1、婚約者と私
まず初めに明治、大正時代が好きな方、心からお詫び申し上げます。舞台設定としてはなんちゃって明治、大正時代となっております。この時代にはない描写や未来過ぎるという点がもしかしたら多々出てくるかもしれません。なるべくそうならないようにと努めて参りますのでどうかご容赦の程よろしくお願い致します。
「片岡様、彼女に鯉を見せたいので少し庭へ出てもよろしいでしょうか?」
親指と中指で銀のフレームを掴み眼鏡を直しながら累が私の父に言う。濃紺のスーツはきっとテーラーによって仕立てられたもので累の体にぴったりと合い交渉をする相手にどのように見られるかは明らかである。
累は自身に異国の血が入っている事をいつも憎んでいる様子だが他の男性よりも背が高く少し焦げ茶色の髪に端整な顔立ちで充分に魅力的な部分だと私は思っている。
だけど実際に異国の血が入っているから、もっと大きな力を持っている会社のご令嬢達にはことごとく断られ、病院の院長の娘という些か政略結婚にしては弱い私と婚約するはめになってしまったのだろう。父は家を洋館にし常に背広とシルクハットという英国かぶれなので大歓迎だったようだが。
累という名前も英国人の母が呼びやすいようにと決められたらしいが名前は気に入っていて二人の時は累と呼んでくれと約束させられている。
「ああ、娘をよろしく頼むよ。桜、失礼のないようにな。」
「はい。」
作り笑顔で父に言う。累は私の手を取り縁側のガラス戸を開けて草履を揃えてくれる。素直にそれを履いて外に出る。累も同じ様に草履を履いてガラス戸を丁寧に閉めてから歩き出す。スーツに草履というなんとも似合わない格好で庭を歩いていく。高梨家の邸宅は本当に大きく庭も大きい。庭だけでも学校の教室が2つは入るだろうか、邸宅は未だに御手洗いを借りるだけで迷ってしまう。
「桜、もう笑顔を作らなくていいぞ。どうせ親二人になるとこちらなんて見ずに仕事の話しかしないのだから。」
「累様ありがとうございます。」
「様はいらないといつも言っているだろうやめてくれ。すまないが煙草を吸ってもいいか?少し離れるから。」
「ええ、どうぞ。後は帰るだけですから。」
私は藍色の着物が皺にならないように池の端にしゃがみ込み鯉を眺める。冬になりつつある季節だからかあまり元気がない様子で赤や金、白の鯉が池を泳いでいる。
累は金の煙草入れから煙草を出して口に咥えマッチをジャケットのポケットから取り出し慣れた様子で火をつけて風下で煙草を吸い始めた。
「寒いな。」
「ええ、本当。」
「学校はどうだ?」
「楽しいです。」
「そうか。私には学校の良さはわからないな。」
累が馬鹿にするように言うので、
「崇高な精神を宿し忍耐力を鍛えるには良きところです。」
と少しむきになって話すと累はすぐに謝った。怒る女が面倒なのだろう。
「ああ、すまない。学がないもので。」
お菓子が入っていた缶の様な物に煙草の灰を捨てている。貿易商をしている高梨家の人々は見たことのない物をいつも持ち歩いている。
「貴方は学校に行っていないだけで誰よりも優秀でしょう。田沼様からいつも聞いていますよ。」
「田沼、秘書の分際で知った口を。」
「まあ、酷い。」
くすりと笑う。結った髪が風で乱れそうで少し手でおさえる。そんな私を見て風よけのように累が傍に立っている。
「ああ、くそ本当に寒いな。君も足先の感覚がなくなるだろう。そろそろ入ろう。」
と言いながら煙草を先程の缶に押し付けて火を消して蓋をしている。
「ええ、そろそろ家に帰らないと。」
「ああ、件の家庭教師に間に合わないのか。」
「件のって…。そういえば貴方の幸様はご機嫌いかがでしょうか?」
「変わりない、会社の近くに住まわせている。仕事の帰りに寄ってここへ帰るだけだ。」
彼の想い人は会社の近くの食堂でウェイトレスをしている女性で一目で恋に落ちたらしい。彼ほどの男性なら何人でも女性を養えるだろう。
「そうですか。卒業まで後半年を過ぎました。それさえ待ってくだされば結婚の日取り等は全てお任せ致しますので。」
「ああ、分かっている。それに急ぐことはない。婚約はしているのだから。」
「ええ。」
累がまた私の手を取って立たせてくれる。先程と違ってとても冷たく煙草の香りがする累の大きな手だ。邸宅の方へ向き直ると累の言うとおり父親同士は何か話をしているようだ。
「さあ部屋に戻ろう。寒すぎる。」
「ええ。」
