07.約束
それからの朱里は、常にライナルトと共にあった。
庭が寂しいというライナルトのために、オーギュストも巻き込んで三人で花壇に花の種を植えた。
野菜嫌いのライナルトのために何かできることはないかと、にんじんやほうれん草の入ったパウンドケーキを作ってみたら、彼は美味しい美味しいと言って完食してくれた。
アルバイト先の喫茶店でケーキ作りを習っていてよかったと、朱里は心底オーナーに感謝した。
よく晴れた日には庭に軽食を持って行って皆でピクニックを楽しみ、星の綺麗な夜にはバーデン夫人に内緒で屋根に上り、空を眺めながら勝手に星座を自作しては笑い合った。
雨の日にはハンカチでてるてる坊主を作って晴れることを祈り、それでも止まない時には、色々な遊びをして時間を潰した。
ライナルトはチェスがとても強く、ボードゲームといえばオセロくらいしかしたことのない朱里では、まったく歯が立たない。それでも丁寧にルールなどを教わっている内に少しずつ上達し、ゲームを楽しめるようになれたのが嬉しかった。
またある時は、綺麗な包装紙を使って折り紙をした。
ライナルトは日本の伝統的なこの遊びを、ことのほか喜んでくれた。
彼が特に好きだったのは、タコやイルカ、ラッコにペンギンといった海の動物である。
スノールーチェの王都に海はない。王都から一歩も出たことのない彼は、一度も本物の海を見たことがないそうだ。
「海の水って本当にしょっぱいの? 湖と違って、勝手に波打ってるって本当?」
「はい、本当ですよ。それに砂浜の砂はとってもさらさらしていて、裸足で歩くと温かくて気持ちいいんです」
小さな頃、両親と海水浴に行った時のことを思い出し、懐かしい気持ちになる。
思えばあれが、家族全員で行った最後の旅行だった。
そのことに一抹の寂しさを覚えていると、ふと、ライナルトが真剣な声で問いかけた。
「……シーナは、元の世界に……ニホンに帰りたいって思わない?」
「え……?」
「家族とか、お友だちとか、元の世界に大切な人がいるんでしょう?」
元の世界に帰る手段がないことは、王子であるライナルトは当然わかっているはずだ。
けれど恐らく、それを聞かずにはいられないほどに、たった今朱里が浮かべていた表情は強い郷愁に染まっていたのだと思う。
「――いいえ」
そう間をおかず、朱里は首を横に振った。
両親はとうに亡くなっているし、高校に入ってからはアルバイトに勉強と忙しく、友人を作る暇もなかった。唯一できた彼氏も、本当は瑠奈が目当てだったくらいだ。
「わたしの大切な人は、空にいるんです」
「お空?」
目をしばたたいたライナルトだったが、すぐ、その言葉の意味に気付いたようだ。
「そっか……。シーナも僕と同じなんだね」
彼の母も、もうこの世にはいない。
ライナルトは寂しげに微笑むと、朱里の両手をそっと取った。そして、内緒話をするような小さな声で告げる。
「……あのね、シーナ。笑わないで聞いてくれる?」
もちろんです、と朱里が答えると、彼はしばらく迷うような素振りを見せた後、意を決したように口を開いた。
「僕、大きくなったら竜騎士になりたいんだ」
竜騎士というのは、その字の表わすとおり馬の代わりに竜を操る騎士のことだ。
オーギュストから聞いた話によると、竜騎士になれるのは、選ばれたほんの一握りのエリートのみ。通常の騎士と同じように剣術や体術、弓術などを習得するのはもちろんのこと、竜を乗りこなすための高い技術が必要となる。
何より、竜は賢く気難しい生き物。心を通わせ、確かな絆を結ばなければ決してその背に人を乗せることはないという。
「竜の背中に乗って、空を飛んでみたい。そうしたら、天国の母さまからも僕のことが見えるかもしれないでしょう?」
「ライナルト殿下……。そうですね、きっとお母さまも喜んでくださいます」
「それにね、僕、よその国にも行ってみたいんだ」
興奮気味に頬を紅潮させ、目を輝かせながら夢を語るライナルトは、眩しいほどにいきいきしていた。
「昔、母さまが教えてくれたんだけど、砂漠の国には宝石でできた洞窟があって、中には世界中の宝物が集められてるんだって。それに北の寒い国では、空に虹色のカーテンがかかるらしいんだ。他にも、妖精が暮らす島とか獣人の国とか――僕の知らない場所、全部行ってみたい!」
「とっても素敵な夢ですね」
兄の横暴、そして父の無関心によって離宮に押し込められるような生活を送っているライナルトにとって、外の世界は正しくきらきら光る宝石のようなものなのだろう。
彼のささやかな夢が叶えばいいと、心からそう思う。
だが、何かを思い出したのだろう。ライナルトはふと、その表情を陰らせる。
「だけど……兄さまは、僕みたいな弱虫には絶対無理だって。普通の騎士にもなれないって言うんだ……」
レイオスはきっと心のどこかで、弟が出世し、己の立場を脅かすのを恐れているのだろう。だから弟が幼い内から罵倒し、貶すことで、自信や勇気、自尊心というものを根こそぎ奪い去ろうとしているのだ。
だけど朱里は決して、ライナルトがレイオスの言うような弱虫とは思わない。
「ライナルト殿下は、王太子殿下からわたしを庇ってくださった、勇気のある方です」
「シーナ……」
「竜騎士になるのはとても難しいことかもしれません。だけどわたしは、殿下が夢のために努力出来る方だと、信じています」
朱里は、ライナルトが毎日欠かさず鍛錬を行っていることを知っている。
勉強でわからなかったことがあった時は、図書室にこもって繰り返し復習していることも知っている。
願い続ければ夢は絶対に叶う、なんて無責任なことは言えないけれど、一方的な悪意に押しつぶされて夢を諦めるようなことだけはしてほしくない。
「ありがとう。僕、頑張るよ」
はにかむように微笑んだライナルトは、ふと言葉を切ると、上目遣いに朱里を見上げた。
「あのね、シーナ。もし、僕が竜騎士になれて、世界中を旅できるようになったら――」
彼は組んだ手を何度も組み替えながら、恐る恐る告げる。緊張しているのか、その頬は真っ赤に染まっていた。
「その時は、シーナも一緒に来てくれる……? 僕、シーナと一緒に色んな場所に行ってみたい」
なんて可愛らしい願いなのだろう。
断る理由があるはずもなく、朱里はすぐさま頷いた。
「はい、もちろんです。楽しみにしていますね」
「よかったぁ……! それじゃ、約束だね」
華奢な小指を差し出し、ライナルトははにかむように笑う。
朱里もまたその指に己の小指を絡め、「約束です」と微笑んだのだった。