1 光の祭典
「うわああああああああっ‼」
裏返った叫び声が青々とした森を駆ける。木々に反響する鬼気迫る声に驚き、羽を休めていた鳥たちも思わず空へと飛び立った。
「やめろやめろ! 来るなってば!」
頭上の遥か彼方を小鳥たちが散り散りになる中、声の主の絶叫は続く。
落ち葉や枝をザクザクと踏み越えていく足音は忙しなく、彼が何かから逃げていることは明白だった。
「──ったく! しつこい奴だな──!」
苛立ちのこもった恨み節が吐き捨てられると同時にため息が出ていく。
どうやら怒りを言葉にする余裕くらいは残されているようだ。
低すぎることもなく、かといって幼いわけでもない彼の声から察するに、森を逃げ惑うのは若い男だろう。
しかしいくら森を見渡しても青年のような姿は見つからない。
低木に隠れて謎の声の逃走劇を見守るシカが首を傾げた。シカの視線の先を高速で遮って行ったのは大きな翼を広げた鷲だけだ。
巨体の脅威が過ぎ去り、シカは低木からそっと顔を覗かせる。鷲は目の前を逃げ惑う獲物に夢中でシカの姿には気づかなかったらしい。
安堵の様子でその場を去ろうとするものの鷲が一体何を追いかけていたのかは分からぬまま。鷲の残像を振り返りシカはもう一度首を捻った。
「あー! もう! いい加減にしてくれよ……」
一方、姿の見えない青年の声には疲労が露わになってきた。息は切れ、呼吸は荒い。文句を呟く元気も薄れてきている。それでもぜえぜえと必死で呼吸をしながら何かの脅威から逃げ続けていた。もちろんそれは、背後に迫る迫力の巨体。鷲の注目は今や目の前の餌のみだ。
鷲の視線の先をちょこまかと逃げるのは生い茂る雑草と変わらぬ背丈の小さな身体だった。
長い尻尾はふわふわと毛量が多く、上品で小ぶりな二つの耳はピンと立っている。
短い手足で草を掻き、自らの力のすべてを捧げて全速力で走っていく。
鷲の鋭い瞳とは対照的な大きく丸い瞳は愛らしく、光を取り込んできらきらと輝いているようにも見えた。
他の森の生物たちと違うことと言えば、その胸元に微かに光を放つ宝石が埋め込まれていることだろう。だがそれ以外は何の変哲もないただの小動物。
鷲が狙っているのは栗茶色の体毛に包まれ、背面に縞模様が見えるシマリスだ。
そしてこの小さなシマリスこそが、先ほどから森を騒がしている青年声の正体だった。
「誰かっ、誰か、助けてくれー‼」
いくら表情が可愛らしく見えようとも、今の彼は鷲の凶悪な爪から逃げ惑う究極の状況にある。手当たり次第に助けを求めてみるがその声に応える者もいない。
「くそっ……‼」
体力が尽きてきたのかシマリスの走る速度が徐々に緩やかになっていく。このままでは鷲に捕えられひとたまりもない。少しずつ。けれど着実に。
慈悲も迷いもない鋭利な爪が容赦なくシマリスの身体に近づいていく。
気配を感じ取っているのだろう。シマリスの愛くるしい表情が絶望に歪む。
──ここまでか
両手足が重くなり意識が絶え絶えになってきたシマリスはふと空を見上げる。
夕刻から夜へと向かう今、ちょうど燃えるような太陽の海が森の奥へ沈んでいくところだった。シマリスの瞳が僅かに星を掠めた──その時。
「グワッグワワッ」
突如として鷲がバサバサッと翼で急ブレーキをかけて動きを止める。目の前が急速に霧に遮られたからだ。大胆に翼を動かす鷲は何が起きたのか分からずその場に留まる。翼が煽った風により白に包まれた鷲の視界は瞬く間に晴れていった。すると。
「────っぶね……!」
「ガッ⁉」
霧の中から現れたのは先ほどのシマリスとは比べ物にならないくらい背が高い青年の姿だった。彼は地面に尻もちをついたまま咳き込み、涙目になって鷲を睨みつける。その胸元には美しいアメトリンのような宝石がネックレスとして携えられていた。
