噓とエッセイ#8『二階』
親が家を建て替えると言い出した。家路に就く途中のことだった。まるで今日の晩ご飯を言うような、何気ない言い草だった。
もう建てられて二十数年が経つから、様々な箇所が古くなってきているらしい。夏は暑くて冬は寒い。通気性も気密性も芳しくないのだという。
まるで愚痴のような理由に私は、反論する気になれなかった。
今、私の実家は両親二人しか住んでいない。当の本人である二人が建て替えると言い出したからには、別の場所に住んでいる私は頷くしかない。アルコールも入っていたし、どのみち冷静な判断も下せなかった。
だけれど、私の心には靄がかかっていた。それは、親が平屋にする気だったからだ。
確かに現状では、二階は全く使っていないから、減築して一階だけにするというのも、筋が通った話ではあるのだろう。二人とも還暦を迎えて、階段の上り下りがこれからきつくなってくるとしたらなおさらだ。
しかし、私は頷いたものの、心の中でははっきりとした答えが出せなかった。なぜなら、二階には私と弟の部屋があったからだ。
空き部屋となっているが、実家に帰省した時には今も二階で寝ることだってある。ものすごく大げさな言い方をすれば、私たちの思い出が根こそぎ壊されて、存在しなくなってしまう。
すっかり変貌した実家に帰省した時に、私は素直に「ただいま」と言えるのか、正直自信がない。
小学校低学年くらいまで私の部屋は一階にあった。今はリビングとして使われている部屋だ。
勉強をしようにも。同じ階にある元リビングからの音がうるさくて、なかなか集中できなかったのを覚えている。
なので部屋を変えてほしいと親に直談判したのが、小学二年生の終わり頃だった。普段めったに意見をしない私が珍しく発した主張だった。
親は意外なほどあっさりと、私の主張を受け入れてくれた。今にして思えば、もっと強く訴えても良かったと思う。子供の頃の集団の中に溶け込もうと必死な態度が、今の消極的な私を形作っているのだから。
協力して勉強机を二階まで運び、私の二階部屋生活はスタートした。
実家の二階には部屋が二つあり、私に割り当てられたのは、階段により近い方の部屋だった。壁の一面全てが扉になっていて、しかも半透明のガラスが埋まった格子戸だった。中にいるかどうかすぐに分かることも、親にとっては都合がよかったのかもしれない。
ただ、階段を上がっただけなのに、一階と程よく隔てられて、どことなく落ち着いたのは確かだ。親からの干渉も、階段を上るという手間が抑止してくれるような気がした。
騒音も少なくなり、私は以前よりかはいくらか真面目に勉強に取り組むようになった。小学校のテストは比較的満点を取りやすかったので、私はよくいい点数を取っては一人でほくそ笑んだものだ。親に見せて大っぴらに褒めてもらうのはなんだか恥ずかしかった。
弟がすぐ嫉妬する性格だったのもあるかもしれない。彼も成績は良い方だったのだが、親はどちらかというと私に目をかけていた。私が自信がまったくない性格だったからだろう。
まあその親の目論見は上手くいかず、今も毎日、ダメ人間だと自分を責めたてているのだけれど。
集中できる環境を与えられたおかげか、私は中学でも高校でも比較的いい成績をキープすることができた。覚えたものをそのまま出力するという、単純さが私には合っていたのかもしれない。答えが決まっているものへの適性が高かったのかもしれない。
ただ成績と引き換えに友人関係は壊滅的だった。部屋に友達を呼んだことは一度もない。成績はそこそこでも友人がいるクラスメイトを、学生時代はよく羨んだものだ。
私は誰か別の人間になりたかった。もっとまともで一般的な誰かに。
もちろん私だって、勉強ばかりしていたわけではない。まったく向いていない部活にも熱を上げていたし、自分の部屋ではここに書けるようなことも、書けないようなことも色々とやった。
書けないようなことは察してもらうとして、書けるようなことで、私が一番のめり込んだのはゲームだった。
当時はニンテンドーDSが隆盛を誇っていて、私はどうぶつの森やマリオカートなどのゲームを暇さえあれば、部屋に引きこもってやっていた。特にはまったのはポケモンだ。
私が学生だった頃は、ダイヤモンド・パールやブラック・ホワイトが発売された時期と一致する。特にダイヤモンドにはのめり込んだ。見るだけでOKなシンオウ図鑑の完成はもちろん、個体値や努力値さえも気にして、強いポケモンを育てようとがんばったものだ。
結果は散々だったけれど、世の中には自分の上位互換がごまんといるという現実を知られたことは悪くなかった。
高校生になって、塞ぎこんでいた私を受け入れたのも二階の部屋だった。
私は高校二年生になって、部活を中途半端にやめた。自分の運動神経のなさに嫌気がさしたからだ。
