10 盗人
*
「きゅう」
部屋に取り残されたシマリスは、きょろきょろと見慣れぬ景色を見回す。知らぬ空気に鼓動が速まっていく。
一人が眠れるベッドと部屋の隅に配置された机。無造作に置かれた椅子は机の斜め前にある。五着程度が収納できるクローゼットと、鏡が閉ざされた鏡台。キッチンは小さく、調理の形跡はあまりない。部屋の中に出入口以外の扉がもう一つ見えるが、恐らくその先は洗面所だろう。
ベッドに置かれたバスケットから這い出たシマリスは、更なる情報を求めて椅子を経由しながら机に飛び乗る。が、机の上には最低限の筆記具と、いくつかの帽子のデザイン画が置かれているだけだった。本当に何もない部屋だ。長く留まることを目的としない逃亡者の部屋と言われても納得する。
落ち着きのないシマリスはまた部屋を見渡し、中途半端に開かれた窓を見やる──と。
「きゅ?」
夕陽に照らされ、部屋の中で何かが光った。鏡も閉ざされたこの場には何も光を反射するようなものはないのに。
不思議に思い、シマリスは首を傾げながら眩しさの源に目を向ける。鏡台の方だ。
シマリスは部屋を横断して鏡台に登る。鏡台にもやはりあまり物がない。しかし一つだけ、質素なこの空間に似つかわしくない輝きを放つ物が置かれていた。
透明度の高い美しい清流に紫と黄の雫が落とされたような小さな塊を見つけたシマリスの身体が固まる。ちょうどその時、部屋の扉が開かれ一人の素朴な女が入ってきた。
「お待たせ。木の実を持ってきたよ。私、そろそろまた出かけないと──」
善人の顔をして温厚な言葉を呟きながら部屋の扉を閉めたその女は、鏡台を見てハッと表情を強張らせた。
「おい。お前──」
「どっ……うして──……」
紫の宝石を指でつまみ上げた男の険しい眼差しが向かう先で女の表情が見る見るうちに曇っていった。
「なぜ、あなたがここに──?」
彼女の声は震えていた。寒さに凍え、今にも意識を失ってしまいそうなほどに儚い。驚きのあまり彼女はそのまま腰を抜かして扉の前でくったり座り込んでしまった。持っていた木の実が床を転がる。
無理もない。部屋にいたはずのシマリスは消え、招待した覚えのない人間が刺すような視線で真っ直ぐにこちらを睨みつけているのだ。
「これは、俺の物のはずだろ」
宝石を一瞥し、彼は嫌悪を隠さぬ声色で言い放つ。
彼女が彼を間近で見るのはこれが初めてではない。けれど彼の雰囲気、表情、声、すべてが未知のものだった。冷徹な瞳に喉が締め付けられる。
フェリクス・ミュドール。
彼が何者なのか、端的に形容することはやはり難しい。
*
乱れた髪に隠れていても鋭く人を射る眼光。清潔ではあるが簡素なシャツは少しだけはだけている。
見間違えるはずがない。昨晩まで毎日のように見た顔だ。
フェリクス・ミュドール。エンダロイツ帝国の皇帝がこちらを睨みつけている。それも、あの宝石を手に持って。
自分の部屋に突如として現れた人間の姿にサディアは瞬きを忘れる。
視線を合わせていたくはない。けれど目には見えぬ底知れぬ引力に瞳が囚われてしまう。
戸惑いを隠すことは不可能だった。あからさまに動揺し怯えるサディアから一秒たりとも目を離さず、彼はずかずかと彼女の前に出る。
「どうしてこれがここにある。どこで手に入れた。出掛けると言っていたな。じきに夜だというのに女一人でどこに行く。また盗みにでも入るのか」
彼は手にした紫の宝石をこれ見よがしにサディアに見せつけた。
「これは昨晩俺のネックレスから失くなったものだ。同じものはこの世に二つとしてない。お前は何者だ」
「わ……私──」
