第二の人生
「大野尚也くん、だったね。もう覚悟しているとは思うが、我が球団は、来期以降の君との契約を打ち切る」
「は?」
寝耳に水だった。
ソファに尊大な態度で腰かける老人を前に、俺はきょとんして聞き返した。
「ん? 何を驚いているのだね? 首脳陣が事前に話しているはずだが」
そんな話はまったくされた覚えがない。いや、八月ごろだかに二軍投手コーチの羽鳥さんに呼ばれ、「覚悟はしておけ」なんて釘を刺されたような気もする。しかし、あれは毎年のように忠告される「今年が最後のつもりで……」みたいなやつだと思っていた。
「い、いやオーナー、そんなすぐ首だなんて……」
「三年間一度も、登板はおろか一軍に上がってすらいない。さして知名度があるわけでもない。そんな選手に給料を出し続け、設備を消耗させるつもりはない」
「でも、俺まだ二十一歳ですけど……」
「三年も待った。将来性があるならまだしも、スタッフからは伸びしろは少ないと言われている。それに君も若い方が、第二の人生を探しやすかろう」
「で、ですが……」
何とか食い下がろうとすると、オーナーはスッと立ち上がり壁の額縁に目を向けた。入っているのは球団のシンボルマークである。
「それ以上の交渉は受け付けん。すまんが大野くん。こういう世界だ、プロ野球は」
三回目の契約更改。木枯らしの吹く肌寒い季節に俺は、突然自分のいた世界から放り出されたのだった。
球団を追い出され、宿舎も追い出された俺は、千葉の実家に帰ってひたすら電話を待っていた。
トライアウトの結果は悪くなかったと思う。三人の打者と対戦してフォアボールひとつ、他は外野フライに抑えた。たまたま調子がよくなかった中では好成績のはず。何より俺はまだ若い。
目をかけてくれる球団はどこかにあるはずだと思うのだが、万年Bクラスの弱小球団はおろか、そこいらの独立リーグからすら連絡がないまま、一週間が過ぎた。
なまじ人気球団なんかに入ってしまったのがいけなかった。
高卒後、俺はドラフト六位でプロの世界に足を踏み入れた。全国的にはまったく知名度なんてないだろうけど、高校のころの俺は間違いなく地元のヒーローだった。
甲子園には出られなかったけど、近所の公立校を予選の決勝まで導いたのは、間違いなく俺だった。百五十キロ近いボールを投げたこともあったし、ホームランだってそれなりに打っていた。あのときは、一人で野球していると思っていた。
スカウトの人とは数回話をした程度だった。試合や練習は何度も見てくれたらしいけど、三回目ぐらいのときに、指名するつもりだと告げられた。「盛大なドッキリなんじゃないか」という気持ちと、「俺なら当然だろう」という半信半疑は、ついにラジオで名前が呼ばれるまで、晴れなかった。
会見のときに渡されたユニフォームの背番号は「22」だった。ずいぶん若い番号で「期待されている!」と舞い上がったものだが、直後に「撮影用です」と言われ、落胆したのを覚えている。
真面目な優等生だった、といえば嘘になる。とはいえ、プロ野球選手なら誰だってこんなものだと思う。
プロの練習は、高校のときに比べればはるかに楽だった。一軍の練習は参加したことがないからわからないが、だいたい二軍と似たようなものだと思う。
宿舎の門限が十時で、飲みに行ったり遊びに行ったりしている選手は戻ってくる。しかし律儀に守ってる人なんていなかった。点呼が終われば、またすぐに抜け出して行く。
ほとんどがそんなだから、俺ひとりが特別に不良だったわけではない。がむしゃらにやっている方がかっこ悪いし、実際そんな人は少なかったと思う。実力だって、周りにそれほど劣っていたとは思えなかった。
たぶん俺の唯一の問題点は、運がなかったことなのだろう。チャンスがなかったのだ。
