっちゅう遊んでいたのに! だから皇帝になんかなって欲しくなかったのよ」


 扉越しに会話は出来るものの頑なに戸を開かないことに不満が爆発したのかロザリアが甲高い声で喚き出す。記録に目を走らせていたフェリクスの動きが止まる。


「おかしいわ。どうしてわたしには投票権がなかったのかしら。弟にすら権利があったのに、女だからという理由だけで資格を貰えないのよ。わたしが投票に参加できたのなら必ずミンカに票を入れたわ。そうすれば、今頃皇帝はミンカだったかもしれないのに! 立候補はできるくせにどうして投票はさせてくれないのよ‼ おかしな規則。そのせいで、わたしはフェリクスと会うこともできなくなってしまったのよ」


 怒りが頂点まで噴き上がり半ば涙声だった。

 安易には処理できぬ熱量をぶつけられ、サディアは戸惑うことしかできなかった。フェリクスを見れば彼は机から顔を上げて扉を見つめていた。まるで扉の向こうにいるロザリアを透視するかのごとく目を細め、じっと何かを思案している。


「ねぇ、フェリクス……顔を見せてよ。わたし、寂しくて死んでしまいそう」


 どさっと床に座り込む音が聞こえたかと思えばロザリアの泣き声が続く。両手で顔を覆っているのか彼女の声はくぐもっていた。


「ロザリア。相手できなくてすまない。投票権の件は任期中にどうにか改善に努めるから。院は慎重派ばかりなんだ。女には責任能力がないと信じ込んでいる。立候補だけ認められているのは当選後に何かあっても本人を責めれば良いと考えているからだ。彼らにしてみれば引きずり下ろすのは簡単だからな。しかし投票だけでは責めることもできず責任を放棄すると、根拠もない論に囚われ続けている。気分の悪い話だろう。だが規則を改めるのは少し時間がかかってしまう。嫌な思いをさせて悪かった」


 扉の向こうで嘆き悲しむ彼女にしっかりとその声が届くようにフェリクスは腹から声を出して答えた。


「そんなことどうでもいいわ。もう遅いもの。フェリクスのばか。どうして、どうして部屋から出てこないの」

「悪いな。忙しくてなかなか時間が取れない。君の話は長いから」


 砕けた口調に本音が混ざる。身も蓋もない正直な発言にサディアは目を丸めた。そんなことを言ってはロザリアが怒るのではないか。


「だって話すことがたくさんあるんだもの。フェリクスにわたしの全部を知って欲しいから。フェリクスも話を聞きたいでしょう?」

「いや、全部じゃなくてもいい」

「ほらぁ。フェリクスも話を聞きたいんじゃない。ねぇ、遠慮しなくていいのよ。あ。わかった。フェリクスがわたしに会わないのは、会ってしまうと夢中になって仕事に戻れなくなってしまうからなのね? それなら納得だわ。もう、フェリクスはいつまでもお子様なんだから」

「──そういうことにした方が気が済むのか?」


 ロザリアの強気な思考回路に辟易したフェリクスが小声でサディアに助言を求める。しかしサディアは首を横に振ることしかできなかった。ロザリアがフェリクスに向ける熱情がサディアにはピンとこないからだ。一体なぜ、そこまで人に執着できるのか。怖くはないのだろうか。疑問ばかりが頭を巡り、軽々しく助言など挟むことはできなかった。


「とにかく、ここに押しかけるのはもうやめてくれ。用がある時は俺の方から出向くから」

「やぁだ。フェリクスの顔を見るまで帰らない」


 頑なに扉の前から動こうとしないロザリアにフェリクスも参っているらしい。大きく息を吐いて身体ごと脱力して机に突っ伏してしまう。もうお手上げ状態だ。このままでは埒が明かない。サディアは一歩扉に近づいた。


「承知いたしました、ロザリア様」

「──っな、サディア⁉」


 扉に寄ったサディアの一言にフェリクスが飛び起きた。突拍子もないサディアの行動にえらく驚いているようだ。サディアはフェリクスの驚愕の表情をよそに話を続けようとする。が、扉の向こうから返ってきた声は随分と冷めていた。


「……どうしてあなたがそこにいるの?」

「ジーノの代わりにフェリクス様をお守りしております」

「ふんっ。非力なくせに生意気ね」

「恐れ入ります。それはさておき、ロザリア様、今晩フェリクス様との御夕食はいかがでしょうか? 今夜であれば予定も空いております。ロザリア様のお席を用意いたしますので、ぜひご一緒に、と思いまして」

「えっ? 夕食……? フェリクスと?」

「はい。ロザリア様のご都合が合えば、ですが」

「合うに決まってるじゃない! 行く行く。もちろんご一緒するわ!」


 ロザリアの声が一気に明るくなる。姿こそは見えないが、きっと満面の笑みを湛えているに違いない。くるくると回転して踊っているかもしれない。

 一人盛り上がる彼女の饒舌は止まらず、息継ぎも惜しんで早口でまくしたてる。


「何時に伺えばいい? もう今から支度をしなくっちゃ。とびきりのお洒落をしていくわね。フェリクス、楽しみにしてくれていいわよ。きっと可愛すぎてびっくりしちゃうから」

