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私たちについて

 薄暗い店内で立ち昇る湯気はか細い。誰かの噛み跡の残る樹脂箸は滑り易くよく具材を落とした。胃の中には中華そば以外の不吉な何かしらが沈んでいたがそれが何なのか正確な所は分からない。色々な物が混ざりあって溶け合っていた。背中に汗をかいていてシャツが張り付いており、耳の中では蝉の鳴き声がまだ響いていた。煙草を吸いたかったがジャケットに入れたまま車に置いてきてしまった。

「早く食っちまえよ」

 僕がそう声を掛けても佐々木は黙ったまま炒飯を見下ろしている。蓮華で崩したきりで口には運んでいない。

「気分が悪い、空きっ腹に入れたせいかな」

 安酒ばかり呷るからだよ、そう声を掛けても相変わらず俯いたままで食いもしないし動こうともしない。空調は効いておらず羽と網目に埃の堪った扇風機が隅に置かれていた。窓枠に挟まった縦型のエアコンは沈黙していて、開け放たれた入口に架けられた赤い暖簾が時たま風か何かで揺れ動いた。一日の終わりに何でこんな寂れた中華屋に入ってしまったのか、厨房の奥にいる店主もきっと同じことを思っているだろう。何もかもが上手くいかない日というのは必ずあって、そういう時には考え事などせずにタオルケットを頭まで被って日本の行く末について思いを巡らせる他無い。酒が飲みたかった。佐々木の目の前に置かれたコップ酒が恨めしかった。

 僕が急かすと佐々木は文句を言った。

「マニュアルシフトなんかに気取って乗ってるから悪いんだよ。お前みたいな野郎は、きっとしごいてる時にも左手を使ってんだろ」

「馬鹿野郎、左足だって使ってるよ」

 佐々木は憎たらしく鼻で笑うと黒のネクタイを緩めた。一番上のボタンを外して、襟元をつまんで動かして風を入れている。皺の無い真っ直ぐな襟の内側が汗で濡れている。この蒸し風呂の中で線香臭いジャケットを羽織ってネクタイをぶら下げているのは佐々木だけだ。

「もう外せよ。いつまで付けてんだよ」

「家に着くまでが弔いなんだよ」

 もういいだろうと僕が言っても、佐々木は返事なんかせずに鼻から長い溜息を吐き出して蓮華を掴んで米粒の山に突っ込んですくい上げ口に運ぶ。まずい、と一言発した。

 店を出ても気温はそれほど変わらずに蒸し暑く、運転席のドアを開けると熱気が溢れ出して来た。半身だけ入れてエンジンを掛けエアコンを付ける。点々と灯るオレンジ色の街灯には羽虫が集っていて、やけに長いトレーラーが店の前のバイパスを通り過ぎていく。ドアを閉める音が場違いに響いた。


         □


 出発したのは昼過ぎで、千佳は地方の出身だから我々の地元から移動となると長旅になった。男二人を乗せたホンダの2ドアは淡々と行程を消化していき、途中のサービスエリアで土産菓子を買った。何の縁も無い道中で仕入れたマドレーヌを千佳の母親はどう思うだろう。僕も佐々木も気遣いの出来ないはぐれ者なのだ。

「俺は総務部の女の子に偶然会った時に、たまたまですって言うのだけを生き甲斐にして生きてきたんだ」

「とんでもないくそ野郎だなてめぇは」

 僕は適当な相槌を打ちながらアクセルを踏み続け、時々車線を変えたりギアを変えたりした。最後に空気圧を計ったのはいつだったか思い出そうとしたが思い出せなかった。オイルを換えたのだって車検の時だ。ナビは自分で中古品を取り付けて、ETCは佐々木に付けさせたが内装を剥がす際にマイナスで大きな傷を付けられた。

 佐々木はポケットから音楽プレイヤーを取り出してナビに接続した。何曲目かで千佳がよく歌っていた曲が掛かり、僕は自然と学生時代のことを思い出していた。

 誕生日会で一言求められた時には声が裏返っていたし、初めて酒を飲んだ席では前後不覚になって中野・高円寺間の細道の何処かにパンプスを脱ぎ捨ててきた。思い出の中には最早本人にも分からない事柄がたくさんあるだろうし、忘れられてしまって誰にも答えられない内容も沢山あるだろう。

 千佳の実家はICを降りてから更に三十分ほど走った先にあって、周りを畑で囲まれていて付近の家はどれも驚くくらい庭が広かった。車を停める場所を心配していたが、これなら道の駅だって出来るだろう。土を踏んだのは久し振りで、そこで一生分の蝉の鳴き声を聞いたような気がした。

「今はこんなに賑やかですけど、盆も過ぎれば蜩の方が増えてきますから、あれはあれで良いものですよ」

 出迎えてくれた千佳の母親は元気そうで、「案外元気そうだな」と言った佐々木を僕は肘で突いてやった。天気の話とか、高速道路の混雑具合とか、なるべく死んでしまった彼女とは関わりの無い話をするように努めた。僕と佐々木のとっ散らかった世間話に対して、さも興味深そうに返事をしていたが、その視線は何処か泳ぎがちだった。玄関を通されると奥の方から足音が近付いて来た。

