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防衛高の日常  作者: 兄鷹
第一章 始まりを告げるラッパ 編
8/19

7模擬戦

 二日目。

 誠たち学生は衝撃的なニュースを聞かされ、朝食の場には陰鬱な空気が漂っていた。


 ロシアの南下政策の再開。

 ここ最近は北欧方面で小競り合いを繰り返していたロシア軍だったが、進路を急変させドイツへと襲い掛かった。

 しばらく見られなかった大規模な戦争に、学生たちは言いようのない不安を抱えていた。

 日本とドイツは同盟国だ。日本からもロシアに対して何かしらのアクションはあるだろう。それが政治的なものか軍事的なものかは分からないが、いつ防衛軍が戦地に派遣されてもおかしくない状況だった。

 現代に生きる者なら誰もが知っていることだが、今の平和は仮初の物に過ぎないのだ。


 しかしそれよりも、学生たちにとっては差し迫った危機の方が深刻である。具体的に言うと、今日の夜から始まる夜間行軍だ。座学と能力訓練でへとへとになったところで、富士山を夜通し走らされる。

 行軍とは名ばかりで、要するに夜中の富士の弾丸登山である。道路の整備されている五合目まで駆け上がり、そこで教官のチェックを受けた後に駆け下りるのだ。


「なるべく体力を残しておきたいという気持ちは分かるが、能力訓練中に気を抜いていると大事故につながるぞ」


 新堂が声を張り上げた。彼は富士合同基地の正規隊員であり、どうやら桑名教官の後輩らしい。昨日は二人で何やら話し込んでいたが、内容まではよく聞き取れなかった。


「櫻野学生はスジが良いな。能力の発現が至って自然体だ」


 そして、何故か新堂は誠の事を気にかけてくる。そしてそのたびに、孝太郎から向けられる視線が鋭くなっていく。

 孝太郎は誠を意識している。万にそう指摘されてからというもの誠自身も彼の視線に気が付くことが多くなってきた。こちらが目を合わせれば何ごともなかったかのようにそっぽを向いてしまうが、孝太郎は確かに誠を意識していた。

 誠はそんな孝太郎に対していい感情を抱いていなかった。自分を睨んでくる奴に良い感情を持てと言われても、それは無理な話だろう。


 ――言いたいことがあるなら、言えばいいのに。


「……」


 そして新堂は、そんな誠と孝太郎を見ながら、ポンと手を打った。丁度桑名が出払っているタイミングを見計らって、全体の訓練をいったん中止させた。


「櫻野、そして高村学生。前に出ろ」


 桑名はこの二人の関係についてとても深刻に考えていたようだが、新堂はそうは思っていなかった。かつて自分がそうだったように、どこかで衝突させて気持ちを発散させた方が、上手くいくものだ。お互いを秘め合ったままでは、誰もいない場所で爆発してしまう。それが見え透いたことならば、こうして大人の管理下で爆発させてしまえばいいのだ。


 ――すみませんね桑名先輩。これも指導の内です。


「クラスAの諸君らは非常に優秀だ。昨日今日と見てきたが、能力の発現に不安のある学生はほぼいない。しかし、そんな中でも櫻野、高村学生両名の才能には目を見張るものがある」


