01.突然の異世界トリップ
アルバイト先の喫茶店から帰宅したら、従姉妹と恋人がキスをしていた。
付き合って一週間目の日曜日のことだった。
「だってお前、まともに手も握らせてくれないし。そもそも俺は瑠奈ちゃんが好きだったんだよ。でも瑠奈ちゃんには彼氏がいたから、仕方なく従姉妹のお前と付き合ってやってたってわけ。じゃなきゃ誰が、お前みたいな地味眼鏡と!」
自分から「どうしても付き合って欲しい」と熱心に言い寄ってきた元恋人は、悪びれることなくそう言った。
「ええ、手も握らせないとか山下くん可哀想! 朱里って真面目すぎ!」
高校に入って八人目の恋人と別れたばかりの従姉妹は、心底勝ち誇ったような、小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。
椎名朱里は十七歳の高校二年生だ。
幼い頃に両親を亡くし、父方の伯父夫婦に引き取られて生活してきた。
幼稚園に通っていた頃からひとりで絵本を読んだり、折り紙を折るのが好きな大人しい性格で、それは今でもあまり変わっていない。
一方従姉妹の瑠奈はというと、ふわふわした茶髪の愛らしい少女で、小さな頃から皆の輪の中心にいるような華やかな存在だ。
学芸会では必ず主役に推薦され、習い事でもいつも代表に選ばれる。
自己主張が強く少々わがままな性格ではあるが、持ち前の愛らしさのおかげで、それすら愛嬌として許されるような少女だった。
それゆえに、少しでも朱里が注目を浴びると気にくわないらしい。
習い事で朱里が褒められると「調子に乗るな」と練習の邪魔をし、テストの点数で自分が劣った時などは「カンニングをしたせいだ」と大騒ぎした。
朱里が気になっている相手や、逆に朱里のことを気になっている相手がいると知ると、必ず横やりを入れて邪魔してきた。
そう、今回のように。
「瑠奈、どうして……? 山下くんには興味ないって言ってたのに」
元恋人が出て行き、ふたりきりになった室内で朱里は改めて瑠奈に向き直る。
すると彼女は面倒そうに肩を竦め、鼻をふんと鳴らした。
「だって、朱里なんかと付き合ってる物好きってどんな感じなのか興味あったんだもん。でも、山下くんって全然面白くないのね。朱里に返してあげる」
「瑠奈……!」
「それじゃ、わたしこれから友達と買い物行ってくるから」
呼び止める朱里の声も聞かず、瑠奈は身を翻してリビングから出て行った。
一人残された朱里は、小さくため息をつく。
別に、彼のことを好きだったわけではない。
断ってもあまりにもしつこく食い下がられ「お試しでいいから」と何度も言われたから、そこまで言うのならと頷いただけだ。
とはいえ、朱里は朱里なりに彼のことを好きになろうと努力していたし、一緒に過ごしていて楽しかった思い出だってある。
何より、従姉妹と恋人のふたりに裏切られたという事実に、傷つかないはずがない。
どうして、瑠奈は自分のことをあれほど目の敵にするのだろう。
小さな頃から、朱里のものはほとんど瑠奈に奪われてきた。
お気に入りのぬいぐるみも、ネックレスも、ワンピースも鞄も。そして友達さえも。
そのたびに傷ついてきたが、伯父夫婦から『堪えてやってほしい』と言われ、なんともないふりをしてきた。
だけどこれから先の人生、自分はずっと瑠奈にあらゆるものを奪われて生きていかなければならないのだろうか。
そう考えると気が重く、またため息が零れてしまう。
ちょうどその時、リビングに聞き覚えのある電子音が響き始めた。
「瑠奈のスマホ……?」
見ればテーブルの上に、スマートフォンが置きっぱなしになっている。
鞄に入れるのを忘れてそのまま出て行ってしまったのだ。
友達と買い物に行くと言っていたし、待ち合わせの際などに連絡手段がなければ困るだろう。
(まだ間に合うかも)
スマートフォンを手に取った朱里は急いで靴を履き、先ほど出て行った瑠奈の後を追った。