サディアが言葉を失い口を開閉する間にも彼は眼差しだけで容赦なく彼女を詰問する。彼の顔が近づく。彼の部屋で何度も見たそれとは違い、その表情は憤りを露わにしていた。背筋にゾクゾクと嫌な寒気を感じた。今までそのような印象を受けることはあまりなかったが、今、目の前にいる彼が人体売買組織を完膚なきまでに壊滅させたと言われればすんなりと納得ができる。
何故、彼がこの部屋にいるのか。
サディアの頭はたった一つの疑問だけに埋め尽くされまともに機能しない。
加えて、立場こそ違えばまるで血も涙もない悪人のような雰囲気を放つ彼に詰め寄られてはどう答えることが正解なのか見当もつくはずがない。
何と答えても信じてもらえず、彼の仕事に刑務執行許可証が一枚追加されるだけだろう。
「私は──」
何分が経っただろうか。
フェリクスはサディアの言葉を直接聞きたいようで、自分は黙ったまま彼女の口が開くのを待っている。
不快感を抱く直前、ちょうど威圧が制圧する絶妙な距離からサディアの出方を窺っているようだ。
彼の瞳に目を奪われているだけでは何も思考することが出来ない。サディアはどうにか視線を下げ、この場を切り抜ける方法の試案を何とか試みる。
道で拾ったと言えばそれらしいだろうか。
それともこれは両親の形見で、この世に二つとないなど彼の思い込みだと逆に強気に出るべきか。
やはり適切な返しは思いつかない。ここは無難に落とし物を拾ったのだと答えよう。
「私──」
肌が悲鳴を上げるようなぴりぴりとした無言の時間が胸を圧迫し、サディアは耐え切れずに最も素直らしく聞こえる理由を告げようとした。が、ふと、目の前に立つ彼の胸元にサディアの意識が向かう。
彼のシャツのボタンはいくつか外れており、その隙間から白い何かが覗いているのだ。
──包帯?
サディアの眉間に僅かな皺が寄った。細かな彼女の表情の変化に気づいたフェリクスの眉も歪み、彼女が見ている包帯に視線を下げる。
「シマリス──……?」
サディアとフェリクスの視線が再び出会う。彼女の息とともに漏れた言葉にフェリクスの険しい表情が更に硬くなっていく。
しかし、今度の時間は短かった。サディアとフェリクスの目が合ったその直後、彼の顔越しに見えた窓の外の色にサディアがアッと声を上げたからだ。
夕陽は終盤を迎え、もう星が瞬き始めている。
──まずい。このままじゃ……
夜が来る。
咄嗟にフェリクスの身体を両手で押し、サディアは彼との間に距離を確保する。突然のことにフェリクスも驚いたようで彼女に身体のバランスを崩され堪え切れず後ずさりした。
胸元を押した感覚では、決してそれだけの力で足元がふらつくことなどないくらいの身体能力を持っているだろうに。
思った以上に後方に押し出されたフェリクスを見てサディアも少しばかり目を丸めた。
けれどもう彼女には驚いている余裕は残されていなかった。窓の外から夜霧がひたりひたりと入り込んでくる。
「うう──っ……!」
自分を力強く突き放した後で急に苦しみ呻きだしたサディアを見てフェリクスは何事かと顔をしかめる。「大丈夫か」「おいどうした」「苦しいのか?」最低限の気遣いの言葉がサディアに投げかけられる。が、彼女がそれに答えることは出来ない。
「ホー」
しばらくの呻き声の後で、薄っすらとした靄の中に響いた聡明な声にフェリクスは愕然と口を開く。
扉の前で怯えていたはずの女は跡形もなく姿を消し、彼女がいた場所に一羽のフクロウが佇んでいるのだ。
「な──っ! どういうことだ……⁉」
流石の皇帝もこれは想定外だったようで、自分でも驚くほどの声で叫ぶ。
「ホー」
事情を説明したいサディアは鳴き続ける。が、その意味が彼に伝わるはずもない。
フェリクスが慎重に足を一歩前に出した。