「は? 何で喪服着てんの? 馬鹿なんじゃないの?」

 千佳は我々を見ると呆れたように言ったので、僕と佐々木はほとんど同時に顔を見合わせた。髪は濡れていて水が滴っており、首にはクリーム色のバスタオルが掛かっている。Tシャツは所々濡れていて、虚ろな顔をした猫が片足立ちをしながらウクレレを弾いているイラストがプリントされていた。

「だって、お前が、黒いネクタイの方が良いって」

「私が言ったのは、就活の時みたいな派手なやつはやめてってこと。いっつも赤の水玉付けてたじゃん。やめてよね、近所の人がびっくりしちゃうから」

「千佳ちゃん、せっかくお友達が来てくれたんだから、失礼なことは言わないで。さ、上がって下さい」

「ママだって思ったでしょ、何だこいつらって」

「千佳ちゃん、やめなさい」

 僕は佐々木を横目で見ながらネクタイを解いてポケットに入れた。一番上のボタンも外した。でもね、と僕が革靴の紐を解くのに腰掛けている時、千佳は内緒話でもするみたいに耳元で囁き掛け、ありがと、と一言だけ口にした。

 和室に通された我々は座布団の上にぎこちなく正座した。六畳ほどの小さな和室に置かれた仏壇にはまだ元気だった頃のジョルジの遺影が飾ってある。雌の黒柴で、千佳は携帯もノートPCも全部彼女の写真を壁紙にしていた。すごく可愛い子なんだよ、そう話すのを学生時代によく聞いていて、いつか見てみたいと思っていたが結局叶わなかった。卒業してから最初の年に衰えがひどくなり、とうとう今年に入って直ぐ死んでしまった。

 細やかな弔いは十分程度で終了した。ペット式のやり方を知らなかったが特に違いは無く、順番に線香に火を灯して掌を合わせた。写真の中のジョルジは伏せた姿勢から上目遣いでこちらを見ていた。一巡すると千佳母がジョルジを拾った話を千佳の成長を交えつつ聞かせてくれた。話慣れている様子で、僕は本当に誰かの葬式に来てお坊さんの話を聞いている気分になった。

 佐々木の実家でも犬を飼っていて、二人はリビングで長い時間語らっていた。何となく居心地が悪くて便所に立ち、戻ろうとすると廊下に千佳が出てきていた。

「ごめんね、忙しいとこ、急に呼んじゃって」

「いいってことよ。こっちこそ、いつか来たいと思ってたからさ」

「ジョルジも喜んでると思う。ありがとワンて言ってる」

「死ぬ前に会いたかったな。散歩に行きたかった」

「じゃあちょっと出てみよっか。ママと佐々木くん、まだ話し込んでるみたいだし」

 千佳の家の前の通りは、畑の中を一直線に伸びるアスファルトの細い道で、日差しの熱を照り返している。庭にいるよりもずっと暑く感じられ、背中を汗が一筋流れ落ちるのが分かった。

「大丈夫?」

「平気だよ。何でもない。お母さん、元気そうで良かった」

「まあね。一時期は本当に見てられなかったけど、声掛けた人、みんな来てくれたから」

 僕は道の先を眺める。何か動いているような気がして目を凝らす。

「陽炎が出てるね。あっついなぁ」

 僕たちはそこから先へは進もうとせず、同じ位置に並んで立ったまま、道の先で揺らめく滲みを眺めていた。僕は何度か言葉を発しかけ、千佳も何か呟きかけたが唾を飲み込んだだけで言葉は出なかった。そのようにして立ち尽くしていた。

 起こらなかった出来事が、そして起こった現実が、熱せられた石の地面の上に浮かび上がって漂っている。ジョルジが尻尾を振りながらありがとワンと言っているし、空っぽの箱に結ばれたリボンを嬉しそうに解いている僕がいる。何かの巡り合わせで傷付いたり死んだりした誰かが泣いたり怒ったりしている。その声は僕にも誰にも届きはしない。

 蝉の声が大きくなる。蝉を触れなくなったのはいつからだろう、昔はあんなに捕まえたのに。

 戻ろっか、と千佳が言った。


         □


「今日は良かったのかよ、千佳ちゃんともっとゆっくり話さなくて」

 佐々木はカーステレオを操作してラジオの放送局を選んでいる。FMラジオの音楽番組に合わせると、ボリュームの摘みを回す。

「いいんだよ。また行けばいい」

 ヘッドライトの灯りを頼りにして車は進んでいく。弱い光は手前ばかりを照らして遠くまで届いてはくれない。何処かの誰かがリクエストした歌は僕が昔好きだった曲で、歌詞を口ずさんでいたが曲名が思い出せなかった。

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