幸いにして瑠奈は家からそう遠くには行っておらず、すぐに追いつくことができた。
「瑠奈、待って……!」
「何? さっきの話の続き? 朱里ってしつこいのね。わたし急いでるの。あんたの文句に付き合ってる暇なんてないから」
しかし瑠奈は自身が忘れ物をしたことに気付いていないらしく、ちらりと朱里のほうを振り向いただけでさっさと先を歩いて行く。
「ううん。そうじゃなくて、スマホ――」
もう一度呼び止めようと腕を掴んだちょうどその時だった。
突如として朱里たちの周囲から眩い光が溢れ、突風のような激しい音を上げながらふたりを取り巻き始めたのは。
「えっ……!? 何、この光!?」
「何ふざけたこと言ってるのよ、光なんてどこにも見えないじゃない!」
狼狽する朱里に対し、瑠奈が苛立ったような声を上げる。
朱里は眩しくて目を開けていられないくらいなのに、瑠奈にはこの光が見えないというのか。
「もう、いいから離して!」
言って、瑠奈が朱里の手を振り解こうとする。
しかし、その瞬間。
「きゃぁぁぁっ!」
「なんなの!?」
ふたりは同時に悲鳴を上げた。
まるで強い波にさらわれるように、身体が急速にどこかへ運ばれる感覚。きっと瑠奈も、朱里と同じ感覚に襲われているのだろう。
引き離されないよう瑠奈の腕を握る手に力を込め、強い光に耐えきれず目を瞑る。
一秒、五秒、十秒――。
そうして次に目を開けた時。
そこは知らない場所だった。
先ほどまで歩いていた住宅街とは似ても似つかない。
どこかの教会か神殿のような、白い建物の中だ。
水盤、と言っただろうか。室内には浅いプールのような水面が設けられており、その中央にある台座のような場所に、朱里は佇んでいた。
「ちょっと朱里、ここどこよ!」
隣を見れば、瑠奈が眉をつり上げながら怒鳴っている。
「わ、わたしにもわからないよ……」
ざっと周囲を見渡すと、まず真っ先に目に入ったのは、羽の生えた男女を模した七柱の石像だった。
小さな明かり取りの窓しかない薄暗い室内で、真っ白なそれらが薄ぼんやりと浮かび上がる様が、なんだか不気味だった。
そして更に奥へと目をこらすと、大勢の人々が遠巻きに朱里たちを見つめているのがわかる。
「あの――」
ここはどこですか。
そう問いかけようとした瞬間、わっと割れるような歓声が上がった。
「殿下、召喚の儀に成功しましたぞ!」
「これで我が国は安泰だ!」
「なんとめでたい! 聖女さまの御台臨だ!」
まるで、ゲームか小説に出てくるような台詞だ。
よく見れば朱里たちを取り巻く人々も、ファンタジー映画に出てくる王侯貴族のような仰々しい格好をしており、現実味が薄い。
「あんたたち誰よ! セージょだとかゴタイリンってなに? 意味わかんないんだけど! これって誘拐じゃないの?」
「ちょ、ちょっと瑠奈……!」
ここがどこで、自分たちがどういう状況に置かれているかもわからない以上、下手に相手を刺激して怒らせるのは得策ではない。
いきり立つ瑠奈を慌てて制止するが、その手を振り払われてしまう。
「何よ朱里。ぼーっとしてないでさっさとケーサツ呼びなさいよね! まったく役立たずなんだから!」
瑠奈がますます苛々と声を荒らげたと同時に、たっぷりとした白い髭を蓄えた老爺が、ふたりの許へ近づいてきた。
「ようこそ、異世界から参られし方よ。どうか気をお鎮めくだされ」
「は? 異世界? あんた誰?」
「私はスノールーチェ王国の大神官、ウベルトと申します」
瑠奈の失礼な物言いにも動じず、ウベルトと名乗った老爺は静かに頭を下げた。
そして再び頭を上げると、理知的な灰色の瞳でふたりを見つめながら厳かな声で告げる。
「おふたかたにおかれましては、このたびの急な召喚に混乱なさっておいでのことかと存じます。事情をご説明いたしますので、今しばらくお時間をいただけますでしょうか?」
その有無を言わせぬ真剣な表情に、朱里と瑠奈は顔を見合わせ、困惑しながらも頷いたのだった。