8、生きる為に必要な
「気が付いたか。」
「お父さん?」
「よかった。旦那様と累様を呼んで参りますね。」
ササさんが部屋から出て行った。ここはこの前泊まらせてもらった部屋だ。いつも通り無表情の父が傍であぐらをかいて座っている。
「全くどうしてお前は迷惑ばかりかけるんだ?」
「すみません。」
なんとか起き上がり体を起こして父に謝る。その時、累が入ってきて私の傍まで来て膝をつき私の体を支えてくれる。後ろからゆったりと累の父も入ってきた。
「そこまでしなくても構いませんよ。どうせ大したことないのに。」
父は呆れたようにため息をついて私を冷たく見ている。いつからだろう私をこんな風に見るようになったのは。
「片岡様、ご自分の娘が野蛮な者達に襲われ眠れなくなってしまったというのに随分と非情な方ですね。」
「ちょっと累いいから。」
私は小声で彼を宥める。父ははっとして累を見て、累の父の高梨の旦那様は無表情で私の父を見た。
「累それはどういう意味かな?」
高梨の旦那様が優しく累に聞く。
「そのままの意味です。先週の土曜日、片岡様は奥様と楓様の三人で有馬に旅行され夜になり使用人もなく家に一人残された彼女は泥棒達に捕まりかけて必死に逃げ隣の軍人に助けられたのです。その日は軍人の家に泊まり次の日は家へ。ちょうど父さんが東京に出張していた日です。」
「そんな事が。累はどうしてそれを細かく知っているのかな?」
「片岡家に家族が誰も居ないから婚約者の私の所へ警察がきて全ての事情を話してくれました。そこで迎えに。」
「ふむ。桜さんもしも眠れないというのなら少しの間、こちらの高梨の家で過ごしますか?表向きは花嫁修業とでも言えば良いでしょう。」
「それはご迷惑では。」
父が私より先に答える。
「お言葉を遮って申し訳ないですが片岡様、私はお嬢さんに話を聞いています。」
高梨の旦那様は時折とても威圧感がすさまじくこちらから一言も言い出せないような雰囲気を作るのが上手である。平民から身一つで会社を大きくした方だからか交渉術にはとても長けている気がする。それでも身分がどうとかで色々言われるらしい、この前累も言っていたが身分にこだわる人が多いのはどうしてだろう、未だに私には理解できない。
「高梨様の家。」
「ええ。家には私と累とササしか居ないがそれでも良ければそうだな年が明けて学校が始まるまでこちらで休養しなさい。」
どうしようと累を見ると小さく頷いてくれたので少し安心して、
「ではご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。」
と高梨の旦那様に頭を下げた。ちょうど良い先生と顔をあわせなくて済むしここでは家よりはゆっくり眠ることができるかもしれない。
父は怒って私を置いて帰り高梨の旦那様は会社に戻ると行ってしまい累と二人きりになった。
「3週間位あるからさすがに荷物を取りに行くぞ。君の具合がましになったら私が車で君を家に連れて行く。」
そういえば高梨の家の人達は運転手を雇わない。いつも旦那様も累も自分で運転している。私はなんでもできて凄いと思うけど父はあまりよく思っていない。
「何から何まで本当にありがとう。」
起きてから30分以上経つのに累はまだ隣に座って背中を支えてくれている。
「その簪つけてきてくれたんだな。似合っている。」
「ええ、ありがとう。」
累が照れて私にも伝染して二人して黙ってしまう。気まずい。
「…滋賀の君の家の別荘で結納式をしただろう。そこまで正式なものではなかったが。」
気まずい沈黙を破る様に累が話し始めた。
「ええ。」
確か仲人さんは累の上司のご夫婦になっていただいた。高梨家は結納金を準備してうちは雛祭りの飾りみたいなのと食事を用意した。
