月の女
そこには血の海が広がっていた。薄暗い空間の中に数えきれない魔獣の死骸が倒れていた。いや、倒れているという表現は正しくない。なぜなら、それらは獣の形を失い、バラバラにされていたのだから。
この場で何が起こったのか?そんなことは分かり切っている。あの女剣士がやったのだ。老人はそれを確信しながらも、信じられないといった様子でその空間に足を踏み入れた。
「あの女にこれだけの数を対処しきれるとは思わなかった。やはりその瞬間まで立ち合えばよかったな」
老人は研究者である。あり得ないことが現実として起こったのならそれを見逃すなんて後悔以外のなにものでもなかった。
「でも、君がこの場にいたなら死んでいたんじゃないかい?私は君に死なれては困るけどね」
女は老人の横を通り過ぎ、蠅の集る血の海を何でもないように歩く。そうして、水遊びでもするかのように赤い液体を踏みつけ、なにかが嬉しくて笑った。
「ヤイチ、君はすごいね。死なないでくれてうれしいよ」
老人は黙って彼女を見ていたが、深いため息を吐いて彼女に近づいた。
「キゲツ、ここを離れよう。じきに騎士団が我々の痕跡を求めてここへ来る」
キゲツはゆったりとした動作で老人を見るとにこりと笑い、その場を離れた。数時間後、騎士団が調査のためにこの場を訪れたが、『月』の手掛かりは見つからなかった。
魔獣の巣から離れた二人は迎えの馬車を待っていた。見晴らしの良い草原には心地の良い風が吹き、二人の血の匂いも連れ去ってくれそうな気がした。
「あの二人の騎士に試した薬はどうだったんだい?」
キゲツは誘拐した騎士について尋ねた。
「ダメだった。やはり、別の属性を人間の体へ刻み込むのは魔獣ほど楽じゃない。改良が必要だな」
老人は失敗を何とも思っていないようだった。それよりも次を試したいという意思が表情からうかがえた。
「ではもっと強い人を用意するよ。肉体的にも、精神的にも」
「いや、試したい気持ちはあるが、しばらくは別のことに注力するとしよう。お前さんもそろそろ立場を自覚したほうがいい」
そんな会話をしていると迎えの馬車が到着した。老人はさっさと馬車に乗り、まだ外にいるキゲツに顔を出した。
キゲツは近寄るだけで馬車には乗らなかった。
「自覚はしているさ。だからこそ世の中を知っておこうと思ってね。でも、忠告として受け取っておくよ。ほどほどにする」
老人はふん、と鼻を鳴らすと御者に合図し、馬車はその場を離れていった。
「さて、ハートに戻るとしよう」
日が高くなり、キゲツは汗が頬を伝うのを感じた。日傘を差し、太陽から自分を隠す。
「やれやれ、太陽が元気な時は私もはしゃぎたいんだがねぇ」
文句を言いながら、キゲツはハートへと向かった。
ハートの街は今日も活気に満ち満ちていた。人の渋滞を目の当たりにして、キゲツは少し気分を悪くした。
「んん、やはり人ごみは苦手だね。たい焼きでも買おうと思っていたが仕方ない」
中心街から逸れ、緑の多い地域へと足を運んだ。公園、噴水、建物にさえぎられることのない風、それらはキゲツを癒したようで、気分が良くなったように感じた。
「おやおやキゲツ様、こんな場所でお会いするとは。珍しいですね」
ターバンを巻いた男が親し気に声をかけてきた。キゲツはそちらに振り向き、困ったように笑う。
「あまり大きな声で名前を呼ばないでくれ。驚いてしまうじゃないかスノウ」
スノウと呼ばれた男は「失礼」と小さく頭を下げると、手に持っていた袋から何かを取り出した。
「キゲツ様、人ごみは嫌いでしょう?」
スノウが取り出したのはたい焼きであった。キゲツは目を輝かせ、それを受け取る。そして、日傘をスノウに渡すとたい焼きに集中したのだった。
「まだ温かい。君、私がここにいることを知っていたのかい?」
「まさか。偶然ですよ。この街に来たのも私個人の目的ですので」
キゲツは半分に割ったたい焼きを頬張り、口をもごもごさせながら「もふへひ(目的)?」と聞いた。
「ああ、食べながら喋らないでください。私、ヌスで酷いやられ方をしましてね。その元凶がこの街にいるという情報を掴みまして、探しているのですよ」
「ヌス…、恨んでいるのかい?」
「もちろんですとも。名乗ってすらいただけなかったので」
「ふふ、釣れない人だったみたいだね。スノウの好きにしたらいいさ」
キゲツはたい焼きを食べ終え、指に付いているたい焼きのカスを舐めとると、スノウへ手のひらを差し出す。
「えっと、なんの手でしょうか?」
「何って、たい焼き。もう一個あるのだろう?」
「…これ、私の分なんですが」
「ふふ、従わされたいのかい?」
「はあ、こんなことに月の力を使わないでください」
観念したようにたい焼きを渡すスノウ。笑顔でそれを受け取るキゲツは今度はたい焼きの頭からかぶりついた。
ゆっくり咀嚼し、名残惜しそうに飲み込んだ彼女は何かを思い出して恍惚とした表情を浮かべる。
「そういえば、この街でいい子たちに出会えたんだ。月の力も使ってみたんだけどね、このたい焼きの中身みたいに甘くて素敵だった。みんなこうならよかったのにねぇ」
「キゲツ様、顔がだらしないですよ」
指摘されたキゲツはたい焼きを前に出して、顔を隠そうとする。
「すまない。嬉しくてついね」
「それを食べ終えたら私は行きますので、あなたもたまには帰ってきてください」
キゲツは答えず、たい焼きを頬張っている。スノウはそれ以上は何も言わず、黙って傘を持っていた。
二個目のたい焼きを食べ終え満足したキゲツは、スノウから傘を受け取った。
「近いうちに一度帰るさ。スノウのほうが早かったらみんなに言っておいてくれてもいいぞ」
それだけ言ってキゲツは向こうに歩き出していった。スノウは追いかけることも引き留めることもなく、その背中を眺めていた。
「うちの主は自由すぎる。困ったものだ」