俺が二軍の試合に登板したのは、三年目になってから、それも三回だけだった。六月に二回と、八月末に一回。合計で八イニング投げて、無失点。しかしそれ以降、登板機会はなくなった。
人気球団は有名な選手が多い。昨シーズンの二軍にも、調整命令の出ている主力投手がたくさんいた。実績のある彼らと比べれば、優先順位は低かったのだろう。
机の上の携帯電話が鳴った。「来た」と思った俺は、意気揚々と電話をとった。
「もしもし、大野尚也さんですか?」
「は、はい」
「二軍投手コーチの羽鳥です」
「何だ、コーチですか……」
名前を聞いた瞬間に、全身の筋肉が緩んだ。これほどがっかりしたのも入団会見のとき以来である。
「何だとは何だ」
「いえ、特には……」
「まあいい。それで、どこかから連絡はあったか?」
「まだ、どこも……」
「そうか」
羽鳥コーチは、「やっぱりな」とでも言いたげな平坦な声で言った。
「次のこと、考えてるのか?」
「それは……」
考えていない。どこか取ってくれるだろうと思っていたし、就職なんて微塵も頭になかった。だいたい、小さいころから野球しかしてこなかった。勉強なんてしようと思ったこともないし、ずっと限られた中で生活していたから、コミュニケーション能力なんて皆無。社会に溶け込める気がしない。
羽鳥コーチはひとつ溜息をついた。
「バッティングピッチャーの枠が一つ空いた。お前ひとりくらいならねじ込めるぞ」
「バッティングピッチャー、ですか」
「嫌か?」
「嫌、というか……」
「一週間待って連絡が来なければ、もう望みは薄い。それにお前、就職活動なんてできんだろ。バッティングピッチャーとして第二の人生を送るのも、悪くはないはずだ」
「もう少し待たせてください」
「……こっちだって早く欠員を補充しなきゃいけないんだ。連絡、待ってるぞ」
そう言って、羽鳥コーチは電話を切った。俺はしばらくスピーカーを耳に当てたまま、立ちすくんでいた。
「何やってるんだろう、俺……」
十二月の始め、俺は東京のチェーン居酒屋の座敷に一人座っていた。
季節柄早めのクリスマスの装飾などもいくらか見え、スーツを着た社会人カップルの姿もちらほらと見えるが、待ち人は彼女だとか、そんな気の利いたものじゃない。もっとむさくるしい、まだ見ぬおっさんたちである。
「おっと、君が大野くんだな? あ、とりあえずビール。五つね」
テーブルに片肘ついてボーっとしていると、低いおっさんの声が聞こえた。見上げると、中年のおっさんの群れがガハガハと笑いながら、ドカドカ同じテーブルに座ってきた。つまりこいつらが俺の待ち人である。
「あ、はい。大野です」
俺は適当に挨拶しながら、おっさんたちの顔をぐるりと見回す。細部は違えど、みんな似たようなもんだった。緊張感のない緩み切った表情に、怠惰でたるみ切った下腹。
ひと目見た瞬間に「終わっている」と思った。
そして同時に、そんな彼らと同じところまで落ちた自分も「終わっている」のだと気づいて、落ち込んだ。
羽鳥コーチに電話をもらってから、きっかり一週間でバッティングピッチャーを引き受けた。結構ギリギリだったらしく、ねじ込むのに苦労をかけてしまったらしい。
何はともあれ、これで俺は正式に、名実ともにプロ野球選手でなくなってしまった。
「俺は柴崎だ。柴崎正雄」
最初に俺に声をかけたおっさんが、ヘラヘラ笑いながら名乗った。
「この中では一番の年長だな。高卒から入って三年目の更改でバッティングピッチャーになったから、キャリアも一番長い」
三年目の契約更改。俺と同じである。もしかしたら柴崎も、俺と同じくチャンスがなかったのかもしれない。
「何かあったら、遠慮なく聞いてくれ」
「よろしくお願いします」
無理に笑顔を作るのは苦手である。俺は真顔のまま、小さく会釈をした。
他の先輩たちの紹介を聞くと、タイミングよくビールが運ばれてきて、それからは歓迎会とは名ばかりの酒盛りになった。