「その時、心の中で誓った事があるんだ。」
「誓った事?」
「君が安心できる存在になると誓った。」
「安心?」
「簡潔に言えば私といれば安心、安全で危険にさらされない、そんな存在になろうと思ったんだ。夫婦という関係になる上で、君に私から与えられて他人は与えられない物はそれしかないと。」
「そうなのね。」
「だがそんな事は無理だと分かっている。だから今、君に伝えたんだ。」
「どうして?」
また少し照れて累はこっちを見た。
「…なんでも言ってほしい。君のためならどんなことでもする男が傍に居ると覚えて居てほしい。」
「今でも充分よ。心からそう思ってる。いつもありがとう。」
私は布団から少し出て背中を支えてくれている累の腕の中に入り込んだ。累は拒否せず自分の胸の中に私を抱いてくれる。頬に当たるスーツの生地は冷たいのに包まれていると温かいこの腕の中は安心安全ということ。累の心臓の音は少し早くてうるさかった。
「累、先生に数週間、家庭教師をお休みすると伝えて来るから待っててもらえる?」
「ああ、だが。」
累が分かりやすく言葉を濁している。家に二人で戻ると父はやはりおらずもぬけの殻状態だった。私の荷造りを手伝わせない為だろう。累が手伝ってくれて必要最低限の物は既に車に積んである。
「何?」
「てっきり家庭教師は続けると思っていたから。毎回連れてきてやるつもりだった。」
「ありがとう、でも花嫁修業なら忙しくてそんな暇がないでしょう。」
「君に何かをさせるつもりはない。」
彼は私への好意を隠さなくなった。だけど今思えば最初からずっと優しい人だった。
「とにかく私の部屋で待ってて。」
「分かった。」
桜が部屋を出て行くとすぐに不愉快な女が断りもせずに入ってきた。桜とここへ来た時、家には誰も居なかったと思ったが。
「累さん、お久しぶりね。」
「これはこれはご機嫌よう、楓さん。」
私はこの女が明確に嫌いだ。
「累さんって相変わらずね。」
「勝手に姉の部屋に入ってきて何かご用ですか?」
桜がいつも着ている物よりも上等な真っ赤な紅葉の着物。
「あのね、私達って協力できると思うの。どうかしら?」
何故か私の隣に座っている。
「何を言っている。」
「多分、貴方は誤解してると思うの。」
「……。」
「本当につまんない男。」
「用件は?」
「私ね、なんでもかんでも欲しいわけじゃないの。」
「へえ。」
「やっぱり誤解してるー。私はね姉さんの大事な物が欲しいの。分かる?」
「分からないな。」
どうしてこんな奴が桜の妹なのだろうか。
「ふっふふ、だから貴方はいらないの。」
心から不愉快な女。
「何が言いたい?」
「私は隣の先生が欲しいの。だから先生のことを父の前で褒めて結婚相手に推薦してほしいの。」
「協力など。それに貴様が書生とできているのは一目瞭然だ。」
「あらやだぁ、できてるなんていやらしい。それに貴方だって先生が消えたら不安要素は減るでしょう。見てよあの二人、あれは愛し合っているわ。」
楽しそうに窓の外を指さす。確かに桜のぎこちない笑顔や家庭教師のあの表情見るに、あの二人…明らかに…意識しあって…今にも二人で心中でもしそうな雰囲気である。
「……。」
楓が私の胸に自分の頭をのせて寄りかかってくる。うっとうしい。だが仮にも桜の妹だ手荒な真似は避けたい。
「うふふ、ねえ貴方の隠し事を知ってるわお義兄さん。」
「ふっ。」
「あはっ、はったりだと思っているのね。貴方にさちという愛人はいない事。」
「……。」
「もう一つは貴方も私と同じ手を使ったということ。それに姉さんと初めて会った本当の場所は牛鍋屋じゃないわよね。それに貴方の家の事。」
「どうしてそこまで桜を苦しめるんだ?」
