06.守るべき存在
「おやおや、我が弟殿は随分と楽しそうに過ごしていることだな」
王太子レイオスだ。傍らには、見たこともないほど豪華な赤いドレスに、色とりどりの宝石を身に着けた瑠奈を侍らせている。
ふたりの薬指には、大ぶりの宝石のついた揃いの指輪が嵌まっている。
「に、兄さま……」
ライナルトの顔からは見る間に血の気が引き、青色を通り越して白くなっている。彼は明らかに、兄の来訪に怯えていた。
朱里は自然と、レイオスたちから彼を庇うように自身の背後へ押しやっていた。
「やだ、朱里ったら本当にメイドなんてやってたんだ! 地味な制服がお似合いね」
瑠奈は朱里の姿を見るなり、さもおかしいものを見たかのような表情で言い放つ。
確かに、瑠奈の着ているドレスに比べれば下女の仕着せは地味だろう。だが、シンプルで機能的なこの服を、朱里は気に入っている。
「わたしね、レイオスからプロポーズされたの。ほら、素敵な指輪も貰ったのよ」
彼女の左手薬指には、エメラルドだろうか。大ぶりの、緑色の宝石が埋め込まれた指輪が嵌まっていた。
よく見ればレイオスの指にも、同じ物が嵌められている。
「瑠奈は……伯父さんと伯母さんが心配じゃないの?」
「心配したって仕方ないじゃない。だって、元の世界には帰れないんだし。まあ、帰る気もないけどね。だって、わたしは聖女さまで、その上王太子妃にもなれるのよ? 侍女も女官も、皆がわたしに跪いてくれるの。すごいでしょう!」
幼い頃に両親を揃って亡くし、その後寂しい日々を送ってきた朱里にとって、瑠奈の考えは俄には理解しがたかった。
確かに、元の世界に帰る方法はないのかもしれない。
瑠奈の言う通り、心配しても詮無いことかもしれない。
だけど、それでも、もし朱里が瑠奈の立場であれば、きっと片時も忘れることなく両親のことを思うはずだ。
帰る場所と、待っている人がいる。
それがどんなに尊いことか、瑠奈にはわからないのだろうか。
「それにしたって、何この場所? 建物は地味だし、庭も殺風景だし……」
「王宮とは比ぶべくもないだろう。この離宮は元々、罪人を閉じ込めるために作ったものだからな」
「やだ、こわーい」
わざとらしい悲鳴を上げながら、瑠奈がレイオスに縋り付く。
交わす眼差しは甘ったるく、弥が上にもふたりの親密さを察せられた。
唖然としていると、ふと、レイオスが顔を朱里のほうへ向けた。
正確に言えば、朱里の後ろで震えているライナルトへ。
「――どうした、ライナルト。もっと嬉しそうにしないか。兄が聖女と結婚するのだぞ」
彼は猛獣が獲物に対して距離を詰めるように、一歩一歩ゆっくり弟へ近づく。
そしてライナルトが何も言えないのを見て取ると、目を細めて底意地の悪い笑みを浮かべた。
「祝いの言葉すら述べられないのか。さすが、我が母から父上を奪った売女の息子だな。卑しい身分にふさわしい振る舞いだ」
「っ、恐れながら殿下! そんな仰り方はあんまりです」
実の弟、それもまだこんな幼い子供に対し、なんて酷い事を言うのだろう。
思わず抗議したが、鋭い眼差しと言葉で封殺された。
「黙れ、下女風情が。ルナの身内でなければ、即刻首を跳ねてやるところだぞ」
「レイオス、許してあげて。その子、昔から空気が読めないのよ。可哀想な子なの」
優越感に満ちた表情で、瑠奈がレイオスの腕にそっと触れる。
それだけで、レイオスの怒りは多少収まったようだ。朱里に向けたのとは正反対の甘い笑みを、瑠奈に向ける
「ルナは優しいな。君がそう言うのなら、下女の無礼に関しては許してやってもいい」
そして、未だ縮こまっている弟の腕を掴み、強引に朱里の前へ引っ張り出した。