「サディア……! なんてこと言うんだ──」

「これで、仕事に集中できますね」

「いや、そういう話じゃない」


 サディアの涼しい顔を見たフェリクスは両手で頭を抱えたまま首を振る。思わぬ展開にまだ衝撃が収まらないようだ。

 ロザリアの興奮とは温度差のあるフェリクスの顔は青ざめていた。いや、顔色では分からないが明らかに動揺していることが表情に表れている。


「ですがフェリクス様。ロザリア様はフェリクス様に会えなくて寂しいと仰っています。会いたいと言われるのは本来嬉しいことではないでしょうか。彼女は断られても宮殿まで足を運びますが、それは並大抵の精神で出来ることではありません。毎日毎日勇気を振り絞っているのです。その気持ちを無下にするのは気が引けます。それに、一度会えば満足してしばらくはここに来ないかもしれません。長い目で見ればその方が良いのではないでしょうか。でなければ、いつ、その姿を見られるか分かりませんし、そちらの方が危険かと」


 サディアのあっさりとした意見にフェリクスは腕を組んで考え込む。


「確かに、この姿を見られることは望まない」

「ロザリア様、フェリクス様に会えたらきっと喜びます。お二人は幼馴染と聞いています。大事な友人ではないのですか?」

「……──わかった」


 あまりにも当然のようにサディアが言うので、フェリクスは渋々承諾した。抗い続けるのも幼稚。そう結論に達したのだろう。


「ロザリア、ロントン氏も共に話がしたい。かの国との条約について見直したいことがある。必ず連れてきてくれ」

「わかったわフェリクス。でも仕事の話は短くね」

「ああ。ロントン氏にもよろしく頼む」


 続けてサディアから夕食の時間を聞いたロザリアは鼻歌を奏でながら階段を下りていく。ようやく扉の前が解放されたようだ。


「これで今晩は徹夜だな」


 ロザリアの軽やかな足音が遠くなっていく中でフェリクスが重い息を吐いて呟く。ぐったりしたフェリクスにサディアが首を傾げる。


「いつも徹夜状態じゃないですか」

「そうだが。仕事とこれは違う。一晩中放してくれないのは目に見えている。早めに英気を養わなければいけないな。サディア、お腹は空いたか?」

「まだ今日は何も食べていません」

「なら厨房に行こう。なにかあるだろう」

「部屋を出てもいいのですか?」

「もちろん隠れて行く。サディア、頼めるか?」

「はい。私でよろしければ」


 サディアが頷くとフェリクスは机から彼女のもとまで駆けてくる。サディアは近くにあった布を結んで小さな鞄を作り、シマリスはその簡易な衣包の中に入り込んだ。

 シマリス姿の彼と二人だけで行動するのは初めてだ。彼に敵意を持っていないことを示す数少ない機会でもある。任務達成には彼の協力が不可欠。ここは絶対に下手を打つわけにいかない。


 妙な緊張感を抱えながらサディアは違和感のないように自然体を装って厨房を目指す。

 すると、途中でたくさんの使用人を引き連れたミンカと出くわした。宮殿に住み込んでから初めて見るミンカの姿だった。今日の彼女はスカートではなくズボンを履いている。ベルトのサイドに付いたフレアー布が揺れ、目を引かれた。形の整った脚のシルエットも美しく、思わず見惚れてしまう。どんな格好をしていようとも彼女は常に完璧だ。


 サディアは彼女に道を開けるために廊下の隅に寄って頭を下げる。目の前を通り過ぎていく彼女の青空がこちらを向く。ミンカの青々とした瞳と目が合い、サディアは縮こまってもう一度一礼する。彼女の長い睫の毛先には染色が施されていて、なんとも儚げな印象に胸がきゅうと締め付けられた。あれは噂に聞く睫を濃く長く見せる化粧品だろう。

 同性にもかかわらず胸を高鳴らせてくる彼女の底知れぬ色香にサディアの頬が赤くなる。


「彼女は、とても美しいのですね」


 ミンカ一行が通り過ぎ、無意識のうちに感情が口に出ていた。残り香すらも芳醇だ。


「ミンカはどこまでも魅力を追及しているからこだわりが強い。俺が褒めてもまったく喜ばないが、君たちにそう言われたら喜ぶはず。機会があったら今の言葉を伝えてやって欲しい。頑固なところもあるが、そう悪いやつではない」


 衣包からちょこんと顔を出したフェリクスはミンカの後ろ姿を見てやれやれと呆れたように笑う。が、彼は心底妹に呆れているわけではなさそうだ。彼の表情には親愛が滲み、彼女のことを大事に想っていることがひしひしと伝わる。


「さぁ、厨房に行こう。すべて片付けられてしまっては面倒だ──サディア?」

「──はい」


 重くなった瞼をハッと上げ、サディアは再び慎重に歩き出す。妹を大事に想う彼の声を聞いているとどうしても自分の兄を思い出してしまう。その声色は全く違うものだというのに。

 朧げになった兄の幻影を振り払い、サディアは気を取り直して厨房に向かう。

 食事時でもなかったため、厨房にはまばらに人がいるだけだった。ミンカの昼食の残り物を分けてもらったサディアは誰もいない食材庫に入ってフェリクスを衣包から出す。


「これは、花を揚げたもの?」

「ああ。そうだ。花を食べるのは帝国以前からこの土地に根付いていた習慣だという。鍋にしても美味しい。食べたことはないか?」

「ないです。花を食べたいと思ったこともないから……きっと高価なものでしょう?」

「いいや。誰もが楽しめるものだ。遠慮することもない。味わって食べるといい。きっと気に入る」


 フェリクスはそう言って自分は食材庫に積まれていた苺にかじりついた。彼が苺を頬張るのを横目にサディアは花揚げを口に運んでみる──と。


「──美味しい」


 思わずこぼれた彼女の純朴な感想にシマリスの表情が僅かに綻ぶ。


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