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3、心の底


「今日はなんだか集中出来てないですね。」


 その言葉にはっとして私は先生を見る。怒っていない、いつもの春の陽だまりみたいな笑顔に安堵する。


「すみません。」


「大丈夫、怒っていないです。人間そんな時もあります。ただ君にしては珍しかったから、ちょっと心配になって。」


「大丈夫です。ただ昨日眠れなくて。」


「そうか…なるほど。」


 先生は少しうつむき、また私を見る。


「先生?」


「桜さん、心が苦しくなったり辛くなったら一番安心する物を心に浮かべてごらん。それが貴方をきっと助けてくれます。」


「先生。」


 私は目を閉じて考える。安心する物、それは先生の笑顔。それ以外に考えられない、どんな時も私の心の支えだった。私を産んだ時に亡くなった母を愛していた父には憎まれ継母からは無視され妹からは虐げられているそんな状況でも先生が笑顔で傍に居てくれた。先生の笑顔に何度も何度も助けられた。先生の家庭教師の時間がなければ私は生きることに耐えられなかった。


「おや、少し表情が明るくなったね、良かった。」


「ええ、先生ありがとうございます。」


「それがこれからも貴方の助けになるように祈ります。」


「ありがとうございます。」


「さあ続きをしようかな。」


 勉強を再開した先生はまた穏やかな笑顔で笑っている。私も自然に笑みを浮かべていた。


「じゃあ今日はここまで。また火曜日に。」


「はい。ありがとうございました。」


 とはいえ隣に帰られるだけなのだけど。玄関先までお送りしたくて廊下を一緒に歩く。玄関で先生が立ち止まり、靴を履くのかと見ているとくるりと私の方へ向き直り気まずそうに話し始めた。


「……昨日、貴方がいつもの時間に帰って来ないと女中から聞いてほんの三十分程でしたがとても不安になって心配しました。すぐに婚約者殿の秘書が来て説明していったから事なきを得ましたが、女中も使用人も運転手もそこら中探し回っていました。」


「えっ先生にもご迷惑を…すみません。」


「それで…昨日、車の中で…夜に…少し…貴方達は婚約しているのだから問題ない事だと分かっているけど…あまり目立つところでは…やめておいた方が良いと…思います。」


「へ、あ、そう、ですね。」


 見られていたこの世で一番見られたくない人に。恥ずかしくて仕方がない。先生が空気を変えるために少し明るい声で言う。


「でも、仲が良さそうで良かった。愛しい妹が結婚するのに嫌な相手ならば悲しい。」


「ありがとうございます。今後、気を付けます。」


「素直で良い子だね。」


 といつもの笑顔で頭を撫でてくれた。それから先生が靴を履き始めた。靴紐を結ぶ後ろ姿を見ながらぐっと様々な感情を我慢する。

 嬉しい反面、心がチクリと痛む。でもこの痛みには目を瞑ることにしている。先生がつけるこの傷に目を向けるのは良くないと分かっているから。


「ではまた桜さん。」


「ええ、それではお気を付けて。」


 先生を隣まで見送る。先生がお家に入るときに振り向いて私に手を振ってくれたので手を振り返す。


「お姉さん。」


 楓が後ろに立っていてぎょっとする。また何か私にするつもりなのだろうか。


「はい。なあに?」


「そんなにおびえなくても、私がいつも酷いことをしているみたいじゃないですか。」


「ごめんなさい、それでどうしたの?」


「今日は私と両親と3人で食事に行くからお留守番よろしくねって。」


「ええ、分かったわ。」


「昨日、牛鍋をいただいたんでしょう。お姉さんだけずるい。」


「累さんが。」


「じゃよろしくね。」


 私の話を聞く前に行ってしまった。まあ聞く気もないと思うけど。楓は赤地金の糸で紅葉の刺繍が入った着物を着ていた。あんな高価な着物、私には。一着だけあの藍色の着物しかない。一着あるだけ充分か。私は玄関の扉を施錠して家の中に戻った。



 ガタン


「うんん。三人が帰ってきたのかしら?」


 楓が夕食はいらないと女中に伝えていたので気が付いたら皆帰っていて私は夕食を食べ損ね仕方なく寝間着に着替えて寝床に入ったのだが大きな物音で目が覚めた。


「お帰りなさい。」


 玄関に降りてきても誰も居ないし鍵も閉まったままだ。


「おかしいわ。」


 その時またガタンと応接間の報から音が聞こえた。私は吸い寄せられる様に音のする方へ歩いて行く。そこにいたのは手ぬぐいで顔を隠した男達だった。


「どうして誰も居ない筈だろう?」


「知らねえよ。捕まえろ!」


 逃げなくちゃ!私は咄嗟に玄関の方へ走ったが玄関にもう一人立っていて仕方なく二階上がる。そうだ私の部屋の窓から叫べば先生が!

 急いで自室に入り椅子でつっかえをしてから力の限り叫んだ。


「先生!先生!助けて!助けて先生!」


 先生の部屋で小さな明かりがついて窓が開き寝間着姿の先生が出てきた。その間も背後で階段を駆け上がる音が聞こえる。


「先生!先生!家に誰かいるの!知らない人!」


「桜さん?分かりましたとにかく隠れてて。」


 暗くて分かりにくいが先生が走って部屋を出て行くのが見えた。椅子が時折ガタガタと動かされる。私は急いで押し入れに隠れた。

 それから数分間ガタン、ドタンバタンと大きな物音が聞こえて急に静かになった。

 先生。先生。


「桜さん、もう大丈夫ですよ。」


 押し入れの外から先生の声がする。私を安心させる為なのか、いつもよりもっと穏やかな声だ。

 私は押し入れを開けて先生を抱きしめる。先生も戸惑いながら私を抱きしめてくれた。


「よしよし、大丈夫、大丈夫。全員縛り上げて括っておきましたから。」


「先生、本当に怖かったです。先生、先生。」


「よしよし。そうですね。」


 先生が涙を大きな手で拭ってくれる。先生の大きな体に包まれて私はやっと安心する事ができた。


「今日は家に泊まってください。家も俺一人ですけど、この家に一人は今日は怖いでしょう。」


「先生が構わないのならお願いします。」


「ええ、今向かいの方に警察を呼んできてもらっていますので全てが終わり次第、家へ。」


「はい。」


 私は甘えるように先生の腕の中で目を閉じた。

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