「言ったでしょう、私は姉さんの大事な物が欲しいの。言い換えればそれ以外はいらない。」
「泥棒に入らせたのは何故だ?」
「えー急になにー?びっくりした。でもそうだなぁ私がしたわけじゃないけど、私が思うに自分よりも幸せな人を見ると腹立つからじゃない?」
「私は君が嫌いだ。好きなだけ言えばいい。」
「うーじゃあとっておき。姉さんに懐紙に何を隠してるのか聞けば?」
「懐紙?」
「ええ、大事そうに風呂の中まで布巾に包んで絶対に肌身離さず持ってるわ。寝るときは枕の下か帯の中。」
「何を?」
「さあ?でもあれこそが姉さんの一番大事な物よ。じゃあ気が変わったら言ってくださいねお義兄さん。後、窓の外を見た方が良いわよ。」
「なんだと?」
そこには誰も居なくなっていた。
部屋に累を残してお隣へ。ちょうど家庭教師の時間だったので軍服姿の先生はすぐに出てきてくれた。
「桜さん体調はいかがですか?」
いつもの笑顔なのに心がチクリと痛む。
「ええ、もうすっかり。火曜日はすみませんでした。」
「でもまだ顔色があまり良くないようですが?」
私の顔を覗き込む先生、顔が近くてあの夜を思い出す。
「いえ本当に大丈夫です!」
「そうですか。今日の家庭教師の時間まで少し早いですがもう始めますか?」
「その事なのですが、今日から年明けの登校日まで婚約者の家で花嫁修業をする事になりましたのでその期間はお休みということでお願いします。どうか勝手をお許しください。」
「そ、そうですか。分かりました。」
少し動揺して目が泳ぐ先生。
「はい、よろしくお願いします。それでは失礼致します。」
私はまた鼻がジーンとなってきて泣きそうになるのを堪えながら笑顔で頭を下げた。そのまま立ち去ろうとすると先生に手を掴まれた。それだけで心の炎が再燃する。
「待って。待ってください。」
「先生?」
「どうして泣いているのですか?婚約者はやっぱり貴方を傷付けているのですか?」
「違います。彼が悪いわけではないです。」
伏し目がちに先生に掴まれている手を見る。それでも先生は手を離してくれない。
「ああ、本当に、もどかしい。俺は貴方を。」
ぐっと手を引かれて玄関の扉の後ろに連れ込まれて力強く抱きしめられる。先生の家の中に久しぶりに入った気がする。
「せ、先生?」
先生が私の顔を右手で支えて視線が合うように固定される。
「傷付けたくはないのに。」
そして口付けられた。先生の唇が私の唇に触れて離れてまた触れる。そのまま私の首筋に唇があたり先生がその状態で話し続ける。
「貴方はどうしてこんなに愛おしいのでしょうか。自分を抑えられなくなる事なんて貴方以外ではあり得ない。」
そしてまた唇に戻ってきて口内に舌の感触がして離れまた何度も触れる。唇を舌で舐められると体中が震えそうになる。先生も私も息切れしてどちらともなく抱きしめる。
「もう俺は必要ありませんか?彼が全てになってしまったのですか?俺はこんなにも貴方が必要なのに。」
「先生。私は。」
「桜!帰るぞ!」
家の方から累の叫ぶ声がする。先生がゆっくりと私を離す。
「貴方は本当に他人の妻になるのですね。俺達はもう会わない方が良い、さようなら私の桜さん。」
「さようなら私の先生。」
先生の家から飛び出して累の所へ駆け寄る。
「君は何をしていたんだ?」
少し怒った様子で私に詰め寄る。
「最後のお別れをしてきたの。家庭教師はもう終わりにした。」
もっと動揺した声になるかと思ったのに驚くほど冷静な声で私は自分に驚いた。
「終わりに?」
私の冷静さにあてられたのか累も少し落ち着いてくれた。
「ええ、もう二度と先生は家に来ないわ。」
「そうか。」
累はすっかりいつも通りの無表情に戻り車のドアを開けてくれる私もそれに従い助手席に座る。
これで終わり。最初から始まってもいない。