 新堂は一旦言葉を区切り、前に出てきた誠と孝太郎に向かって言った。


「君等に簡単な模擬戦をして欲しい。バッチを奪い合うのは各寮でやっただろう? それをもう一度やって欲しいのだ。もし怪我が心配なら……」


「自分は構いません」


「……そうか、櫻野学生はどうだ?」


「自分も、……構いません」


「よし」


 孝太郎が断らないのは予測していたが、誠が即決したのには驚かされた。新堂の見解では、誠はもう少し卑屈な性格だと思っていたが、どうやら訂正する必要がありそうだった。


「新堂二佐。担当教官がいないところで模擬戦など、大丈夫なのでしょうか?」


 部下の一人が疑問を投げかけたが、新堂は軽くいなすだけで聞こうとしなかった。


 学生の戦闘服には、原則としてバッチを付けないことになっている。しかしその代わりと言っては何だが、頭の上には帽子がある。


「他の学生は二人の動きと能力をよく観察しておくように。

 そして二人とも、あまりやり過ぎるなよ。加減が出来ていないと判断した場合、こちら側の判断で中止させてもらう」


「…はい」


 誠は相手の表情から何かを読み取ろうとしたが、孝太郎が深く帽子を被ってしまってよく見えなかった。笑ってはいなかったと思うが、心なしか頬が緩んでいたような気がする。

 誠は穴から木刀を取り出して、正眼に構えた。


 ――よく分からんが、とにかくこれでハッキリする。


 誠には何故孝太郎が自分を意識するのか分からなかったが、こうして立ち会う機会を得て軽い高揚感を覚えていた。


「高村学生も、それで構わないな」


「……了解です」


 孝太郎は、急に天から降ってきたこのチャンスに感謝していた。クラスメイト全員の前で、誰が一番なのかをこれから証明できるのだ。


 模擬戦は、互いにある程度距離を取った状態で始められた。一挙手一投足では木刀を使う誠が有利すぎるし、離れすぎていれば遠距離攻撃の手段がある孝太郎が有利になるからだ。お互いに、能力は一日目の訓練である程度見ていた。実戦ではそうあることではないが、手の内が割れている状態である。


「始め!」


 ねっとりとした膠着を新堂の合図が打ち破った。


 誠は身体に強化を掛けて一気に距離を詰めようと飛んだが、孝太郎はそれを読んでいたのか後ろに退いた。


「逃げるのかっ――!」


 しかし木刀の切っ先が届くと思われた瞬間、孝太郎から大量の白い蒸気が噴き出して刀は霞を斬った。孝太郎の能力は火と水を操るもの。蒸気を瞬時に作り出すなど、造作もない事だった。

 突如として出現した大量の蒸気が視界を遮った。

 高温の蒸気に露出した肌を焼かれつつ、誠は音がする方へ切り込んでいった。


火炎放射(フレイムスロウ)!」


 ――ゴォォォオ


 嫌な予感がして右へ飛ぶと、さっきまで自分が立っていた所を業火が通り過ぎるところだった。霧の中で戦うのは不利だと判断した誠は、そのまま右方へ逃げ続けた。





「中はどうなってるんだろう」


 三方ヶ原みゆきは、誰にともなく呟いた。

 クラスメイトが模擬戦をやるから見ておくようにと言われたが、始まるや否や視界が塞がれてしまった。


「高村の能力か。火と水でこんなことも可能だなんてな」


 隣にいた白鳥万がつぶやきを拾い、みゆきの側に寄ってきた。


「流石二種持ちだぜ。能力活用の幅が広い」


「………」


 自然と距離を詰めようとする万に思わず後退りするみゆきだったが、万が気にする様子はない。


「……そういえば、白鳥くんの能力も二つあったよね。『腕が燃える』のと『身体強化』?」


「ああ、でもその二つを別々に使う事は出来ない。だから二種持ちというよりも、複合能力って言った方が分りやすいか? 俺の能力は『腕を燃やして身体能力を上げる』ものなんだよ」


 効果や効能が二つ以上ある能力はよく二種持ちと混同されるが、似ているようで実は大きく違う。まず前提として挙げられるのが、別々に発動できるかどうかである。二種持ちは二つの能力を個別に発動させることが出来るが、万は出来ない。腕を燃やすと同時に身体強化も発現するし、その逆もしかり。どちから片方のみの発動は出来ないのだ。


「ふーん。そうなんだー」


 万が得意顔で二種持ちについて解説していると、突然誠が霧から出てきた。


 その後を追うように火球がいくつも飛んできたが、誠は強化した木刀で散らして対応していた。




「燃えないな。強化してあるのか? つくづく出鱈目な効果だなお前の能力は! 火炎放射(フレイムスロウ)ッ!」


 孝太郎の次の手は単発の火球ではなく、先程放った業火と同じものだった。そこらの火炎放射器など目ではないほどの火力で、誠には掠ってすらいないのに熱気だけで気圧されそうになる。