どこからともなく姿を見せた彼の鋭い眼差しに驚いた鷲は目を丸くさせて嘴を開く。
「ピィイイ……!」
目の前で起きた衝撃を受け止めきれなかった鷲はそのまま鳴き声を轟かせてこれまで来た道を引き返していった。
「はぁ……今回は結構本気でマズかったな……」
鷲の翼を見送りつつ青年は土で汚れた手で額の汗を拭く。おかげで彼の顔には泥の一直線が描かれる。
「──って待て! いけないっ。もうそんな時間か……‼」
ほっとしたのも束の間。くったりと脱力して座り込んだ彼の身体が雷に打たれたかのようにピンっと強張る。
慌てて立ち上がり、今度は長い脚で森を駆けて行く。
胸元のネックレスが彼の動きに合わせてゆらりゆらりと大きく揺れた。
*
中央がくり抜かれた美しい円形。夜空に描かれた金色の輪が星とともに輝いている。今宵も月は惜しみ無く地上を照らす。
昨日までと変わりない清廉な月明りの下、多くの人影が賑やかにうごめいていた。
「サディアー‼」
遠くから聞こえる友人の声にピンクブラウンの髪が後ろを振り返る。群衆の間から見え隠れするのはやはり彼だ。
「トビアス。こっち」
サディアは大急ぎで走ってくる彼に手を振る。彼女のそばかすの頬からくしゃりと力が抜けていった。
人の間を縫いながら真っ直ぐにこちらに向かうトビアスの巻き毛の髪は風に押されて後ろに流されていく。彼が身に纏うシャツは走ったせいか多少の乱れがある。その余波で彼のトレードマークであるネックレスの飾りがシャツの内側に入ってしまっていた。
「悪い。遅くなった。間に合ったか?」
「うん。大丈夫。まだ始まっていないから」
トビアスの問いかけに答える彼女のハスキーな声は耳触りが良く印象に残るものだった。サディアのもとまで辿り着いたトビアスは息を切らして膝に手を添え前傾した。呼吸を整えているらしい。
「良かった。どうにか間に合ったか……」
サディアの返事を聞いたトビアスは安堵の笑みを浮かべて身体を脱力させる。
「ちょっとちょっと。間に合ったとはいえこっちも開始が遅れただけだし、正式に言えば遅刻なんだから」
そう言ってサディアの斜め前からにょきっと顔を出したのは彼らの友人でもあるニコラだった。身体を傾けたことで一つに束ねたボリュームのある三つ編みが彼女の胸元に落ちてくる。
「なんだよ手厳しいなぁ」
唇を尖らせるニコラに対しトビアスは参ったという顔をして頭を掻く。
「でも、いいじゃない。ニコラ、結局は間に合ったのだから」
「そうだけど。だけどやっぱり何か捻りがないと待ちぼうけただけでこっちとしては面白くない。そうだ、遅刻の罰として今日の祭りでの食事は全部トビアスのおごりってことにしよう」
サディアの言葉に頷きつつもニコラは腕を組んで名案とばかりに声を弾ませた。
「はぁ? ったく……しょうがねぇなぁ」
ニコラの提案に逆らうとどうなるかトビアスは熟知している。意志の強い彼女のこと。ここで歯向かえば何倍にもなって厄介な小言が返ってくるに違いない。
彼女の提案を渋々受け入れたトビアスはやれやれと首を横に振った。
「あっ。二人とも、そろそろ始まるみたい」
二人のやり取りを見ていたサディアはそわそわし始めた群衆の表情を窺って二人の肩を叩く。
三人が前を向いたタイミングで辺りを照らしていた無数のランタンから灯が消え、ふっと辺りが暗くなった。
「お。ようやくお出ましか」
トビアスが腕を組んで骨董品の価値を見定めるように深い声を出す。
ランタンの灯が消えたことで群衆のざわめきが一瞬にして大波を引き起こした。
「夜帝様のご登場だねぇ」
ニコラもトビアスと変わりない表情をしてニヤリと笑う。