「新入り! バッティングピッチャーの世界ってのは厳しいぞ!」
などと、たった一杯で酔い始めた先輩が言うのに、「は、はあ」と適当な相槌を打つ。プロ野球選手というのは、何となく酒に強い人が大勢いる印象があるし、実際選手だったころの先輩は軒並み酒豪だったから、こんな人もいたのかと、どうでもいい疑問が浮かんできた。
かくいう俺は、別に酒は嫌いじゃないし、むしろ強い方ではあるのだが、何となく今は飲む気になれなかった。
他の先輩たちもあれやこれやと、バッティングピッチャーの世界の何たるかをゲラゲラ笑いながら教えてくれるのだが、どれもこれも要領を得ない。だいたい敗者の仕事など、聞く気にもなれない。
すべてのおっさんがタバコをふかしながら話していた。プロ野球選手にも愛煙家はいるが、少数である。何よりおっさんたちの出す煙は、勝負の世界に生きるプロの一服とは違う気がした。安居酒屋の天井にどんよりと滞留するそれは、ただ惰性で生きるゾンビの死臭に他ならなかった。
「なあ、ところでうちのチームの河合。この前結婚した嫁さん知ってるか? すげえ美人なんだ」
「ああ! そうそう! 俺もこの前初めて見たんだが、いいおっぱいしてるよなあ! アナウンサーだろ? かー、やっぱスター選手は違うねえ!」
時間が経つと、歓迎会はもはや下世話な話の飛び交う普通の飲み会になってしまった。酒が入れば仕方ないとは思うが、チームメイトの人妻でよくもここまで盛り上がれるものだと、呆れるしかなかった。
「あの、俺はそろそろ……」
どうにもこのノリには加わりたくなくて、俺は現役のころは絶対しなかった途中退席を申し出た。これ以上ここにいると、心までもがこいつらと同じく腐ってしまう。そう思った。
「おいおい、何だよ新入り。お前のための歓迎会だろ。もうちょっと飲もうぜ」
もうこれ歓迎会じゃねえだろ。
「お、俺、明日早いんで……」
全然予定など入っていない。それどころかまだ昼間だが、とにかく早く抜け出したかった。
「大丈夫だって、元プロ野球選手がそんなみみっちいこと言ってんじゃねえよ」
「いや、ほんと俺……」
「ちょうどいい。そろそろお開きにしよう」
たちの悪い酔っぱらいに絡まれ、もういっそ殴っちまおうかと思ったところで、最年長の柴崎が手を叩いた。
「えー、シバさん、早くない?」
「いや、実は俺も明日病院でな。まさか朝まで飲んでそのまま、ってわけにもいかんだろ。一人で抜けるつもりだったが、もう結構、飲んだしな」
「え、病院? ケガしたの?」
「ああ、この間秋季キャンプがあっただろ。そのときに肩がな。まあ、前側の筋肉が痛くなっただけだから大したことないんだが、この年になると一事が万事だからな。ちょっとの痛みでも医者に見てもらうようにしてんだ。おかげで治療費がかさむかさむ」
柴崎は右肩をポンポンと叩きながら、冗談のような苦笑いで答えた。聞きながら、極素朴で、かつ俺にとっては重大な疑問が浮かんだ。俺のこれからの生活に関わる疑問である。
「あれ、治療費って球団から出るんじゃないんですか?」
その瞬間、全員が言葉を失って目を落とした。
コーチの説明によれば、練習によるケガの治療費は球団が負担することになっている。バッティングピッチャーとはいえ球団の職員だし、業務上のケガ、もとい労災であるから当然のことだと思うのだが、なぜか空気は重かった。
「えっと、出ないんですか?」
「いや、出るには出るんだが……」
柴崎は少し答えあぐねると、今度は重苦しそうな苦笑いで口を開いた。
「何ていうか、俺たちはバッティングピッチャーだろ? 勝ち星を上げられるピッチャーじゃないわけだし、それに『バッティングピッチャーでもいっちょまえに肩は壊すんだな』とか言われたらさ。いや、言われたことないし、たぶん言われないんだろうけど。でも、何となく、な。だから黙って自分で出しちまうんだ……」
