8.ヒロインの失態
今日も快晴だ。
この時期は気候が安定していて穏やかな陽気の日が多い。
フローレンスと待ち合わせ場所である中庭に着いたのはいいものの、時間を持て余してしまった為に散歩をしている。
あと二十分ほど待たなければならない。
五日前のあの日、フローレンスは泣いてしまった私をなだめながら話を聞いてくれて、男爵家の事業の立て直しに協力すると言ってくれた。
そのときのことを思い返すと恥ずかしさのあまり何処かに埋まりたくなってしまう。
一応前世の記憶もあるから精神年齢はフローレンスより上のはずなんだけどなぁ……。
そんな彼女に会わせたい人がいると告げられたのが三日前。
詳しいことは教えてもらえなかったけど、嬉しそうな表情をしていたからきっと悪いことにはならないだろう。
ゆっくりと歩きながら歩道の傍らへ視線をうつした。
そこには満開の紫陽花達が歩道を鮮やかに彩っている。
日本のそれとは少し形が違うような気がするし色も黄色やオレンジの花だけど、可愛らしくてとても気に入っていた。
鼻歌交じりに歩を進める。
少し前まで絶望的だと思っていたけれど、今はなんとかなるんじゃないかという気がしていた。
フローレンスの約束もそうだけれど、ギルバートがあれ以降よく話しかけてくれるようになったのだ。
そして二人で話すのはほぼ刺繍のこと。それを切り出してくるのはいつもギルバートからだ。
だからきっと彼はセブラム刺繍を気に入ってくれたのだろう。
そう思って布教用に準備していた刺繍のハンカチをプレゼントしたのだ。
刺繍は女性のものだと思い込んでいたけれど、男性に布教するのも悪くないかもしれない。
刺繍製品はドレスや女性用の小物が主だけれど、男性用の……それこそネクタイや手袋なんかを作ってみたら流行らないかな。
……うん、なんとなくいける気がしてきた。
ギルバートは高位貴族なわけだし、他の男子生徒よりも影響力があるはずだ。
他の攻略対象キャラと関わることがあればギルバートにしたときのように布教してみよう。
ポケットに入れている刺繍のハンカチを取り出して広げる。
右下に薔薇の刺繍を刺したハンカチは、我ながらかなり満足のいく出来栄えだ。
もちろん職人たちの刺繍と比べれば足元にも及ばないのだけれど、それでもこれまで刺してきた中で最も綺麗に刺せた作品だ。
好きなものを自分の手で作り上げるということは、こんなにも誇らしくて楽しいことなのか。
もっと上手くなりたいし沢山作品を作りたい。
にやにやしながらハンカチを眺めていたその時、突然強い風が吹いて持っていたハンカチが飛ばされてしまった。
白いハンカチは近くにある大きな木の枝にひっかかった。
近寄って背伸びしても、全力でジャンプしても届かない。
困った。あれは気に入っているから諦めたくない。
どうにかして取れないかな。田舎育ちだからこの程度の木なら余裕で登れるけど、そんなことしたらフローレンスに怒られてしまうし……。
あ、これもしかしたら攻略対象キャラとの出会いのイベントなんじゃないだろうか。
何故か木に引っかかったハンカチやリボンを男性が取ってくれるシーンは少女漫画の定番だ。
私の知る限りこの世界でそんなイベントはなかったけど。でもシナリオが変化してるのだから有り得ないとは言えない。
期待しつつ周囲を見渡す。
が、攻略対象キャラどころか人っ子ひとり居ない。
残念。結構期待してたんだけどなぁ。
もし騎士団長息子が来たらギルバートのように仲良くなって刺繍の布教しようと思ってたのに……。
悔やんでも仕方ない。
頼る人がいないのだから自分でどうにかしなければ。
フローレンスの待ち合わせまでもう少し時間がある。ささっと木に登ってささっと降りれば見つからないはずだ。
木の凹凸に足をかけて一気に登っていく。幸いにも枝の太いところから手を伸ばせば届くところに引っかかっていたから難なくハンカチを回収できた。
ハンカチは汚れてもいないし糸がほつれてもいない。よかった。
安堵の息を吐き、下に降りようと視線を下げた時、視界の端に鮮やかな金が映った。
誰かが、居る。
恐る恐る視線を向けるとそこには王太子が立っていた。
木に登る前には誰もいなかったはずだ。
ちゃんと確認したのに。
なのにどうしているの?
「降りられなくなったのなら手を貸そう」
|木に登っている私《不審な行動をしている女生徒》を見て怪訝な顔をするわけでもなく、見なかったふりをするわけでもなく、王太子は優しく声を掛けてくれた。
や、優しい……。王太子なんだから変な人に近付いちゃ駄目なんじゃないの?
いやいや、そんな事考えてる場合じゃない。
えっと、王太子に声を掛けられたのだから……気遣いを無下にするのは駄目だよね?
ここは貴族令嬢らしく……え、貴族令嬢らしく木から降りるってどうやるの????
そもそも貴族令嬢は木に登らない。だから貴族令嬢らしい木の降り方なんて存在しない。
…………私の貴族としての人生が終わってしまった気がする。