04.王子の下女として
瞼の向こうに、柔らかな日差しの気配を感じる。
水の中で泡が踊るように、ふっと意識が浮上がする感覚で、朱里は目を覚ました。
まず真っ先に目に入ったのは、見知らぬ天井だった。
首を巡らして周囲の様子を窺うと、やはり見知らぬ部屋の内装が目に入る。
生成りの壁紙と茶色いカーテンが印象的な、シンプルな部屋だ。
使い古された木の丸テーブルと椅子に、小さなチェスト。そしてほとんど本の入っていない背の高い本棚以外は、何もない。
恐らく、長いこと人が住んでいなかったのだろう。清潔だが生活感のない内装は、どこか寒々しかった。
(せっかく広いお部屋なのに、もったいない)
朱里が暮らしていた部屋の倍はありそうだ。
小物や絵画を飾ったり、花瓶に花を生けて置いておけばそれだけで印象が変わるだろうに。
だが、それはそれとして、ここは一体どこなのだろうか。
霞がかったようにぼんやりとする頭を懸命に動かし、なぜ自分がここにいるのかを考える。
そして、じわじわと思い出した。
(そうだ、わたし……。変な光に包まれた後、瑠奈と一緒に異世界に召喚されて、それから気を失ったんだ……)
薄れゆく意識の中で、メイドたちが大騒ぎしていたことはおぼろげながら覚えている。
きっとあの後、あの場にいた誰かが朱里をこの部屋まで運んでくれたのだろう。
ゆっくり身体を起こすと、全身の筋肉が強張っていることに気付いた。
一体どれくらい眠っていたのだろうか。召喚された場所には窓がなかったため、あれからどれほどの時間が経っているのかまったく見当も付かない。
ただ、それなりに長い時間であろうことは体感でわかる。
伯父たちに迷惑をかけないためにと、大学の受験費用やひとり暮らしの資金を貯めるため、これまで勉強の傍ら一生懸命アルバイトをしてきた。
寝る間も惜しんで頑張ってきたため、身体がすっかり疲れ切って休息を求めていたのだろう。
(とにかく、迷惑かけたことを謝らないと)
聖女のおまけとして召喚されただけの厄介者と拘わるのは、それだけで面倒だっただろう。
部屋の外からノックの音が響いたのは、ベッドから抜け出そうと足を床に下ろし、サイドテーブルに置かれていた眼鏡をかけた時だった。
「ど、どうぞ」
反射的に入室を促すと、音もなく扉が開き、その向こうから壮年女性が顔を出す。
朱里の身柄を引き取ると言ってくれた、あの深緑のドレスを着た女性だ。
「ああ、ようやく目が覚めたのですね。まったく、召喚されたその日にぐっすり眠りこけるなんて、度胸があること」
「す、すみません……っ!」
見知らぬ場所で眠ってしまった罪悪感もあり、朱里は萎縮しながら頭を下げた。
「まあ、よいでしょう。あなたもこの世界に来たばかり、今回は大目に見てあげます。ですが、今後はこのようなことがないように」
「は、はい。ご迷惑をおかけしました」
素直に返事をすれば、女性は満足したように頷き、眼鏡のフレームを指で軽く押し上げる。
「よろしい。さて……、ではまず初めに、あなたのお名前を伺いましょうか」
「椎名朱里です」
「シーナ。わたくしはこの離宮を任されている家政婦長です。わたくしのことはバーデン夫人と呼ぶように。それでは、あなたの主人となるお方にご挨拶を」
バーデン夫人があまりにきびきび話を進めるものだから、椎名ではなく朱里がファーストネームだと伝えそびれてしまった。
「主人?」
「言ったでしょう。あなたはこちらの、ライナルト殿下にお仕えする下女となるのですよ」
察しの悪い朱里に呆れたようなため息をついてみせると、女性は軽く後ろを振り向いた。
よく見れば彼女の陰に隠れるようにして、幼い子供が佇んでいる。
年の頃は十歳程度か。
肩のあたりで切りそろえられたまっすぐな黒髪に、長い睫毛の下から覗く、燃える朝焼けのような赤い目。
肌は陽の光など知らないかのように白く、シャツの袖やズボンの裾から覗く手足は細くてしなやかな印象だ。
(女の子……ううん、ライナルトって多分、男の子の名前よね?)
