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09.帰還

 それは深夜のことだった。


 ベッドで眠りについていた朱里は、夢を見ていた。

 ライナルトの夢だ。


 ――彼は自室のベッドで穏やかな寝息を立てて眠っている。

 楽しい夢でも見ているのだろう、その口元は緩やかに弧を描いていた。


 薄い膜でも通したかのような感覚で、その光景を見ていた朱里だったが、ふと、違和感に気付く。

 ライナルトの枕元に、何か黒い影が見えるのだ。

 目をこらしている内に影は大きく膨れ上がり、そのままライナルトを呑み込もうとする――。


「……ッ!」

 

 自らの悲鳴で目を覚ました朱里は、ベッドから跳ね起きた。

 心臓は嫌な鼓動を立てており、額にはびっしょりと冷や汗を掻いている。


 あんなもの、ただの夢だ。

 それなのになぜか妙な胸騒ぎを覚え、朱里は角灯を手に自室を出た。

 廊下はしんと静まり返っており、窓の外から微かに、葉擦れの音が聞こえてくるだけ。それだけのことが、今日はやけに不気味に思えた。


「殿下。こんな遅くに申し訳ありません、起きていらっしゃいますか……?」


 ライナルトの部屋の前に立ち、扉の向こうへ呼びかける。

 返事はなかった。

 代わりにゴトリと、何か重い物が床の上に落ちる音が聞こえてくる。


 ひやりと背筋を嫌な予感が伝い、朱里はすぐさま扉を開いた。


「殿下っ!」


 ちょうど夢で見たような、黒い影がライナルトの上へのしかかっている。

 よくみればそれは全身黒ずくめの大柄な男だった。ライナルトの口を塞いだまま、今にも刃を振り下ろそうとしている。


「んん――ッ!」


 恐怖に顔を引きつらせたライナルトの視線が、朱里へ向けられる。

 彼は目を大きく見開くと、口を押さえつけられたまま微かに首を左右に振った。来るな、という合図だとすぐにわかった。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 だが、朱里は迷わず叫んだ。

 恐ろしい状況を目の前に、頭の中は存外冷静だった。こうして大声を出せば、バーデン夫人かオーギュストが人を連れて駆けつけてくれるだろうと考えたのだ。

 自分ができるのは、それまで時間稼ぎをしてライナルトを守ること。


 朱里は手近にあった花瓶を男へ向かって投げつけると、そのまま勢い付けてベッドへ向かって走り出す。そして全体重をかけて男に体当たりすると、強引にライナルトから引き離した。

 男がベッドから落ちた拍子に取り落とした刃物をすかさず拾い上げ、叫ぶ。


「殿下、逃げて! 助けを呼んでください!」


 ライナルトはたじろいだが、それでも一瞬後には弾かれたように部屋の外へ向かって走り出した。

 賢い子だ。自分がここに残るより、助けを呼んだほうがふたりとも助かる確率が上がると、瞬時に判断したのだろう。


 男が身を起こし、ライナルトを追いかけようとする。

 それを阻止するため、朱里は迷いなく男の腕にしがみつき、先ほど拾った刃物を手首の辺りに突き立てた。

 ずぶりと、皮膚を貫く感覚があった。鈍い悲鳴が上がり、男が容赦ない力で朱里を振り払う。


「きゃあっ!」


 床へ転がった朱里を一瞥すると、男はの低い唸り声を上げながら、自分の腕に刺さった刃物を抜き去った。それで何をするつもりかなど、子供でも分かる話である。

 刃物を持った男が、それを見せつけるようにくるくると回しながら近づいてくるのが見えた。


(わたし、殺されちゃうんだ……)


 奥歯が震えてかちかちと音が鳴る。

 身体はみっともないほど震えているのに、どうせ死ぬのなら苦しくも痛くもない死に方がよかった――などと呑気な考えが浮かぶ。

 けれどその時、遠くからオーギュストの声が聞こえてきて、朱里は心底ほっとした。


(よかった……。ライナルト殿下、助けを呼べたんだ)


 この状況では、オーギュストが駆けつけた時にはもう、自分は殺されているだろう。

 けれどライナルトを助けられた。その事に、無性に安堵した。

 