おっさんたちは同じ表情で、一様に「ははは……」と笑った。
終わっている。
ピッチャーとはもっと気高く、頑強な意思とプライドを持った存在のはずだ。
俺はこれを見て、ようやくこいつらが終わっている理由に気が付いた。
ここにいる彼らは、かつて間違いなくマウンドの中心に立つピッチャーだったはずだ。しかし今の彼らは、ピッチャーであったことを忘れている。プライドも何もかも捨て去り、卑屈に生きるバッティングピッチャーになり下がってしまった。
俺はこうはなるまい。心に固く誓って、ビールをぐいっと飲み干した。
二月。プロ野球界の完全オフが終了し、選手はシーズンのために各々のキャンプ地で練習を開始する。俺も帯同することになり、実質的に初めてバッティングピッチャーとして仕事をすることになった。
「バッティングピッチャーといっても、特別なことはしない。野手とかコーチに呼ばれたら行って投げる。これだけだ」
シートバッティングのケージの後ろで、教育係の柴崎はそれだけ言ったきり押し黙った。たぶん本当にそれ以上の仕事はないのだろう。
「やあシバさん」
しばらく柴崎の隣でボーっと突っ立ていると、横から声がかかった。
「おお、日高くん。久しぶりだなあ。調子はどうだい?」
柴崎がなれなれしく返答した相手を見て、俺は恐れ多くも「ああっ!」という素っ頓狂な声を上げた。背が高くムキムキの筋肉を携えたその人は、チーム不動の四番で球界を代表するスラッガー、日高選手その人だった。
「ボチボチかな。これからシーズンにかけてゆっくり調整していきます。四連覇がかかってますから。ところで、隣の彼は新入りですか?」
「そう、平井くんが脳震盪で倒れちゃったからね。大野くんだ」
「そうだったのか。初めまして、これからよろしく」
「よ、よろしくお願いします」
俺は若干がっかりしながら、会釈をした。
初めましてではない。新人のころに一度だけ、日高さんには飲みに連れて行ってもらっている。そのときにもこうやって自己紹介をして、挨拶をして、「一緒に頑張ろう」と誓った。
とはいえ、その年の新人が全員呼ばれた席だったし。何でも日高さんは毎年その交流をやっているらしいから、覚えてなんかいないのだろう。しかし、あのとき席を共にした同期たちはまだかろうじて選手をやっている。二人は一軍にいるし、そのうち一人はローテーションの一角にいる。
覚えていてくれなかったことよりも、日高さんとの約束を果たせなかった自分に、腹が立った。
「よし、せっかくだ。大野くん、投げてくれないか?」
「は、はい!」
日高さんは俺の返事を聞くと、バッティングケージに入っていった。俺も付いていって、正面のマウンドに登る。ピッチャーライナーを防護するネットが立っている後ろに行き、グローブをはめて籠からボールを取り出す。
当然のことだが、俺は日高さんと対戦したことがない。同じチームだし、練習相手にもなったことがない。
だいたい現役のころはろくなバッターと対戦した記憶がない。二軍の試合は三回しか登板してないから、ケガ明けの一軍選手と戦うこともなかった。
練習ではあまりバッター相手に投げなかった。ほとんどがランニングの時間で、ピッチング練習と言えば投げ込みかタオル。ピッチャーによっては自分からバッティングピッチャーを引き受ける人もいたが、俺は自分から声をかけるようなことはしなかった。
だからこういった一流の打者と戦う機会は、本当に久しぶりだった。
「行きまーす」
とりあえず適当な挨拶をして、ピッチングに入った。投げるのはもちろん、一番自信のあるボール。まっすぐである。
悪い球じゃなかったと思う。しかしキャッチャーに向けてまっすぐ進んでいたボールは、ミットに入る前に反対方向に飛んで行った。
