7、期待し裏切られる
心臓がドクドク脈打ち足の裏から浮いているような風に吹かれているような落ち着かない感覚が続いている。夜になって自室の布団に入ると強盗に襲われそうになったあの夜を思い出し体は熱くなったり冷たくなったり息苦しくなったり控えめに言っても死にそうだ。
「はあはあどうしましょう。明日は朝から学校なのに。」
こんな事になるならやっぱり累の家に嫁いでしまえば良かったのかしら?呼吸が乱れ息も絶え絶えになりながら一人布団の中でじっとおさまるのを待っていたがおさまる気配はないので、仕方なくズリズリと布団から重い体で這いずり出て傍にあったセーターを羽織る。このセーターは累が少し前に贈ってくれたものだ。誰も起こさないように部屋から出て庭へ向かう。累の家とは比べものにならないくらい小さい庭だが私は好きだ。丁度私の部屋の下で先生の家の側。両親と楓の部屋は南向きの窓がある部屋なのでこちら側にはなく庭に対する興味も誰も持っていない。
「泥棒達はここのガラス戸を割って入ってきたのね。」
既に直っている戸を開けて庭へ出る。寒いけれど息苦しさは消え冷たく澄んだ空気を吸い込む。もう少しだけここに居ようと小さな池に続く御影石材の階段に座り庭を眺める。昔はその池に縁日ですくった金魚が数匹居たのだが楓が何か見たことの無い粉を入れた途端、全ての金魚が死に浮き上がってきた。それから池で何かを飼うことは無くなった。
「私は大丈夫。私は大丈夫。」
根拠の無い言葉は夜の暗闇に消えすぐに静寂に支配される。私はなんだか泣きたい気持ちで立ち上がる。だけどこのまま部屋に戻ったらまたぶり返しそうだし他に行く当てもないのに、ここに居たくない。
「桜さん?」
「その声は、先生?」
顔をあげると先生が家との境界になっている竹垣に手をかけてこちらを見ていた。わたしも傍まで駆け寄り先生を見る。
「大丈夫ですか?」
心配そうに私を見ている。
「大丈夫です。ちょっと外の空気を吸いたくて。」
無茶がある。顔を引き攣らせて真冬に裸足の女が言う理由には無茶がある。だけど先生はいつもの優しい穏やかな笑顔になった。
「そうですか、今夜は空気が澄んでいて月が綺麗ですから良いですね。ですが風邪をひいては元も子もありません。少し待っていてください。」
先生は家の中に戻りすぐに外に戻ってきてくれた。手には毛布を抱えている。先生自身もいつも軍服の上に着る上等な外套を羽織っている。
「ほらこれは汚れても良いですから自分をくるんでください。」
「えっでも。」
私の手にほんの少しだけ触れてふっと笑う。
「ほら貴方の手、もうこんなに冷えて、風邪をひきますよ。」
そう言って竹垣越しに毛布をひろげて私を包む。冷たい毛布が肌に当たる。先生の家の匂い。
「ありがとうございます。」
「桜さんもうすぐ年越しですね。お正月はどちらへ?」
「えっと今年は家で過ごす事になると思います。楓が祖父母の家に行きたくないと言っているので。」
私は会いたいけど。
「でしたら初詣はこちらで?」
「そうですね、でも毎年凄い人でしょう。なので三が日を過ぎてからになるかもしれません。父も母もそこまで信心深い方ではないですので。」
「そうですか。」
先生が穏やかに微笑む。
「先生、ありがとうございます。本当にいつもすみません。」
頭を下げる。こんな寒い中、私の気持ちを察してここに居てくれる先生には頭が上がらない。
「桜さん俺が今考えているのは。」
先生の言葉が止まったので顔をあげると先生が少し近くまで来ていた。そこで初めて私は竹垣に触れた。その瞬間、先生が私の手を掴み私の体が竹垣に当たった。
「あっ。」
私は当たった事に少しびっくりして竹垣から体を離そうとすると私の手を握ったまま先生がそっと近付き耳元で囁いた。
「今夜、俺の腕の中で眠りにつかせてあげたい。」
「えっ。」
「この前の夜みたいに毛布で包まれている貴方を見ると温もりと柔らかさをこの手に思い出すよ。」
またそっと手を握られる。ああ、先生が私の体を燃やし尽くそうとしている。子供の頃から胸に秘めてきた小さな火種がその言葉で、瞳で、笑顔で炎が大きくなっていく。
「俺の胸に頭を置いて穏やかに眠る貴方を見て俺も貴方を抱いたまま、そのまま朝を迎えて。」
「先生。」
心臓がうるさい。あまりにも辺りが静かで脈打つ音が先生に聞こえるのではないかと思って恥ずかしくて離れたいのに先生は手を離してくれなくて思わず身をよじる。
「最近、俺は貴方の兄でいることが難しいです。」
「えっ。」
びっくりして顔を見上げると先生は眉間に皺を作り眉尻が下がり目を細め私を見ている。切なそうな苦しそうな表情の先生を見ていると私まで切なくなってくる。少しずつ先生の顔が近付き私は目を閉じた。先生は私の手をぎゅっと握り少し力を緩めてから手を離した。
「寒いですね。」
先生は呟く様にぽつりとこぼした。もう私を見ていないし、いつもの穏やかな笑顔の先生に戻っていた。
「先生そろそろ中に戻ります。」
「ええ、その方が良いですね。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。毛布ありがとうございました。」
先生に毛布を返して部屋に戻って布団を被りひたすらに泣いた。泣いて泣いて泣いて気が付くと朝になっていた。私はその日の家庭教師を仮病を使って初めて休んだ。
「今日はいつにもまして浮かない顔だな。」
累が心配そうに私を見た。煙草の煙が私にかからないように風下に立っている。
「そうですか?すみません。」
「いや。」
この1週間は本当に救いのない1週間だった。結局あれから殆ど眠れずに夜を過ごし先生を避け続けている。今日は化粧をしてなんとか誤魔化しているつもりだが目の下のくまは消えなかった。
「累ごめんなさい、いつもあなたには迷惑をかけていばかりね。でもありがとう。」
今日は会ってすぐに累が気を利かせて父親二人から離れてくれて無理に笑ったり気を遣って話を聞かずにすんだ。
「いや、いいんだ。あんな事があったばかりだし大変だろう。だがその顔。夜眠れていないのか?」
「ええ、この一週間殆ど一睡もできなかった。」
「私の家では眠れたのだろう?」
「ええ、環境が違うしそれに貴方、夜に顔を会わせないようにしてくれたでしょう?だから緊張せずに眠れた。貴方の気遣いのおかげでありがとう。」
「そうか。」
「貴方が嫌いなわけでは決してないわよ。でも男の人がいるのは緊張するから。」
「ああ、だがそれで君の体調は大丈夫なのか?」
煙草の火を消して缶に入れている。池の鯉は今日は元気で累が私に麩をやれと言うのでちぎってあげている。パクパクと口を開けながら何匹も寄ってくるので池の水がたまに着物にはねる。
「ありがとう。本当はとても悪いわ。でも父の機嫌が悪くなる方が疲れるから。」
麩をあげ終わったので立ち上がると急に立ちくらみを起こして目の前が真っ暗になる。
「そうか。だったらそろそろ中にっておい!」
私は累の腕の中で気を失ってしまった。