番外編 ライナルトの想い
シーナが消えた。
なんの痕跡も残さず、まるで初めからそこにいなかったかのように。
侵入者に襲われた夜、オーギュストと共に部屋へ戻ったライナルトは、そこにシーナがいないことにすぐ気付いた。
『シーナはどこだ!』
自分でも信じられないほど大きな声で問いかけていた。
けれどそんなライナルトの焦燥を嘲笑うように、侵入者は目の前で自害した。奥歯に毒を仕込んでいたようだ、とオーギュストが言った。
ライナルトはすぐさま、シーナを探すようオーギュストとバーデン夫人に呼びかけた。もし、侵入者の仲間に連れ去られたのだとしたら、きっとそう遠くへは行っていないはずだから。
しかし願うような予想に反し、いくら探してもシーナは見つからなかった。
『おねがいします、兄さま。シーナを探すために、人手を貸して下さい』
その日、ライナルトは初めて兄に頼み事をした。
人ひとりが消えたのだ。懸命に頭を下げれば、あの兄とて耳を貸してくれるに違いない。
当時のライナルトは、そんな甘い考えを抱いていた。
『なぜ、僕が〝役立たず〟の望みを聞いてやらねばならない?』
そして兄の答えは、ライナルトの甘さを完全に突き放すものだった。
『聖女でもない、ただのオマケとして付いてきた小娘ひとりに割く人員などない。それに、よかったじゃないか。食い扶持が減って。元々、城の外へ放り出す予定だった娘だ。いなくなったところでなんの問題もないだろう』
『シーナは、オマケなんかじゃありません! 大切な人なんです!』
これまでどんなに兄に侮辱されても、悲しいと思いこそすれ、怒りを覚えたことは一度もなかった。それなのにライナルトはその時初めて、兄に対して、頭の芯が煮えたぎるような怒りを覚えた。
『子犬のように喚くな、鬱陶しい。それに、あの娘が消えたというのなら、それはお前のせいだろう』
『――え?』
『侵入者に襲われたと言ったな。それは、お前に消えてほしい誰かが差し向けた刺客じゃないのか』
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
確かにあの夜、侵入者はライナルトの部屋へ侵入し、そしてライナルトへ刃を向けた。
これまでにも何度か、似たような事はあった。紅茶に毒を入れられたり、寝室に毒蛇が仕込まれていたり――。
だが、ライナルトは今の今までその事実から目を背けていた。
それを認めてしまえば、自責の念で潰れてしまいそうな気がしていたからだ。
狡くて弱い弟の心の内を覗いたかのように、兄が言葉の刃でとどめを刺す。
『お前が狙われさえしなければ、あの娘も平穏な生活を送れていただろうになぁ。可哀想に』
少しもそうと思っていない表情で、口調で、彼は嗤った。
そして兄の悪意ある発言を受け流すには、ライナルトは幼すぎた。
『兄さまが――』
刺客は、兄が差し向けたものではないのか。
途中まで出かかった言葉を、ライナルトは懸命に呑み込む。
兄にはライナルトを殺す理由がある。しかし証拠がない以上、単なる言いがかりと切って捨てられるのが落ちだ。
そして不敬な発言の責任を取らされるのは、自分自身ではなく周囲の人間であることを、ライナルトはよく理解していた。
何の成果もなせず離宮へ戻ったライナルトを憐れんだオーギュストが、翌日から、友人の騎士らに頼んで、内密に捜索を行ってくれた。
しかし、結果は同じことだった。
捜索を続けて二週間が経った頃、バーデン夫人が言いにくそうに切り出した。
『もう、シーナは生きてはいないでしょう。聖女さまならともかく、客観的に見て、彼女はこの世界ではなんの価値もない娘です。生かしておく意味がありません』
――なんて冷酷なことを言うのだ。
シーナは、ライナルトのためにニホンの話をしてくれた。
花壇に花を植え、にんじんのケーキを作ってくれた。
オリガミを教えてくれた。
共に星座を見つけ出し、ライナルトの知らない異世界のおとぎ話を語ってくれた。
彼女はいつも優しく、姉のようにライナルトを見守ってくれた。
聖女であるとか、ないということは関係ない。
シーナは、シーナであるというだけで価値があるのだ。
バーデン夫人の言葉に怒りを覚え、ライナルトは思わず声を荒らげそうになった。
けれど――。
いつも厳しい顔ばかりしている夫人の目の端には、涙が滲んでいた。言葉自体は辛辣で、冷静にも思えるけれど、彼女もまたシーナがいなくなったことを悲しんでいるひとりだったのだ。