さすがは日高さんである。あれだけ気持ちよく打たれたという経験も久しぶりだ。
そんな調子で投げていると、五球目か六球目で日高さんが手のひらを見せてストップをかけた。もう次のボールを準備していた俺は、なんだか気勢をそがれたような感覚がした。
「うーん。なんか違うんだようなあ。なんか」
日高さんはそう言って首をかしげると、「君、もういいよ。ありがとう」といって、俺を追い出した。何がなんだかわからなかった俺は、「あ、ああ。はい、ありがとうございました」などというようなことを言って、ほぼ無意識のうちにマウンドを降りた。日高さんは俺の方には見向きもせず「おーい、シバさん。次俺に投げてくださいよ」と、隣のマウンドの柴崎に言っていた。
俺はまたケージの後ろに立って、日高さんの言葉を考えた。違うって、何が違うのだろうか。そこが違うから俺は首になったのだろうか。
ケージの中では柴崎が日高さんに向かってボールを投げている。何球も何球も。何球も打たれていた。柴崎のボールは違わないのだろうか。
同じように打たれているのに、柴崎のボールと俺のボールはどこが違うのだろうか。いや、違うといえば違うだろう。俺の方がよっぽどいい球を投げていた。
ぐるぐると頭の中で考えていると、中年の男が近付いてきた。
「おい、そこのバッティングピッチャー」
この人は打撃コーチの瀬川さんである。
「暇ならこいつに投げてやってくれ」
瀬川コーチはそういって、傍らの選手の肩をつかんだ。こいつはたしか、去年の甲子園でホームランを量産した伊藤である。ドラフト一位入団のスター候補生だ。体はデカいが、テレビで見た印象とはずいぶん違って、伊藤は借りてきた猫のようにあたりをキョロキョロしている。
「わかりました」
俺はそれだけ言うと、マウンドに向かった。伊藤はコーチに促されて、これから病院に連れてかれるペットみたいに辺りを警戒しながらケージに入った。
俺はかごからボールを取り出すと、緊張した面持ちでバットを構える伊藤にボールを投げる。伊藤はビクッと反応すると、明らかに振り遅れの空振りをした。
「どうだ、伊藤。高校生の球とは違うだろ」
「す、すげえっす」
瀬川コーチと伊藤のそんな会話が聞こえた。なんだか初めて認めてもらえたような気がして、しかしそんな感情を表に出すのはキャラじゃないので、俺は当然といったような涼しい顔で次のボールを取り出した。今日の俺は調子がいい。たとえばこのまま瀬川コーチに認めてもらえば、現役復帰も夢ではないかもしれない。
俺は気分がよくなって夢中で投げた。伊藤は俺のボールに対応できずに空振りを続ける。くそみたいなボール球だって振るんだから、よっぽど伸びているに違いない。
五球くらい投げたところで、瀬川コーチが割って入ってきた。あまりに期待外れの伊藤に何か指導でもするのだろう。俺はまたしても気勢をそがれてしまった。
「おいおい。お前、何やってんだ!」
しかし、瀬川コーチが向かってきたのは俺のほうだった。
「ふざけてんのか! あんな球投げやがって!」
瀬川コーチは大声でまくしたてるが、一球も当たってすらいないんだから、悪い球は一球もなかったはずである。怒られる理由が皆目見当のつかない俺は、きょとんとして立ち尽くした。
「あ、あんな球って、どれですか?」
「全部だ、全部!」
「で、でも、高校生の球とは違うって……」
「当たり前だ! お前高校生じゃないだろ! 本気で抑えにいきゃ打てなくて当然なんだよ! 何本気で抑えに行ってるんだ!」
抑えて怒られるなんて、意味がわからなかった。頭が真っ白になった俺は、普段コーチに口答えなんてしないのに、つい口が滑ってしまった。
「本気で抑えに行くのがピッチャーです」
「お前はバッティングピッチャーだろうが!」