片岡の屋敷に戻ると父はすぐに病院に戻っていった。風が冷たく頬を切るように痛い。私も早く勉強の準備をしなければ。
「桜さん、おかえりなさい!」
玄関で出迎えてくれたのは女中ではなく家庭教師の村田誠さんだ。いつもの軍服を着ている。先生は軍医として軍隊に所属しているが元々隣に住む幼馴染みで今も隣に住んでいる。私にはよく分からないが違うところから派遣されて軍事施設へ家から通っている。
「すみません。遅くなってしまって。」
「大丈夫ですから、待っていますよ。」
「すぐに支度をします。」
「ゆっくりで構いませんよ。」
先生の笑顔にいつも助けられている。彼が笑顔で居てくれるだけで私は安心し居心地良くその場に居られる。水道の冷たい水で手を洗って煙草の香り落としてから女中に手伝ってもらって藍色の振り袖から普段着の着物に着替える。その女中にそのままお茶とお菓子を持ってくるように頼み勉強する応接間へ急いで廊下を歩く。
「失礼しました。先生もお忙しいのに遅れてしまってすみません。」
「大丈夫、さあ始めようか。この前はどこまで進んだかな?」
帽子を机の端に置いている。監視役として女中が部屋の隅で編み物をしているが気にすることなく勉強の時間が始まる。
「ドイツ語の教科書の56頁からです。」
「ああ、そうでしたね。」
先生は教科書を開いて目を通している。先生に英語とドイツ語を学んでいる。英語は火曜日、ドイツ語は土曜日。
「桜さんどうかしましたか?何か考え事でも?」
「いえ、その先程ある人に学校なんてと言われてしまったもので。」
「そうですか…出過ぎた真似かもしれませんが俺は学校は良きところだと思っています。国民としての規範を学び崇高な精神とどんな困難な状況に陥っても耐えられる忍耐力を鍛えるにはとても良い場所です。」
「先生、やはりそうですよね。」
「ええ、そう思います。それに桜さんは医学も学んでおられる。私も軍医として誇りに思います。」
「ありがとうございます。」
「良かったやっと顔がほころびましたね、桜さんは笑顔が素敵です。」
「先生……続きをお願いします。」
「はい。」
先生はいつもニコニコと素敵だとか可愛いとおっしゃる。私の周りの男性とは全く違う。やはり2年の英国留学が要因として大きいのだろうか。先生は他の男性と違って常にニコニコとされていて気さくでいつも私を救ってくれる。
「楓、それは私のキャラメルですよ。」
「ええ、でも私のはもう食べてしまってまだ食べたいの良いでしょうお姉さん。」
楓は高梨家の旦那様から頂いた缶に入ったキャラメルその日のうちに食べてしまって次の日堂々と盗みを働いた。父らに言いつけると、
「桜は姉だろう我慢しなさい。ちょっと食べられただけで卑しい。」
で終わってしまったので全てを諦めて部屋でため息をつき切り替えて、その日は火曜日だったので応接間で勉強の準備をしているといつもと同じく早めに先生が来られて私の顔を見るやいなやすぐに心配そうに、
「何かあったのかな?今日はいつもより悲しそうだね。」
「え、あ、いや。」
とみっともなく子供のように泣いてしまったのだ。キャラメルごときでと今なら思うがどうしてもあの時はそう思えなくて先生に全てを吐き出してしまった。ハンカチを先生から借り目元をおさえる。その時頭を撫でられて安心した事が深く記憶に刻まれている。
「それは辛かったね。貴方は幼い頃からいつも悲しそうで俺にも殆どわがままを言わなかった。俺は貴方を可愛い妹だと思っているんだ。」
先生は真っ直ぐ淀みない眼で私を見ている。澄み切った青空のように曇りない先生の心を表しているようで涙も止まってしまう。
「桜さん俺からひとつ贈り物をしようか。」
「贈り物。」
「ええ、なんでもひとつ願いを叶えてあげます。」
「なんでも?」
「ええ。なんでもひとつ!」
明るく言う先生。正直少々稚拙で子供だましな言葉だったけれど私は嬉しかった。父にも母にも我慢しろと言われるばかりでこんな事を言ってもらえるのは初めてだったから。
数ヶ月前のその日から私の支えは先生が胸ポケットから取り出し小さなメモ帳に万年筆で書いてくれたなんでもひとつ願いを叶えてくれる券になった。肌身離さず常に懐紙で包んで帯に忍ばせている。
「桜さんもう一踏ん張りですよ。」
「はい。」
ドイツ語の教科書に目を戻す。暖かく緩やかなこの時間はいつもあっという間に終わってしまう。この時間を今はまだ噛みしめていたい。