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6、池の鯉


 それからすぐに累は仕事があるからと出かけてしまった。ササさんが今日はゆっくりお休みくださいと言うのでその言葉のままに休む事にした。

 少し軽めの絹の着物に着替えて本を読んだり昼食後、昼寝をしたり庭に出て池の鯉を見た。


「ここの鯉は元気ね。」


 華やかな色を纏って泳ぐ鯉を眺めていると時間を忘れてしまう。


「でも私と一緒、この池からは出られない。」


 だけどここから出たところで生きていけない。また池の鯉を眺める、鯉は変わらずに優雅に泳いでいる。ぼーっとしていたからか背後に累がいた事に気が付かなかった。


「桜、そろそろ中に入りなさい。寒いだろう。」


「わあ、びっくりした。累、おかえりなさい。確かに冷えるわ。」


「ただいま、そうだろうほら立って中に戻ろう。」


「ええ。」


 累がそっと手を貸してくれる。


「ああ、こんなにも手が冷えている。どうしてこんなになるまで気が付かないんだ?」


「ごめんなさい。」


 応接間に戻ると火鉢を近付けくれて私の手を両手で包みながら息を吹きかけている。幸さんにもこんな風に触れるのかしら?


「そこまでしなくても。」


「君は寒さを軽視している。いつか風邪をこじらせるぞ。京都の冬は厳しい。」


 なんだか手を包まれているのが恥ずかしい。


「でも雪景色はいつも美しいわ。赤い鳥居にうっすらと雪が積もったり石階段にも。」


「私は寒いのが苦手だ。」


「そう。」


 話している間も両手で包みながら私の手を温めている。少しだけかさついている累の手は先生の手より小さく微かに煙草の匂いがする。


「ほら少しましになった。夕食をササが用意してくれているから。」


「私ずっと食べているわ。太ってしまうかしら。」


「そんなことを気にする必要はない。」


 冷静な累はそれ以上何も言わなかった。そういえば昔、お花見に滋賀の別荘へ行ってその時は先生も一緒に居て、そうだあれは私の誕生日会も兼ねたお花見だった。13で私はあの時初めてカステラを食べてちらし寿司も食べた。あの日は一日中食べていたから先生に同じ事を言ったら先生は私を抱きあげて、


「大丈夫、軽い軽い。」


 って高い高いをしてくれた。あれが私の最初で最後の高い高いだった。先生、私の先生。滋賀の別荘の一番の思い出。


「さあ夕食を食べよう。」


「えっええ。」


その後は特に何もなく夕食をとりササさんが敷いてくれた布団で眠りについた。ササさんはそもそも住み込みの女中さんだったので夜も居てくれて、安心して眠る事ができた。でも累とは夕食後から一切顔を合わせなかった。私の緊張を察して夜は出会わないようにしてくれたようだった。


「ふあぁ。ここは。」


 いつもと違う部屋。勿論すぐに高梨のお家だと理解する。今日こそ家族は帰って来るのかしら?


「桜!入ってもいいか?」


 累が襖越しでも聞こえるように大きな声で声をかけてくれる。私は慌てて起き上がり傍にあったはんてんを肩にかける。


「ええ、どうぞ。」


 私が返事をするやいなや入ってきた累は服も着替えていて身支度が済んでいるようだった。その後ろには微笑んでいるササさんが居る。


「迎えが着たぞ。」


「分かりました。」


 すぐに支度をして累の後について玄関まで歩いて行くとなんだか申し訳なさそうな運転手の吉川さんが現れた。彼は長く家で運転手をしてくれて私を娘のように可愛がってくれている。


「桜様この度は申し訳ございませんでした。」


 深く頭を下げる彼に慌てて駆け寄る。


「やめてください、吉川さん。」


「私は席を外そうか。」


「いえ、こちらに居てください。未来の旦那様に私の話を知っておいていただきたいのです。」


「分かった。」


「ありがとうございます。お嬢様、この度は誠に申し訳ない気持ちでいっぱいです。」


「いいえ、大丈夫です。先生に助けていただいてその後はこちらの累様にお世話になりました。」


「申し訳ございません……楓様に家を空けるから休みをとれ、家には誰も残るなと言われ仕方なく。女中も皆既に帰ってきています。どうしてこんな事に……。」


「良いのです。誰も悪くありません。強いて言うなら泥棒が。」


「その事ですが、その者達も誰も居ないという情報をしっかりと掴んでいたらしいです。それであの家にしたと。酒場で聞いたらしいです。勿論定かではありませんが、これも楓様が流したのではないしょうか。ご友人達と良くない場所に出入りしているのを見たことがあります。」


「……そう。」


「桜様、早くこちらのお家へ嫁いだ方が安全なのではないでしょうか?楓様がこれまで桜様にしてきたことを考えれば。」


「桜はどうしたいんだ?」


「私は。」


 一番に頭に浮かんだことは累には言えない。家を出てしまえば先生との家庭教師の時間はなくなる。学校を卒業すれば終わりだと分かっているけどその数ヶ月も失うなんて。


「桜、君のその憂いは私では払えないのか?」


「憂いなんて…ないです。」


「桜様。」


「私、本当に学ぶことが好きなんです。私達は婚約しています。本来ならすぐに学校を辞めて高梨の家に入るべき所を累様の寛大な心で卒業まで待ってくださると言ってくださいました。それは私にとってとても有難く嬉しかったんです。」


「桜。」


「だから憂いとかそういう事ではないんです。ただ残念だと感じているだけです。」


「桜様は昔から字を読むのも早かったし計算もすぐに解けますものね。」


 吉川さんが昔を思い出しているのかしみじみと言う。


「私は君の意見を尊重したい、だが君が傷付くのは見ていられない。そうだな一番良い落とし所は君と会う頻度をあげるしかないな。」


「でも貴方、物凄く忙しいですよね。牛鍋の日だって出張帰りだったでしょう。」


「私の仕事が忙しい事と君と会う頻度をあげる話は関係がない。」


 日取りの事なのだから関係は大ありだと思うけど……。私が余程訝しげな顔をしているのか累は表情は変わらずにほんの少しだけ不機嫌そうな声色で続ける。


「君は私を信用していないのか?そんなことできるわけがないと思っているのだろう。日程の調整もできないような男だと。」


「そんなことは。」


 幸さんに会う時間も必要でしょう?と言いかけて黙る。口に出すとますます怒らせてしまう気がして。


「分かったわ。日程は任せます。ただ学校と家庭教師の時間は今まで通り避けていただければありがたいです。」


 これで良いだろうと少しすまして言う。累は少し満足気に薄く笑いながら私を見ている。


「じゃあ次に会えるのを楽しみにしているよ桜。」


「ええ、ではご機嫌よう。」


 吉川さんが車のドアを開けてくれたので足早に乗り込む。何故だか早くここから離れたかった。

 家に帰るとまだ家族は帰っていなくて女中さん達にひたすらに謝られてしまった。結局、夕方に家族が帰ってきても特に泥棒の話をする事なく炭酸せんべいだけを渡されて皆それぞれ部屋に戻ってしまった。

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