ハンマーで殴られたように、電気ショックが頭を走った。バッターを討ち取るために投げるのがピッチャーである。俺はかつて、一度だって打たれるために投げたことはない。一度だって、打たれようと思って打たれたことはない。
「もういい。もっとマシなバッティングピッチャーはいないのか! そうだ、柴崎に相手をさせよう」
コーチは言いながら、伊藤を連れてどこかへ行ってしまった。
俺はマウンドに立ち尽くし、自分の右手に目を落とす。豆のつぶれた跡が痛々しく残っている。それはまさしく勲章であった。バッターを抑えるために投げ続けた、ピッチャーのプライドの勲章である。
そのプライドが今、目の前で罵倒されたのだった。
携帯電話のバイブで目が覚めた。俺はソファから起き上がると、ぼりぼりと頭をかいた。
バッティングピッチャーの仕事は、あの一回で辞めた。いや、手続きはしてないから正確には退職してないかもしれないが、途中で帰ってそれから来ないんじゃ、向こうだって正式に辞めたもんだと思っているだろう。
その日のうちに、こうして実家に帰ってきたのである。仕事をしようとは思っている。ただ今は、何のやる気も起きなかった。
表示された電話番号は、知らない番号だった。俺は通話ボタンを押して、スピーカーを耳に当てた。
「もしもし。大野さんの電話ですか?」
どこかで聞いたことのある声のようだが、心当たりはなかった。
「はい。そうですけど」
「柴崎です」
名前を聞いて、俺は心臓が止まったような気がした。
「羽鳥コーチから電話番号を聞いたんだけど、よかった。合ってて」
何を言えばいいのかわからなかった。なぜ電話をかけて来たのだろうか。怒っている様子はないから、やんわりと連れ戻そうとしているのか。
「あ、あの、俺……」
「大野君、今出れるか?」
とりあえず無断で辞めたことだけでも謝ろうとすると、柴崎の言葉に遮られた。
「い、今ですか? 出れますけど、千葉の実家にいるので……」
「車で迎えに行くよ。ちょっと一緒に飲もう」
「それは……」
「もちろん俺が驕る。どうだ一杯」
「わ、かりました……」
本当は断りたかった。しかしどういうわけか、俺はいつの間にか待ち合わせ場所を告げていた。
待ち合わせ場所の駅に柴崎がやって来たのは午後八時。それから二人で無言のまま近くのチェーン居酒屋に入り、とりあえずのビールで乾杯をした。
俺は一口でジョッキを空にした。味はわからなかった。
柴崎は何もしゃべらなかった。一口目だけ豪快に流し込むと、次からは適当な肴をつまみながらチビチビと呑んでいた。
俺は居心地が悪くて、まずいのにバカバカとビールを流し込んだ。しかし呑めども呑めども一向に酔えない。酔っぱらって死んじまった方がよっぽど楽なのに、この一瞬が、時が止まったようにじっくりと遅い。まるで水責めの拷問を受けているように、ビールを流す手が止まらなかった。
何杯目だろうか。数えてはいないが、たぶん人生で最も呑んだころ。ようやく二杯目のジョッキを空にした柴崎が、くつろぐように天井を見上げた。
「大野くん。ちょっと俺の自慢話に付き合ってくれないか?」
「へ?」
予想外の言葉に、俺はやっとジョッキを置いた。
「俺はさ。高校のころすごいピッチャーだったんだ。甲子園には出れなかったけどね。いっつも一回戦で負けるような高校を、結構いいとこまで勝たせたんだんだから、地元じゃヒーローだった」
「は、はあ……」
「周りには謙遜してたけど、プロに入るのだって当然だと思ってた。スカウトさんにその気にさせられたのもあるけど、それだけの実力があるとも思ってた。で、六巡目で指名されたときは心の底から驚いてるんだから、どこか自信なかったんだな」
俺は聞きながら、だんだんと柴崎の声に耳を傾けるようになった。柴崎の思いが、なぜか心に痛いほど響いた。
