03.救いの手
「まあ、殿下。いくらなんでもそれはお可哀想ですわ」
「後見もない女ひとりが外で生きていくなど、限りなく不可能でしょうに。殿下もお人が悪い」
「知ったことか。私のルナを害する可能性のある者を、城においておくわけにはいかないからな」
レイオスが鼻を鳴らして笑ったその時、人々の中から「お待ち下さい」と声を上げるものがあった。
頭髪を玉ねぎ型に結い上げ逆三角形の眼鏡をかけた、いかにも厳しそうな中年の女性だ。上品な深緑のドレスの裾を軽くつまみ、レイオスへ向かって一礼してみせる。
「なんだ、バーデン夫人」
「その娘、殿下が不要だとおっしゃるのならば、離宮で身柄を預かってもよろしいでしょうか。ちょうど、下女がひとり辞めてしまったところで、人手がなく困っていたのです」
「ふん……。まあ、よかろう。お荷物同士ちょうどいいだろうしな。ただし、決してその娘を王宮に近づけるなよ」
「ありがたく存じます」
バーデン夫人と呼ばれた女性が礼を言い終えるか終えないかの内に、レイオスは瑠奈を連れて通路の向こうへ消えてしまう。
振り返りもしない瑠奈の姿に唖然とするあまり、朱里は棒きれのように立ち尽くすことしかできなかった。
(い、行っちゃった……。どうして? 伯父さんたちの所に帰りたいって思わないの?)
そもそも、元の世界へ帰る方法などあるかどうかもわからないが。
しばらく唖然としていると、静かにウベルトが話しかけてきた。
「さて、聖女さまの従姉君……でしたな」
慇懃な言葉遣いではあるが、その目つきからは朱里のことを厄介者と思っているのがひしひしと伝わってくる。
(わたし、異世界でも厄介者扱いされるんだ)
そのことに傷つきながらも、朱里は小さく頷いた。
他に声を掛けてくれる人間がいない以上、どんなに面倒臭そうな態度を取られても、ウベルトの話を聞くしかない。
「王太子殿下は、聖女さまに仇なすあなたの存在を快く思ってはおられません。しかしながら殿下はお優しい方。あなたが下女として働くことをお認めになられた。そのご温情に感謝することですな」
「あの、でも、瑠奈はこれからどうなるんですか? わたしたち、元の世界に帰ることは――」
「残念ながら、聖女さまが元の世界へ帰ったというお話は、文献にも残されておりません」
ウベルトの言葉は素っ気なく、朱里の希望を刃のように鋭く裁ち切った。
「ともかく、これ以上殿下のご不興を買わぬよう大人しくお過ごしなさい。決して、面倒ごとを起こさぬように」
そして、これ以上話を続けるのはごめんだとばかりに、バーデン夫人に朱里を押しつける。
「早く、彼女を離宮へ連れて行きなさい」
「かしこまりました、神官長さま」
「あのっ、待って下さい。もう少し話を――」
呼び止める朱里の声がまるで少しも聞こえていないかのように、ウベルトはさっさとその場を立ち去る。
「さあ、もういいでしょう。参りますよ。神官長さまはお忙しいのですからね」
項垂れるようにして頷きながら、朱里は夫人の言葉に従おうとした。
しかし、短時間であまりに色々な出来事が起きすぎたせいだろうか。
(あ、駄目かも……)
そう思った時には既に遅かった。
頭がくらくらし始めたかと思えば目の前がゆらりと歪み、とうとう朱里はその場で気を失ってしまったのだった。
§
どこか遠くで、伯父たちの声がする。
『悪いが、チョーカーは諦めてくれ』
『瑠奈が欲しがっているんだから、我慢してちょうだい』
――ああ、これは夢だ。
朱里がまだ小学生くらいの頃。亡くしたばかりの両親を恋しがって、毎日のように泣き暮らしていた日々の出来事だ。