 男がのしかかってくる。

 血を纏った刃物が月の光を弾き、ぎらぎらと不穏な輝きを放っていた。

 不思議と、恐怖はなくなっていた。代わりに朱里の胸を締めていたのは、ライナルトへの申し訳なさだった。


(殿下、約束を守れなくてごめんなさい……)


 せっかく、一緒に世界中を旅しようと言ってくれたのに。

 心の中でライナルトに詫びると同時に、刃が振り下ろされる。ひゅっと空を裂く鋭い音に己の最期を悟り、ぎゅっと目を瞑った。その時だった。


 瞼の向こうに、強い光を感じた朱里は、そっと目を開ける。

 眩い光が溢れ、轟音を上げながら竜巻のように身体の周囲を取り巻いていた。

 みるみる内に強さを増していく光の中、朱里は自身がスノールーチェにやってきた日のことを思い出す。


(これって、もしかして――!)


 そう思った時には、朱里の身体は既に強い波に攫われるような例の感覚に包まれていたのだった。



§



§



 目覚めた時、朱里は病院のベッドの上にいた。

 なんでも、家の近くの路上で倒れているところを通りがかりの人が発見し、救急車を呼んでくれたらしい。

 駆けつけた伯父夫婦の話によると、朱里は二週間近く行方不明だったらしく、かなりの騒ぎになっていたそうだ。


(二週間……?)


 スノールーチェで朱里が過ごした期間は、半年。けれどこちらでは、たった二週間しか時間が経っていなかったというのか。

 伯父夫婦の話を聞きながら、朱里は呆然とした。


 その後、警察がやってきて事情聴取をされたけれど、まさか異世界に行っていたなんて言って信じてもらえるはずもない。最悪、頭がおかしくなったと思われ、長期入院させられるだろう。

 瑠奈の安否を気にする伯父夫婦には悪いと思ったが、朱里は何も覚えていないふりを貫き通した。

 医師が「なんらかの事件に巻き込まれ、そのショックで記憶を失っているのだろう」と診断してくれたおかげで、警察もそれ以上しつこく聞こうとはしなかった。

 

「朱里、本当に何も覚えていないのか?」

「あなたたちがいなくなった日、瑠奈はお友だちと買い物に行くはずだったのよ。何か、変わった様子はなかった?」


 伯父たちは、娘の瑠奈でなく朱里だけが戻ってきたことに、酷く落胆している様子だった。

 伯父はともかく、伯母は毎晩のように酒を飲んでは「どうしてあなただけ戻ってきたの」「あなたじゃなくて、瑠奈が帰ってくればよかったのに」と、辛辣な言葉を浴びせてきた。

 そうして三ヶ月ほどが経った頃、とうとう朱里は家を追い出された。


「お前が悪くないことは頭ではわかっているが、どうしても、瑠奈のことを思い出して辛くなる。金銭援助はするから、妻のためにも家を出て行ってくれ」


 伯母はもう、限界だったのだ。

 伯父が用意してくれたのは、伯父の家から遠く離れた場所にある1Kのアパートだった。高校二年生がひとりで住むには十分な広さだ。

 世間の好奇の目を避けるためにと、伯父は転校の手続きまでしてくれた。


(殿下、元気かな……)


 元の世界に戻って日常を取り戻してからも、朱里はライナルトのことを片時も忘れることはなかった。

 きちんと野菜を食べているだろうか。

 ソレイアの世話を一生懸命しているだろうか。

 レイオスに、虐められてはいないだろうか。

 朱里がいなくなったことで、彼が責任を感じていなければいいのだが。


 そうしてたびたび、ライナルトの夢を見た。

 夢の中のライナルトはいつもひとりぼっちで泣いていて、震える声で「シーナに会いたい」「シーナはどこに行ったの?」と零している。

 朱里は堪らなくなって、彼を抱きしめようと手を伸ばす。

 だが、その手は彼に触れることなく、まるで空を掴むように素通りしてしまうのだった。


 もう一度ライナルトに会いたくて、朱里はそれから何度か、瑠奈と共に異世界へ飛ばされたあの場所へ足を運んでみた。アパートの住所からは電車で一時間ほどかかる場所だったが、そこにいれば、またスノールーチェに行けるかもしれないと思ったのだ。


 ――けれどどんなに待っても、あの眩い光が現れることは二度となかった。

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