「プロに入ってからの練習は楽なもんだったよ。高校のころにやってたのなんか比べられない。まあ、野球だけやってればいいんだから、勉強もしなきゃいけない高校のころとは時間の使い方が違うから当然だけどさ。これでいいんなら、プロで飯食っていけると思った。でも、現実は違った。できる奴は、皆ばれないように努力してたんだ。寮の部屋で素振りして、誰もいない風呂場で筋トレしてる」
思い当たる節はいくらでもあった。寮の床はカーペットが敷いてある。しかしそれをめくると畳敷き。部屋で練習すると畳がダメになるからだ。タニマチの食事会で途中退席する奴がいる。失礼なやつだと思っていたが、あれは自主練習のためだった。
チームの練習時間とは、彼らにとっては練習ではなくアピールの時間なのだ。
「慌てたよ。みんなこんなものだと思ってたら違ったんだから。もちろん蹴落とそうとかじゃなくて、何となく気恥ずかしいとか、そんな理由なのはわかってたけど、なんだか裏切られた気分がした。それで、俺も慌てて練習した」
俺もそうだった。一年目のシーズン終盤だったろうか。暗い部屋の中、一人で黙々とシャドーピッチングをした。
「遅かった、な。もう実力差がついてるんだ。プロなんだから、才能はみんなあるんだ。じゃあどこで差がつくかって言ったら努力だよ。俺は最初から十歩くらい出遅れてたんだ」
気づいてからは誰よりも努力したと思う。しかし、最初から努力した奴とは永遠に埋まらない程に距離が開いていた。それにタニマチの食事会は中座できなかったし、やっぱりアピールだって苦手だった。
「それでもまだ挽回できると信じた。いや、信じたかった。わかってたんだよ。もう無理だって。それでも必死にもがいてるうちは、プロにすがれた。そして三年目が終わったとき、クビになった」
柴崎はジョッキを掴むと、三杯目のビールをグイっと呑みほした。俺は柴崎の顔を見れず、ずっと下を向いていた。柴崎は見たくなかった現実の、自分の気持ちの権化だった。
「辞めるとき、オーナーに言われたんだ。第二の人生って。第二のって、厳しいこと言うよな。それってつまり、一度死んだって言われてるんだぜ」
俺は泣いた。野球こそが人生だった。その野球の世界で敗れた俺は、たしかに死んだようなものだ。
「野球には勝ち負けがある。なあ大野くん。俺たちは確かに負けた側の人間だ。野球ばっかやってきて、野球にすべてをささげて、それなのに負けちまった哀れな人間だ」
実にみじめな人生だ。生きる意味を失った人間など、それこそゾンビと同じじゃないか。
「でも、負けちまったって死ぬわけじゃないんだ」
柴崎のその言葉で、俺は再び顔を上げた。
「泣いたって笑ったって人生は一度きり。負けた負けたって言い続けたって、しょうがないだろ。同窓会があると、よく同級生に言われるんだ。バッティングピッチャーなんてやって未練がましいって。反論なんてしないけど、でも、そうじゃないんだ。勝負の世界で負けちまった俺だけど、それでもまだ俺の肩を必要としてくれるなら、それでいいんだ。敗者の美学なんて大層なもんじゃないけど、俺は野球しかしてこなかったからさ」
俺は呆気にとられたように柴崎の顔を見ていた。すると、柴崎は突然笑い出した。
「ふっ。いやあ、すまんすまん。なんだか辛気臭い雰囲気になってしまったな。さあ、気を取り直して呑もう。それ、乾杯だ」
「柴崎さん」
「ん?」
「俺はまだ、そんな風には考えられないです」
野球は人生だった。二十年弱。人間の寿命からすれば大したことないかもしれないけど、その間野球しかしてこなかった俺にとっては、やはり野球は人生だった。
「……そうか」
「でも、あの……。明日から、また練習参加できますか?」
柴崎は二っと笑った。
「ああ」
勝負に負けた俺だけど、一度死んだと思った俺だけど。泣くことばっかの一度しかない人生、ひとまず生き続けてみようと思った。