たたらを踏みながらなんとか転倒を逃れたライナルトだったが、直後、その頬にレイオスの掌が打ち下ろされる。
「やめてください!!」
咄嗟にライナルトを庇おうと立ちはだかったが、レイオスにとっては下女などいくらでも替えの効く、取るに足らない存在である。
「うるさい、どけ!」
彼は大声で怒鳴ると、躊躇いなく朱里を突き飛ばした。
身構えていなかったせいもあり、朱里はそのまま地面に倒れ伏してしまう。
「シーナッ!」
身体をしたたかに打ったせいで立ち上がれない朱里の許へ、悲鳴じみた声を上げたライナルトが駆け寄ってくる。
そして小さな両腕を懸命に広げ、果敢にも兄の前へ立ちはだかった。
「シーナに謝ってください!」
「――は?」
思わず身震いするほど、低く冷たい声だった。
ライナルトの両足もがくがくと震えている。それでも彼は一歩も引かず、朱里への謝罪を求めた。
「兄さまはシーナに酷いことをしました! だから、謝って――うっ」
くぐもった悲鳴は、途中でレイオスがライナルトの頬を再び殴りつけたせいだ。
「――汚らわしい庶子が。二度と、僕に指図をするな」
吐き捨てるように言うと、レイオスは来た時と同じように瑠奈を従えて去って行こうとする。
「ライナルト殿下……! 大変、お医者さまを呼ばないと……」
ようやく身体の痛みに耐えながら立ち上がった朱里は、真っ先にライナルトの許へ駆け寄った。
彼の頬は真っ赤に腫れ、唇の端からは血が垂れている。容赦ない力を込められたことが一目でわかった。
それでも、彼は気丈に顔を上げて朱里のことを気遣う。
「僕は大丈夫。それよりシーナ、膝をすりむいてる……。それに、眼鏡も」
ライナルトの指さした方向には、レンズが粉々に割れた眼鏡があった。今の今まで気付かなかったが、レイオスに突き飛ばされたはずみで地面に落ち、衝撃で割れてしまったのだろう。
「膝は少し消毒すればすぐに治りますし、眼鏡は元々度が入ってないから大丈夫ですよ」
純日本人であるにも拘わらず、朱里の目は緑色をしている。
そのせいで嫌な思いをしたことが何度かあり、縁の太い眼鏡をかけることで、少しでも目の色を目立たなくさせようとしたのだ。
だが、ここは異世界で、様々な目や髪の色を持つ人がいる。
朱里の目の色など気にする人は、きっと誰もいないだろう。
「それより、せっかく殿下からいただいた花束が……。申し訳ありません」
なんとか花束だけでも守ろうと、レイオスから突き飛ばされた際に必死で胸に抱いていたのだが、花がすっかり潰れて無惨なありさまになっていた。
「いいんだよ。花束なんて、また作ればいいんだ。だけど……」
彼はそこで言葉を切ると、両目からぽろぽろと涙をこぼし、肩を震わせて泣きじゃくり始めた。
「ごめ、……ごめんなさい。僕のせいだ。僕が、兄さまに嫌われてるから……。僕が〝妾の子〟だから、僕のせいで、シーナが怪我をしちゃった……」
「違います。わたしに怪我をさせたのはレイオス殿下で、ライナルト殿下は何も悪くないんですよ。それに殿下は、一生懸命わたしを庇ってくださったでしょう」
「でも……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
声を掠れさせ、しゃくり上げながら謝り続けるライナルトに、胸の奥が痛くなる。
一体彼は、この小さな身体にどれほどの重荷を背負っているのだろう。
以前から、違和感は覚えていたのだ。
王宮から離れた場所にぽつんと存在する、寂れた離宮。
ごく少数の使用人。
いつも誰かの陰に隠れているような、気弱で人見知りの第二王子。
そして先ほどレイオスが発した言葉や、ライナルトの言葉によって、これまで薄々と予想していた彼らの事情が、より鮮明に浮き彫りになった。