 ――流石に、アレ喰らったらやばいな。


 やり過ぎだと判断された場合は新堂が止めに入るらしいが、未だその気配はない。つまり、あの業火の放出はやり過ぎとは判断されていないという事だ。

 当たったら全身火傷では済まなそうな威力だが、狙いが大雑把なのと自身の身体強化のお陰で難を逃れ続けている。


 孝太郎が派手で多彩な攻撃方法を持っているのに対して誠の攻撃は地味だった。身体を強化して殴るか木刀を強化して殴るかの違いで、出来る事が極端に少ない。

 しかし、()()において取れる手段が少ないというのは決して不利に働くものでは無い。


 銃が普及する以前、日本刀がまだ幅を利かせて江戸時代末期で、最強の名をほしいままにした剣術が存在した。『示現流』として知られるその剣術において、取れる手段はたったの一つ……誰よりも速い初太刀と、全身全霊を掛けた打ち込みである。先手必勝が示現流の基本であり、奥義なのだ。それしか取れる手段がないため、示現流の使い手はいざ戦闘に直面しても()()()()()()。そして命を掛けた勝負の中で一瞬の迷いは決定的な差だ。

 示現流は選択肢を減らすことで、幕末の動乱期に最強の称号を手にしたのである。


 無論のこと、誠が使っているのは示現流ではないし、ましてや何某かの流派に与する剣術ではない。身体強化を頼った力任せの剣だが、理屈は同じである。

 近づいて殴る。それ以外に勝ち筋は無いのだ。


 ――一瞬の隙を作れれば……。


 誠は身体強化を弱め、わざと火球をギリギリのところで避けた。制服にも一応強化を施しているため掠ったくらいで燃えはしないが、露出した顔や首が燃えるように熱い。

 きちんと分かるように体をみっともなく泳がせ、万全の強化を施したうえで()()()被弾した。


 腹に拳を喰らったような衝撃の後、灼熱の炎が身体を舐めてゆく。


 これを一隅の好機と捉えたのか、孝太郎が大きく構えを変えた。右手を引き絞り、何かを蓄えるように力を込めた。


 ――火炎放射が来る……!


 次の瞬間、既に構え切った孝太郎の背後に、木刀を上段に構える誠がいた。孝太郎のリズムを弱めの身体強化に慣れさせた後、今度は全力の身体強化で地を蹴った。


 目が慣れ切っていた孝太郎には、おそらく全速の誠は一瞬消えて見えたはずである。


「――ラァァぁああ!」


「……ッ!」


 完全に虚を突かれたにも拘わらず、孝太郎は間一髪のところで間に合った。

 姿を消した相手が次どこに現れるかと言えば、八割の確率で背後である。そして孝太郎は賭けに勝ったのだ。


 これは咄嗟に反応できた孝太郎を誉めるべきだろう。孝太郎は厚い水の盾を瞬時に形成し、背面から迫る木刀を包み込んだ。

 が、そこには木刀を握る誠の姿は無かった。



 得物を手放した誠は、そこからさらに裏をかいて孝太郎の前方へ回り込んでいた。

 さらに一瞬のうちに交錯し、伸ばした誠の手は孝太郎の帽子を掠め取った。


「そんな!」


 勝負に負けたことを悟った孝太郎だったが、今まで全力で戦った相手が目の前にして体が勝手に動いた。

 手のひらが無防備な誠に向かい、準備していた火炎放射(フレイムスロウ)を放った。


 ――しまった!


 そう思ったがもう遅く、誰にも止められないまま炎の大蛇が誠を襲った。そのまま地面に当たって弾け、水気のある生の芝を焦がしていく。


「櫻野っ!」


「なんだよ、危ないな」


「……!」


 悔恨の表情を浮かべる孝太郎が振り向くと、そこには片手に迷彩の学生帽を持ちながら、緩慢な動作で木刀を拾う誠がいた。少し傷のついた木刀を片づけ、帽子を孝太郎に向けて差し出した。


 ――不意打ちでも、俺は負けたのか。


 意図せぬことだったとは言え、誠は孝太郎の勝負外の不意打ちさえも避け切った。その事実が、孝太郎に深い敗北感を与えていた。そしてそれ以上に、抑えきれずに無防備な相手に向かって攻撃した自分を恥じていた。