のめり込んでいた分反動は大きく、私は腐った。私は実家と高校の往復以外は、家に引きこもるようになった。
秋にあった修学旅行は、もともと部活の大会があるから不参加になっていたが、私はどうせ出られないのだからとその大会すらもさぼった。非の打ち所がしかないダメな学生そのものだ。
だけれど、二階の部屋はそんな私をも何も言わず包み込んでくれだ。唯一の居場所のように思えた。
親も理解を示して、ある程度は放っておいてくれた。もし無理やりにでも連れ出されたら、私の学生時代は、より汚い色で塗りつぶされていたかもしれない。
学校には一応毎日通っていたものの、それ以外では部屋に引きこもるようになった私。その頃の私を支えていたのは、引き続きポケモンと、あとは音楽だった。
弟が読んでいたジャンプを何となく読ませてもらっていると、とあるバンドに出会った。
the pillows(以下ピロウズ)だ。ちょうど主人公三人組がバンドを組む回で、Funny Bunnyという曲が漫画の中で演奏されていたのだ。
聴いてみると、にっちもさっちもいかない自分を励ましてくれるようで、どうしようもなく涙が出てきた、とまではいかなかったが、確実に胸に浸透していった歌だった。
そこから私とピロウズとのつきあいが始まった。ブックオフなどの古本屋に通っては、その度にCDを買い集め、何度も聞いた。最初に聴いたアルバムはLITTLE BUSTERSで、ONE LIFEの透明度に衝撃を受けた。ほとんど毎日のように色々なアルバムを聴いていた。
ちょうどその頃はボーカルがラジオ番組を持っていて、それも毎回リアルタイムで聴いていた。深夜一時ごろからで、そんな時間まで起きているのは私にとって初めての経験だったから、心の底がうずいたのを覚えている。
まあそのおかげで学校の授業では、よく寝るようになってしまったのだけれど。部活に入っていたときよりも。
受験勉強も二階の部屋でした。私の志望校はそこそこの私立大学。とはいっても強くやりたいことがあったわけではなく、単に東京への憧れが私を突き動かしていた。
部活をやめていた私は、時間だけはあったのでひたすら机に向かい続け、ることができれば格好よかったのだが、実際は古文や英単語などは、ベッドに寝そべって覚える時間の方が長かったように思う。
DSのソフトには単語帳もあって、オリジナルの単語帳を作り、それをこまめにチェックしていた記憶がある。もちろん途中で寝落ちてしまったことも一度や二度ではない。布団の心地よさは、何物にも代えがたいのだ。
そして、無事志望校に合格した私は三月、上京のために二階の部屋を離れることになった。それでも、また年に数回は帰ってきて、ここで眠るのだと思うと、あまり寂しさは感じなかった。
東京の部屋に持っていったのは本棚とCDプレイヤー、あとはピロウズのCDぐらいだったから、また部屋に入ればここで過ごした日々がすぐに思い出されるだろうという確信もあった。
とはいえ最後に部屋を整頓して掃除機をかけていると、どんどんと部屋が他人行儀になっていく奇妙な感覚があった。これでもう終わりと言われているような。そんなずしりとくる重たい感覚だった。
二階の部屋に別れを告げて、早五ヶ月。盆の時期に私は実家に帰った。
一直線に荷物を置こうと二階に上がったとき、私の部屋は弟の部屋に模様替えされていた。薄黄色だったカーテンは水色のものに変わり、ベッドは南枕になっていて、本棚には学生時代の部活で獲得した盾が飾られていた。
弟は私の隣のより階段から遠い部屋を使っていたから、リビングとの往復が面倒くさかったのかもしれない。だけれど、あまりの変わり身の早さに私は呆然とした。間取りは一緒なのに内装が違うと、何もかもが異なって見えた。
ベッドに寝そべる気にもなれずに、私は隣の部屋へと荷物を置いた。エアコンのない和室は蒸し暑くて、窓を開けてもなかなか眠れなかった。
こうして私の部屋だった二階の一室は弟の部屋になり、やがてその弟も大学入学を機に家を出て、二階の二部屋はどちらも空き部屋になった。
それでも、二階には私の記憶がつまっている。
自分の部屋だけではない。窓から屋根に出て瓦に寝そべったりもしたし、和室の押し入れでは何度も弟と遊んだ。暑くてベランダで寝ようとして、蚊に刺されたこともある。二階を失うということは、私の半身を失うことに等しい。
本音を言えば、改築してほしくない。だけれど、バリアフリーを持ち出されたらどうしようもない。今の私は板挟みとなって葛藤に揺れている状態だ。
だけれど、私は改築を受け入れるつもりだ。だって、今実家に住んでいるのは両親なのだから。住んでいる人間の意見を最優先させるべきだろう。住めば都ということわざもある。
改築されて平屋になった実家も、何度か通えば慣れるだろう。
家の間取りが変わることは、おそらくない。私の実家は姿を変えても、元いた場所にあり続けるのだ。
(完)