15 魔術師の契約
宮殿で住み込みを始めて一週間が経った。
最初の一週間、ということもあり、まずは宮殿という場所に慣れることが大変だった。
仕事自体はジーノの指示に従えばいいことが多くあまり辛く思うこともないが、秘書官という物珍しい立場であることに皆の興味を示され、たくさんの嘘をつくことが一番の苦痛だった。
フェリクスとの関係も大きくは変わらない。彼は主に夜に動くが、その時間のサディアは部屋に引きこもるように努めているからだ。
昼間、シマリス姿の彼と会う機会はあれど、ほとんどの雑務はジーノが担当するため直接会話することも少ない。彼もまたサディアとの距離感を計りかねているのか、サディアが怪しい動きをしていないかどうかのみを見張っているようだった。
宮殿は広く、この一週間は妹のミンカに会うこともなかった。彼女は恐らく兄のシマリス現象を知っているはずだ。おまけに頭も切れるという。つまり人間が動物に変わるという発想に簡単に辿り着ける人物ということ。これまでどうにか守れているが、彼女と顔を合わせた時に自分の秘密を隠し通せるか。それが今のサディアの懸念だった。
ついでに宮殿内で魔術師への手掛かりも探ろうとは試みた。しかし常にジーノが隣で目を光らせていては不審な動きなどすることも出来ず、そちらの方はなかなかに難航していた。
それとは別にもう一つ、サディアには行き詰まっていることがある。フェリクスの幼馴染であるロザリアとの関係性だ。
彼女が広間に居座ろうとすると、ジーノと一緒になって帰ってもらう努力をしなければならない。が、やけにロザリアの当たりが強いのだ。
一緒に追い返そうとしているジーノに対しては甘い声で泣くのに、サディアに対しては睨むことは当然で、悪態や舌打ち、泣くふりをしてこっそり靴に唾を吐かれたこともある。
雑な扱いには慣れている。しかしその理由が分からず、彼女のあからさまな態度がサディアには不思議だったのだ。
新参者だと警戒されているにせよ、表面上こちらはただの使用人なのだ。もう少し気を許してもらうことはできないだろうか。
部屋で唾を吐かれた靴を拭きながら、サディアは彼女の憎しみこもった瞳を思い返す。フェリクスに会えなくて彼女も相当の鬱憤が溜まっているのかもしれない。そう思えば彼女もかわいそうだ。彼女はきっと彼のシマリス現象を知らないのだから。彼女にしてみれば幼馴染に理不尽に追い返されていると感じるだろう。
彼女にほんの少しの同情を捧げていると部屋の戸を叩く音が聞こえてきた。
「サディア、少し失礼しますよ」
ジーノの声だ。サディアは拭いていた靴を丁寧に揃えて鏡台の横に置き、彼を出迎えるために立ち上がる。
「思ったより狭い部屋だな……この部屋にも慣れたか?」
部屋に入ってきたジーノが手のひらを掲げると、そこに乗ったシマリスが部屋を見回した。
「はい。部屋に何もない方が私は落ち着きますから。これくらいがちょうどいいです」
「そうか……」
フェリクスはサディアの返事に静かに頷いてからジーノを見る。どうやら鏡台の上に下ろして欲しい、と伝えているらしい。
「ここに慣れたならそれはいい。が、慣れは一番の大敵とも言う。厄介なものだな。自分の心に裏切られるようで」
鏡台に下りたフェリクスはサディアと一定の距離を保ったまま彼女を見上げる。ジーノは扉の前に控え、存在感を消していた。
「あなたも、その姿にはもう慣れているのですね」
「嫌でも慣れる。しかしその慣れのせいで、最初は注意できていたことも疎かになる。毎日が同じだと信じ、油断して自分の身を危険に晒す。ダズの行動を知った気になっていたのが迂闊だったが……いつもならあの時間は散歩を終えて、あそこにはいなかったはずなのに……」
フェリクスの独り言が止まらなくなったところでジーノがコホンと咳をする。そこでフェリクスはハッと口を閉じた。
ダズといえば前に侍女が散歩に連れ出した番犬だ。もしや、とサディアは閃く。
「あの日、ダズに追われていたの?」
ドキリとシマリスの身体が強張る。どうやら図星といったところだ。
サディアが彼を見つけた日、シマリスになった彼は番犬のダズとどこかで鉢合わせ、逃げるうちに鷲に襲われ窮地に陥ったのだろう。
「俺の話はいい。あんたもフクロウには随分と慣れているようだった。一体なぜ、そうなった。今日はそれを聞きに来た。君のことを何も知らない。それでは見極めることも難しい」
「私は──」
サディアがぼうっとした瞳で口を開くと、狭い部屋に霧が湧き上がる。
「悪い。行儀が悪かったな。みっともないところを見せた」