『このままでは、オーギュストや捜索に協力してくれた騎士たちが、王太子殿下のご不興を買ってしまいます。どうか、懸命なご判断をお願いいたします』
ライナルトはシーナが大切だった。
本音を言えば、彼女が見つかるまでいつまでも捜索を続けたかった。
しかし、それが現実的でないことが分かる程度には、分別というものが備わっていた。
王太子に睨まれてしまえば、この国で騎士を続けることはできなくなってしまう。それどころか、レイオスの性格であれば、ありとあらゆる職に就くことを邪魔してくるかもしれない。
そうなれば、ライナルトに協力してくれた騎士たちとその家族を、路頭に迷わせてしまうことになるのだ。
オーギュストに捜索の打ち切りを告げたその日、ライナルトは己の部屋の片隅で、声を殺して泣いた。
自分がシーナを見捨ててしまったような、見殺しにしてしまったような、そんな罪悪感が重石となり、胸を押しつぶした。
それでも、シーナが生きているという希望を捨てたわけではなかった。
ライナルトはそれから毎日、休憩時間になると神殿に通い、女神に祈りを捧げた。
『どうか、シーナを返してください。彼女はとても優しくて、いい人なんです』
レイオスから無駄な行為だと嗤われようと、嫌がらせで神殿に閉じ込められようと、何度も何度も、女神に語りかけた。
そしてこれまで以上に、剣術の訓練に真剣に打ち込むようにもなった。
シーナが戻ってきた時、彼女を守れるように強くなりたかった。泣いてばかりいては、シーナに笑われてしまう。
後になって思えば、その時には既に、ライナルトはシーナに淡く幼い恋心を抱いていたのだ。
だが、当時のライナルトは自分の感情がそれと知ることもなく、ただひたすらに、大切な者を守れる自分になるべく切磋琢磨した。
その甲斐あって、十二歳になると同時に受けた竜騎士団への入団試験も無事に合格できた。
中には、王族だから便宜を図ってもらったに違いない、などと勘ぐる輩もいた。
少し前のライナルトであれば、一々その言葉を気にして落ち込んでいたに違いない。
けれどその時、ライナルトの胸にあったのはただ、シーナとの約束を果たしたいという一心だった。竜騎士になれたのだと胸を張って告げれば、きっと彼女は喜んで、ライナルトのことを褒めてくれる。
シーナがいなくなった後、ライナルトの側には常に、ソレイアの姿があった。
――世話を始めてから彼が雄だったと気付いたが、もうその時にはソレイア本人も『ソレイア』という名前以外には反応しなくなっていた。
彼はライナルトにとって最高の相棒となった。
成長するにつれ、灰色だった身体は色素が抜けるようにどんどん白くなっていき、最終的には別の竜のように真っ白になったけれど、甘えん坊なところは仔竜の頃から少しも変わらない。
ソレイアの背に乗って騎士団の任務に赴くとき、ライナルトはいつも、この大空をシーナとともに駆け抜けたらどれほど楽しいだろうかと夢想した。
そうして、七年が経った。
竜騎士団で修行を積む間、小柄だったライナルトの背は随分と伸び、筋肉もついた。
若くして竜騎士団長となったライナルトの王宮での地位は飛躍的に向上し、父や、兄さえも、もう彼の存在を無下にできなくなっていた。
もう、兄に殴られることも、侵入者に襲われて殺されかけることもない。
幼かったライナルトは、強く逞しい青年へと成長していた。
二十四歳になったライナルトは、まだ神殿通いを続けていた。
もうこの頃になると、兄も、からかうことさえ馬鹿らしいと思うようになったらしい。女神へ祈りを捧げるライナルトの邪魔をする者は、誰もいなくなっていた。
(――太陽神ソレイアよ。どうか、シーナを無事に返してください。シーナに会わせてください。彼女は私の、大切な人なのです)
長い間心の中で温めていた恋心は、少しも薄れることなく、ライナルトの胸の奥で大切な宝石のようにきらめき続けていた。
ライナルトは長いこと祈り続けた。
そしていつも、小さな落胆と共に立ち上がっては、神殿を後にした。
しかしこの日だけは違った。
立ち上がって、扉へ足を向けたライナルトの目の端に、眩い光が飛び込んでくる。
慌てて振り向いた時には既に、彼女がそこに佇んでいた。
「ライナルト殿下……?」
懐かしい声が、記憶にあるそのままの響きで、ライナルトの名を呼ぶ。
奇跡が、目の前に佇んでいた。
――その日、ライナルトはシーナに抱きしめられながら、子供の頃のように涙を流したのだった。