一見すると女の子かと見まごうほどに、儚げで大人しい印象の子供だった。
宗教画から抜け出てきた天使と言われても、思わず信じてしまいそうなほど端整な顔立ちをしている。
「こちらが、スノールーチェ王国の第二王子、ライナルト・ヴィア・ヴェルナー殿下です。つい先日、御年十歳になられました」
「初めまして、ライナルト――殿下。椎名朱里です」
「……はじめまして」
呼び慣れない呼称を恐る恐る口にすれば、今にも消え入りそうな声が返った。
ライナルト王子はどうやら人見知りらしい。軽く目が合ったかと思えばまたすぐ、バーデン夫人の陰に隠れてしまう。
それでも、異世界人という存在を前にして興味津々らしい。ちらりと顔を出しては恐る恐る朱里のほうを窺う様子が、巣穴から外を覗く子ウサギのようで可愛らしかった。
「シーナ、は本当に異世界から来たの……?」
「はい。日本という国から来ました」
「……僕、異世界のお話を聞かせてほしいな」
照れ笑いをしながら小さな声でねだられ、頬が思わず緩む。
あからさまに自分を卑下してきた王太子とは違って、素直そうないい子だ。
「殿下、シーナは召喚されたばかりで疲れていますから、そのお話はまた今度にいたしましょう」
「う、うん。ごめんね、シーナ」
やんわりと言い含められ、ライナルトが慌てて謝罪する。
「大丈夫ですよ。今度ぜひ、お話させてくださいね」
そう言うと、幼い顔が安堵したようにほころんだ。
ふたりのやりとりを見守っていたバーデン夫人が、再び朱里に目を向ける。
「今後、あなたはこの部屋に寝泊まりしつつ、下女の仕事をすることになります。お給金も多少は出ますし、衣食住の保証もされますから安心なさい。休日は週に一度しか与えられませんが……」
「十分です!」
咄嗟に食い気味に答えてしまった。
衣食住の保証をしてもらえる上に給料まで出るなんて、なんとありがたい話なのだろうか。
しかも部屋は個室だし、休日まで貰えるなんて、これ以上ないほどの好待遇である。
「それは何より。あなたの仕事は主に、殿下のお住まいである離宮の清掃や雑用です。その衣装棚に下女用のお仕着せが入っていますから、明日の早朝、それに着替えて食堂へいらっしゃい。この部屋を出て右にまっすぐ行った、突き当たりの大きな扉です」
「わかりました」
「よいですか、働かざる者食うべからずです。突然見知らぬ世界に連れて来られたあなたのことを不憫だとは思いますが、わたくしは決して甘やかしませんからね。明日から、しっかり扱きますから」
夫人は最後にそう言い残し、ライナルトを連れて去って行ってしまった。
去り際、ちらと振り向いたライナルトが小さく手を振ってくれるさまが愛らしくて、心臓を鷲づかみにされたような気持ちになったのは内緒だ。
夫人たちが去った後、朱里は細く長いため息をついた。
どうやら自分で思っていた以上に緊張していたようで、身体中から力が抜けていくのを感じる。
(よかった……。ここでなら、上手くやっていけそう)
主人であるライナルトは朱里の存在を早くも受け入れてくれているようだし、バーデン夫人も、口調こそ辛辣だったものの、悪人というわけではなさそうだ。
王宮から追い出されようとしていた朱里の面倒を見てくれようと思うくらいには、情に厚い人なのだろう。
人見知りのライナルトも彼女には心を許している様子だったし、きっと真面目に仕事をしさえすれば、良好な関係を築いていけるだろう。
幸いにして朱里は高校入学してすぐの頃から、いくつかのアルバイトを掛け持ちしており、働くことには慣れている。異世界の下女がどういうものかはっきりとはわからないが、清掃や雑用ならばそう難しいことはないだろう。
どちらにせよ、右も左も分からないこの異世界で朱里が生き残るには、この離宮という場所で一生懸命働く他に道はないのだ。
瑠奈のことは気がかりだが、あの様子ではきっとしばらくの間、顔を合わせるのは難しいに違いない。
何より瑠奈自身が、見目麗しい王子の存在に舞い上がり、両親のことなどすっかり忘れている様子だ。
状況が落ち着き、機を見てもう一度話をしてみよう。