「魔術師か……?」
「ホー」
「……お前」
彼も少しずつ状況を整理する余裕を取り戻してきたようだ。懸命に鳴くフクロウを真っ直ぐに見つめる彼の瞳が大きく揺れた。どうやら毎晩部屋に来ていたフクロウと目の前にいるフクロウが同じだと気づいたらしい。
「ホー」
もはや隠す術もなし。
完全に逃げ場を失ったフクロウの声は心なしか寂しそうだった。
数秒の間フクロウを見つめていたフェリクスが不意に視線を逸らす。続けて後方に見える窓が開いていることを確認し、黙ったままそれを閉めた。フクロウが飛んで逃げていくことを予測したのだろう。
次に彼は宝石をポケットにしまい込んだ後でベッドに敷かれていたシーツを手に取る。
何をするつもりなのだろう。
フクロウの足が小刻みに震える。
「どうやら話を聞く必要があるようだな」
ぼそりとフクロウに向かって呟き、フェリクスは手にしたシーツでフクロウの身体をぐるぐるに巻いた。抵抗虚しく完全に身動きを封じられたサディアはシーツにくるまれたまま強い力で掴まれる。やはり彼はそれなりの握力を備えていた。先程よろめいたのはまだ本気の姿勢ではなかったということか。
フェリクスの腕に抱えられ、サディアは自分の意志に関係なく外へ出された。フェリクスの足取りは落ち着いており動揺も焦りも感じない。ドクドクと心臓が嫌な音を立て続けるサディアとは違い、彼はもうとっくに平常心を取り戻しているらしい。
夜が訪れたパティオには誰の姿も見えなかった。それを幸運と捉えるべきか、不運と嘆くべきか。サディアには判断がつかなかった。
「悪いが宮殿まで運んでくれないか」
街に出たフェリクスは近くを通った馬車を制止し丁寧に申し出る。
「なんとフェリクス様じゃあないですか。ええ。もちろん構いません。どうぞどうぞ、狭いですが、乗り心地はそう悪くありませんよ」
御者ははじめこそ驚いた顔を見せたが、すぐにフェリクスの要望に応えて後方の席を案内する。
「街にいらっしゃっていたとは存じ上げず。いやぁびっくりしました。今晩はこれから仕事ですかい?」
「ああ。そうだな」
動き出した馬車の中でフェリクスは御者の問いかけに軽く返事した。シーツに隠したフクロウは決して逃さぬよう、冷静な口調とは裏腹に腕にはかなりの力が込められていた。馬車の不安定な揺れと、彼に捕まってしまった絶望感にサディアは吐き気を覚える。目が回ってどうしようもなく苦しいのだ。
一方のフェリクスはフクロウの不調に気づくこともなく街の様子を見渡していた。道にはちらほらと人が歩いているだけで、暗さも相まって皇帝が馬車に乗っていることに気づく者はいない。
「この街は静かだな」
「そりゃもう夜ですから。裏路地に行きゃ賑わってるところもありますがね。大体はこんなもんですよ。今は幕間といったところかな。皆、今日一日の疲れを労って、明日に立ち向かうための英気を養います。フェリクス様のおかげで商売も順調ですからね。朝になればそれはそれは街も賑やかになります。皆、フェリクス様に感謝してますよ」
「もったいない言葉だ」
「はは。またまた。謙遜なんていりませんよ。ところでフェリクス様──」
静かな調子でフェリクスと会話を続けていた御者がふと疑問を口にする。
「一体それは何を持っているんですか。もぞもぞと、動いているようにも見えますが」
「ああ。これか。泥棒の駆除だよ。いや、害獣か?」
「ははは。さすがフェリクス様。街の平和はやはり、あなたのおかげだ」
御者が温厚な笑い声を上げるとフェリクスも彼に合わせて微かに口角を持ち上げた。その下で、フクロウとなったサディアは襲い来る眩暈と戦っていた。