 思わず帽子を乱暴に取り返して、その行動にまた自分の顔が赤くなっていくのを感じた。


「とても良い模擬戦だった。さ、互いに握手だ」


 新堂が何か言っているのが聞こえたが、内容が入ってこなかった。握手の最中、誠とはどうしても顔を合わせることが出来なかった。


 あれほど同じ二種持ちとして執着していた誠なのに、勝負が終わってみると何故あれほど意固地になっていたのか分からなかった。むしろ自分ばかりが勝ち負けにこだわっていたことに子供っぽさを感じてしまった。勝っても飄々としている誠が、さらに拍車を掛けた。あろうことか、勝ってしまって申し訳なさそうな感じが伝わってくる。子供相手のチャンバラ遊びで、本気を出したら泣かせてしまったかのように。

 誠が自身の背徳感に気付いているのかはともかくとして、敗者である孝太郎は敏感にそれを感じ取った。


 孝太郎は帽子をかぶり直す振りをして、上を向いてグッと涙をこらえた。






「すげぇじゃん誠! 一発も殴らずに勝つなんて余裕だな」


「体勢を崩したように見えたのはわざとだったんだね。圧倒的でした」


 模擬戦の後、誠の元に万とみゆきが駆け寄ってきた。


「圧倒的だとか、そんなことないよ。ギリギリだった」


「でも本当に良い勝負だったよ。お疲れ様」


「……」


 こんなにも話しにくいと感じるのは、相手が女子だからという理由だけではないはずだ。

 さっきの試合は、本当にギリギリだった。しかし周りはそう受け止めてくれない。たった一度の勝負に勝った誠を褒めそやし、孝太郎を慰める。次に勝負したらどちらが勝つのか分からないのに、勝負の外にいた者たちにはそれが分からない。

 誠はクラスメイト達から称賛の言葉を受け取るたびに、どうにもやりきれない気持ちになっていた。孝太郎が思うような申し訳ない気持ちなどではなくて、言語化できない複雑な気持ちだった。


 しかしそんな誠の姿をみても、孝太郎はそうは感じない。勝利したにも関わらず謙虚な態度の誠に対して、孝太郎は自分の幼さに歯を食いしばるのだった。







「あ。桑名先輩、おつかれさまで……ががが」


「新堂、貴様何をしていた」


 桑名にしては珍しく真剣な顔で、呑気な後輩の頭をがつんと鷲掴みにした。怒れるその身体からはプレッシャーが漏れ出ており、周囲まで威嚇しているようだ。


 周りに控えていた新堂の部下たちは冷や汗を流した。新堂は一応、佐官という防衛軍幹部の中でもそこそこのお偉いさんである。先輩とはいえその頭を鷲掴みにする桑名とはいったい何者なのかと、緊張が走っていた。


「やめてください桑名先輩! 部下が見てますし怯えてます」


「いくら上官とはいえ、上司の愚行を止められん部下など捨て置け」


 その一言で、部下たちは一言も発さずに蜘蛛の子散らして逃げていった。


「あいつらぁ。後でたっぷり扱いてやらにゃ」


「扱かれるのは貴様だ、新堂! 教官がいないところで勝手に模擬戦をおっぱじめおって」


 桑名はようやく新堂の頭を解放し、新堂は自分の頭蓋骨が陥没していないか調べ始めた。


 防衛高の教官の階級は、教育に携わる特別職という事で通常の階級から外れた『教官』や『指導主任』、などに任じられる。教官という階級はどこより偉いという訳ではないが、幹部よりは下というのが一般の認識だ。

 防衛軍において、階級というのはかなり厳しく順守されている。防衛高を卒業すると18歳で曹の階級に任ぜられるが、こういった場合年上の部下を持つこともあるのだ。

 かつての先輩後輩である桑名と新堂、同級生であった中条と桑名、教官であり上官であった武田と中条の関係は、それぞれ特別であって一般的ではない。本来なら新堂も、下級の桑名に対しては上からの態度で接するべきなのだ。


「落ち着きたまえ、桑名教官」


 そして突然、新堂は本来そうあるべき態度で桑名に話しかけた。

 少々面食らった桑名だが、思い出したように直立不動の姿勢を取った。


「私から見ても、櫻野、高村学生の関係は歪だ。見た所、貴官は事態を重く見て腫れ物を対処するかのように接していたようだが、それでは溜まった物が噴出した時、手遅れになっている可能性がある」