レイオスとライナルトは母親が違う。
そしてレイオスは、父が己の母以外に目移りしたことや、その結果子供まで作ったことを快く思っていないのだ。
(ひどい……)
いくら確執があるとはいえ、それは大人たちの責任だ。
ライナルトにはなんの罪もない話ではないか。それなのに、あんな小さな子供を逆恨みして暴力をふるうなんて、まともではない。
なんとかできないのだろうか。
その後、朱里はライナルトを部屋で休ませた後、バーデン夫人に昼の出来事を伝えることにした。
バーデン夫人もまた、レイオスからライナルトに対する苛烈な行為については知っているようだった。
「ライナルト殿下は第二王子でいらっしゃいますが、残念ながら、宮廷でのお立場はあまり強いとは言えません」
レイオスの母は公爵家出身の王妃。そしてライナルトの母は没落した男爵家出身の愛妾だったそうだ。
国王は、プライドが高く負けん気の強い王妃より、優しく穏やかな愛妾のほうを愛した。しかしそれが、王妃の勘に障らぬはずがない。
彼女は息子が幼い頃から、愛妾やライナルトへの憎悪を吹き込んだ。そうして育ったレイオスは弟を酷く見下し、心の底から嫌悪するようになった。
それだけではない。この国の王族というのは魔法が使えるのが普通だが、ライナルトはこの年になるまで、ひとつも魔法を成功させたことがなかった。
そうした事情と母親の身分の低さがあいまって、宮廷中の人々がライナルトを蔑視しているそうだ。
ライナルトの母親は、王妃の嫌がらせによって心身を病んで早逝し、国王も、王妃やレイオスへの負い目から、あまり表だってライナルトを庇うことはしないらしい。
レイオスはそれをいいことに弟を『療養』の目的で弟を離宮へ追いやり、使用人もほとんど付けないまま、慎ましい生活を強要している。
そして今日のように時折冷やかしにやってきては、まだ小さな弟を殴ったり蹴ったりして鬱憤を晴らしているそうだ。
王太子の権力が絶大ゆえにライナルトの味方は少なく、表だって注意する者もほとんどいない。いたとしても、何らかの罪を着せられ宮廷から追放される――というのが現状らしい。
「あなたもここで働き続けている限り、今後色々と嫌がらせに巻き込まれるかもしれません。ですが、あなたは異世界出身で、王家の確執に巻き込まれるいわれのない人間。もしこれ以上関わりたくないというのなら、わたくしの遠縁の家で働けるよう手配しましょう」
バーデン夫人は深刻な表情で、そんな提案をしてくる。
人手不足で困っているにも拘わらず、異世界からやってきた朱里の身を案じてくれているのだ。
思い返せば初対面の時もそうだった。彼女は、朱里がなんの後ろ盾もなく外の世界へ放り出されそうになったところへ、救いの手を差し伸べてくれた。
「バーデン夫人は、優しくて親切な方ですね」
「なっ……。突然何を言うのです!」
顔を真っ赤にして、夫人が眉をつり上げる。しかしこれは怒っているのではなく、恐らく照れているのだろう。ここ二ヶ月月の間、指導を受けてきたが、彼女はきっとそういう人だ。
ここでバーデン夫人の提案に乗れば、きっとこの先、朱里には穏やかな生活が待っているだろう。
王太子からの嫌がらせも、宮廷の悪意とも無縁の、平凡な日常が。
けれど――。
目をきらきらと輝かせて、朱里の話に耳を傾けてくれるライナルト。朱里が元気がないと気遣い、小さな花束をくれた優しい少年を、こんな冷たく寂しい場所に置いてはいけない。
朱里のようなちっぽけな存在に何ができるかはわからないが、せめて少しでも、彼を取り巻く悪意から守る盾となりたい。
「気遣ってくださってありがとうございます。でも、わたしはここに残ります。残って、ライナルト殿下をお支えしたいんです」