霧が去ると、一人の青年が堂々と鏡台に座っている姿が明るみになった。長い脚を組んだフェリクスは肩をすくめて鏡台から下りる。
「私は、この宮殿の人たちに嘘ばかりをついてきました。だからせめてここでは。この部屋では、真実を語りたい。信じてください」
人間に戻ったフェリクスがベッドに腰を掛けたので、サディアは椅子を動かして身体ごと彼の方を向く。雫のごとく静かな声だった。
「グラハムと出会ったのは私が七歳の頃。両親が、彼に依頼をするために彼の元へ向かいました。噂で、彼の存在を耳にしたから。ちょうど近くに来ているって。その少し前に三つ年上の兄が人体売買組織に攫われ、売られてしまいましたから。悲劇から逃げたくて、両親は魔術師の力に頼ろうとしたんです」
平坦な調子で語り始めたサディアの話をフェリクスは相槌を打つこともなく聞く。
「自らの身を組織から守ってくれと、両親は私と引き換えにグラハムに依頼を申し出ました。依頼に貢物が必要なのは、知っての通りだから。私はその貢物だった。グラハムは依頼を受けると言って、条件として貢物である私は彼と契約を交わしました。結果、私はフクロウとなり、グラハムのもとで生きることになりました。両親はこれで助かったと、そう本気で思っていました──けど、契約直後、彼は両親を虫に変えて叩き潰しました。これで、組織に身体を奪われる心配も無用だと真面目な顔で笑っていました。それが、初めて見た殺しの瞬間だった」
ごくりとジーノが息をのみ込む音が聞こえた。一方のフェリクスの顔色は変わることなく、精悍な眼差しでサディアをじっと見つめていた。
「両親の依頼は達成され、私の契約は続きました。それからはずっとグラハムと一緒です。彼が色々な人の願いを叶え、その代償を貰っていく姿を何度も見てきました。私は何もできず、いつも見ているだけ」
「──なぜ、君の両親は自分の身体や自分の物ではなく娘を貢物にしたんだ」
ここでフェリクスが疑問を挟む。サディアは一息置いた後で目を伏せた。
「今になって分かること、だけど……私は、嫌われていました。優秀な兄と比べられ、お前は愚図な怠け者だといつも言われてきました。言われ続けてそれが当たり前になっていたけれど──思えば両親は私に冷たかった。兄にばかり構う親を見ても何もおかしいと思わなかった。本当に、両親の言う通り私は鈍感なのだと思う。お荷物だと思われていたのに、家族のことが大好きで、一方的に求めていた。兄のことも自慢だった──麻痺していたのかもしれないけれど、当時は本当に分からなかった。兄がいなくなってからようやく両親に嫌われているのだと気づくことができた。だけど、きっと兄は、兄は私のことをそんな風に思っていなかったって、そう信じてきました」
サディアはこめかみに指を添えてからぎゅっと唇を噛む。
「親だけでなく、兄にも嫌われていたのだと悟ったのはずっと後です。グラハムと行動して色々な世界を見るうちに、兄も私を嫌っていたのだと気づきました。いつも同じ──私は、いつも嫌われて終わる」
ズキズキとした頭の痛みが音を立てて脳を軋ませていく。どうにも頭が締め付けられる。別れの最後を思い出すときはいつもそうだ。
「だから両親は私は貢物にしたの。彼らが何よりも大切にしていた息子も嫌っていた私のことを、手放したかったから」
「──グラハムはなぜ魔術師を探す?」
話を変えるようにフェリクスが凛々しい声で質問を重ねる。
「彼の都合です。彼は古い友人だと。その魔術師に奪われたものを返して欲しいと言っていました。詳しい理由は知りません」
「探している魔術師の名はダリアニだ。彼はもうずっと長く生きている。グラハムもきっとそうだろう。何か因縁でもあるのか」
「……なにも聞かされていません。けど、そのダリアニという人を見つければ、グラハムは私との約束を果たしてくれるはず。彼は契約ごとに厳しいから。だから、必死で探してしまうの」
「約束?」
「ダリアニを連れてくればお前との契約を解いてやる、グラハムはそう約束──」
ここでサディアの声が途切れた。いつの間にか部屋に蔓延っていた霧が彼女を包み込み、丸い陰影が白の視界に浮かぶ。
「ホー」
切ない声が反響する。椅子にぽつんと佇んだフクロウはそれっきり黙ってしまった。
「事情は分かった。時間を取らせたな」
フェリクスはベッドから立ち上がり扉の前のジーノに目配せする。ジーノは彼の合図を受けて扉を開けた。
去り際、椅子に留まるフクロウをフェリクスは長い睫を伏せて顧みる。
「──害獣は言い過ぎた。悪かった」