あの日、朱里はお気に入りのチョーカーを机から取り出し、眺めていた。
黒い紐に、金色のうさぎをモチーフにしたペンダントトップ。少し大人っぽいデザインのこれは、両親が贈ってくれた最後の誕生日プレゼントだった。
(瑠奈に見つかったら取られるかもしれないから、着けることはできないけど……)
瑠奈は朱里の持っている物を何でも欲しがる癖がある。
つい先日も、旅行先で両親から買って貰ったペンケースを奪われたばかりだった。
だから箱の中に入れ、机の奥深くへしまいこんで、時折こうして取り出して眺めるだけにしていたのだが――。運悪く、その姿を瑠奈に見られてしまったのだ。
『わあ、それすっごく可愛い! ねえ、瑠奈にちょうだい!』
ノックもせず部屋に入ってきた瑠奈は、それが当然の権利だとでも言わんばかりに、遠慮無くチョーカーに手を伸ばした。
朱里は慌ててチョーカーを引っ込め、後ろ手に隠す。
『駄目よ。これはお父さんとお母さんが死ぬ前にわたしに買ってくれた、最後のプレゼントなの』
『だから? 別にいいじゃない。それに朱里は可愛くないから、そんなの全然似合わないよ。瑠奈のほうが似合うんだから、早くちょうだい』
残酷な言葉を吐きながら、瑠奈はますますしつこくチョーカーをねだる。
『駄目だってば。そんなに欲しいなら、伯父さんたちに新しいのを買ってもらったらいいじゃない』
『いや! それが欲しいの! 朱里のケチ、早く渡しなさいよ!』
言い争いは白熱し、ふたりの声はどんどん大きくなっていく。
やがて、いつまで経っても言いなりにならないことに焦れたのだろう。瑠奈が『ちょうだいって言ってるでしょ!』と言いながら、朱里の肩を突き飛ばす。
はずみでよろけた朱里は、そのまま床に倒れ込んでしまった。
『痛……ッ!』
固い床板に身体を強かにぶつけた痛みで、呻き声が上がる。
ちょうどその時、別室にいた伯父夫婦が騒ぎを聞きつけ、部屋までやってきた。
『何をしているんだ!』
『瑠奈に何をしたの!』
倒れ込んでいる朱里を尻目に、ふたりは実の娘へ駆け寄り、庇うように抱きしめる。
大の大人ふたりから睨み付けられ、それでも朱里はなんとか口を開いた。
『瑠奈がわたしのチョーカーを欲しいって言うから、駄目だって言ったの。そしたら瑠奈が、わたしを突き飛ばしたの……』
『ちょうだいってお願いしたのに、朱里が意地悪したからよ!』
瑠奈は目を潤ませながら、さも自分が被害者であるかのような表情で両親に訴えた。
伯父たちは顔を見合わせると、困った子を見るような目を朱里に向けた。
『悪いが、チョーカーは諦めてくれ』
『瑠奈が欲しがっているんだから、我慢してちょうだい』
『朱里はいい子だからわかるだろう?』
――お前は居候なんだから、という声が聞こえたような気がした。
渡したくなかったけれど、世話になっている伯父夫婦からそこまで言われて拒否できるほど、朱里は強い心の持ち主ではなかった。
とうとうチョーカーを瑠奈へ渡してしまった。
『わぁい、やったぁ!』
『よかったな、瑠奈』
『とっても似合ってるわよ』
呆然とする朱里を置いて、三人は和気藹々としながら部屋を去って行く。
大切な贈り物をあっさりと奪われたことが悲しくて、その日、朱里はベッドの中でひとり泣き続けた。
どんなに泣いても、きっと瑠奈がチョーカーを返してくれることはないだろう。
予想した通り、その後、チョーカーは二度と朱里の手に戻ってくることはなかった。
チョーカーだけではない。
ぬいぐるみも、ワンピースも、本も友人も。
瑠奈は朱里の大事にしているものを、ひとつ残らず奪い続けていったのだ――。