 新堂のくせにまともな事を……と思って睨み付けた桑名だったが、新堂は全く怯まなかった。


 ――しばらく見ない間に凄みが出てきたな。


「桑名教官、職務を全うしたまえ。ただ黙って見守るだけが教育ではないだろう」


 後輩の思わぬ成長に気付き、桑名は内心で笑った。あの新堂も部下を持って随分と変わったようだ。


「あー。先輩相手に説教できるって気持ちがいいいい痛たたたた!」


「……新堂二佐。自分の感心を返していただけますでしょうか」


 だがやはり、防衛高で青春を共に過ごした関係はそう簡単には変わらないのだった。







 1730。午後の能力訓練が落ち着き、学生たちは夕食の準備を始める。これが終われば夜間行軍が始まり、返ってくるのはもう明日だ。


 そして防衛高内の食料品店で売っていた携行食料のセットだが、一食分の中身はいたってシンプルだ。水でもどして食べるタイプの白米と、冷たくても美味しい(自称)カレーである。そしてそれが四日分入っている。

 水すら自前の訓練もあるようだが、今回の富士山研修では基地内の水道を借りてよい事になっている。それでも温かいカレーを食べることは出来ないので、皆我慢して冷たくても美味しいはずのカレーを食べるのだ。


 今回の為に用意した荷物の中には小型の携帯テントも含まれていたが、就寝時には基地内のスペースを貸してもらう事が出来たのであまり必要がなかった。だが、先輩のアドバイスによればこの富士山研修の訓練内容は年々変わっているらしい。いつ寝床が外になってもおかしくないから一応持っていけ、という事で背嚢に詰め込んだのだ。流石にそれは無いだろうとは、誠には断言できなかった。


 しかし今から考えると、やはり必要のない荷物が多かったような気がする。夜間行軍は背嚢を背負ったまま行われるため、少しでも軽い荷物が理想だった。


「今のうちに無くしておくか」


 この甘いお菓子もまた先輩のアドバイスで買っておいた品物だった。乾燥したケーキが缶詰に入っており、缶切りが無くても開くようになっている防災グッズの一種だ。

 あまり美味しくは無さそうな見た目だが、貴重な甘味だ。誠はひとかけら千切って食べた。


「…………万、これ食べるか?」


「いいの? サンキュー…………」


 しばらく二人でもぐもぐと口を動かしていたが、両者とも無言で水を口に含み、胃に流し込んだ。


「まぁ、缶詰なんてこんなもんだよな」


「腹が減ってりゃ美味しいかもな」


 誠はバックの中を見てみたが、明らかに今後不必要なものが沢山入っていた。周りでは不用品をゴミ箱に捨てに行く学生が結構いた。ただ誠は貧乏性が働いたのか、それともただ単にもったいなかったのか、それらをこっそりと穴の中にしまった。

 桑名からは使うなと言われていたが、既に模擬戦でもある程度使っているし、今入れたものは捨てる予定の物だったから大丈夫だろう。そう自分に言い聞かせて、誠は冷たいカレーの後味が残る口を富士山の水ですすいだ。








 1930。早めの夕食を済ませたら、辺りはそこそこ暗くなっていた。

 そしてすっかり失念していたが、夜間行軍とは富士山の麓から五合目までの往復の事を指す。しかし、その富士山の麓とここ富士合同基地は一致しない。――つまり登り口までも自分の足で歩けという事だ。五合目までの往復のみだと思っていたが、これは想像以上に辛いものになりそうだった。


「いいか。行軍とはあるが、これは団体行動ではない。昨日の様に誰かの手助けをする必要もない。なるべく早く富士の山を駆けのぼれ。そして三日目の昼までにこの駐屯地へ帰ってこい。いいな!?」


「はい!」


 一学年全員の前で中条が言った。それに合わせて、富士合同基地の門が開く。

 誰かがスタートの合図を掛けるわけでもなく、こうして夜間行軍は静かに始まった。誠も肩に食い込む背嚢のベルトを握り締め、ひっそりと息を吐いた。


 そして孝太郎は、そんな誠を静かに見つめていた。

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