第13話 筋トレは良いよ~楽しいよぉ~学校の授業で教えるべきだと思うなぁ
イルハム枢機卿。
名実ともにガリア王国で一番偉いお人である。
この世界では国王は偉くない。
アルビオン王は比較的強い君主権力を持つが、まあそれでも所詮国王レベルとも言える。
国王が偉くない、ということは国という組織がまず偉くない、大して重要ではないということになる。
貴族が複数の国王と契約を結ぶことが、倫理的に何の問題もないとされるのがこの世界の道徳である。
この世界には愛国心という概念はなく、また忠義も重要視されない。
では何がもっとも重視されるのか。
それは信仰である。
父なる神、そして預言者イブラヒムの教えを信じることがこの世界、というかこの辺りの地域ではもっとも重要視される。
故に宗教的なリーダーである教会がイブラヒム教世界では絶大な力を持っている。
もし教皇が「うーん、おまえ破門w」と言えばガリア王はすぐにその地位を追われるだろう。
聖界は俗世よりも優先するのだ。
………………
…………
……
というのはまあ、建前上のお話である。
教会、イブラヒム教の教えは確かにこの世界のイブラヒム教信徒たちの心を精神的に支配している。
だがそれだけではない。
教会は聖界を支配しているが、まあ同時に俗世をも支配しているのだ。
まず教会は大変、官僚的、システマチックな組織を持っている。
聖職者たちは上から、教皇、枢機卿、大司教、司教、司祭、助祭、その他下っ端という明確な階級によって上下関係が決められている。
貴族の爵位序列が定食メニューの漬物くらいの重要度なのに対し、聖職者の階級は絶対である。
つまりこの世界の俗世の表向き支配者である貴族たちがてんでバラバラなのに対し、聖職者たちは教皇を頂点とする一枚のピラミッドを構築しているのだ。
さらにこの世界の聖職者はみなインテリであり、知識人だ。
これが意味することは、つまり聖職者はみな、字の読み書き計算ができるということが。
何がスゴイって?
いや、これほど凄いことはない。
聞いて驚くなかれ、この世界の諸侯・騎士の三分の二は字の読み書き計算ができない。
平民であるならば、尚更だ。
つまりお貴族様は自力で税金を集めることはできないのである。
故にお貴族様は自分の領の税金を、聖職者に集めて貰っている。
教会は『十分の一税』という税金を集めているのだが、それを集めるついでにお貴族様は自分の領の税金も集めて貰うのだ。
当然、見返りに税収の二、三割を持っていかれてしまうが文句は言えない。
だって自分で集められないんだから。
そして教会は自前の常備軍すらも保有している。
国王や諸侯が、封建契約という不安定な軍事力しか持っていないのにも関わらず、である。
さらにそれに加えて……
教会は医学知識を実質、独占している。病気になったら聖職者を頼るしかない。
そしてこの世界の法律は全て、予言者イブラヒムのお言葉が元になっているので……
法律を作ったり、運用するのも聖職者だ。
最近は銀行まで運営している。
聖職者という職業は、日本で言うなれば……
医者、科学者、大学教授、弁護士、検事、裁判官、銀行員、官僚、公安警察、政治家を全てまとめた職業とも言える。
故に誰もが聖職者の言うことは信用する。
聖職者が「さんまが身が裂けやすいからサケっていう名前になったんだよ」とでも言えばこの世界の無学な平民は「へー、そうなんだ」と納得するだろう。
そして私も聖職者のことはかなり尊敬している。
というと、何だか私が大変敬虔なイブラヒム教信者みたいだが、別にイブラヒム教信者だから尊敬しているわけではない。
まあでもイブラヒム教信者であることは否定しない。
私は元々無神論者ではなく、有神論者である。
前世では仏教徒だったし、もし仮にキリスト教が優勢なところで生まれてれば日曜日に教会にお祈りに行っただろうし、イスラム教が優勢なところでは決められた時間にメッカの方角に祈りを捧げただろう。
そしてインドで生まれていれば牛肉を食べなかっただろう。
私はそういう類の人間だ。
まあ話を戻すが、私が聖職者のことを尊敬しているのは彼らがインテリだからだ。
実はこの世界の聖職者には、どんな身分の人間でもなれる。
試験に合格すれば、だけれど。
その試験というのがとんでもなく難しいらしい。
その難しい試験を努力して潜り抜けてきたのが聖職者なのだ。
まあ確かに大きな特権を持ってはいるが、特権を得るに値する努力はしている。
ディアーヌ奥様のような、生まれてこの方努力の「ど」の字もしたことが無く、さらに能力もないのに貴族の生まれというだけで、分不相応な富や特権を持っている人間よりは、遥かに尊敬できるのは当たり前だろう。
そう言えば、最近ガリア王国出身の十二歳の女の子が第四試験までを首席合格したとか。
まず十二歳で合格したのが最年少記録ということもあり、ルテティアでは本人の出身地でも何でもないのにお祭り騒ぎになっていた。
まあガリア王国出身の教皇が将来、誕生するかもしれないわけだから気持ちは分からないでもない。
さすがに私は、見たことも聞いたこともない女の子の合格に対して、お祭り騒ぎをするほどは祝えないけれど。
名前は、何だったかな……
セロリだか、セリだか、ナズナみたいな名前だった気がする。
そんなことを考えつつ、私はイルハム枢機卿の部屋のドアをノックした。
「失礼します、入っても宜しいでしょうか?」
「うん? 少し、待ってください」
部屋の中で何かを片付ける音が聞こえた。
しばらくしてからドアが開く。
「どうぞ、入ってくれ」
二十代後半ほどに見える男性がドアを開けて、私に対して微笑んだ。
真紅の礼装を身に着けているが、慌てて着た感があり少し崩れている。
顔は我が伯父、ロリコン伯父様に匹敵する程度にイケメン。
体はがっしりしていて、筋肉質。
肌の色が少し浅黒いため、ガリア出身ではないことは一目で分かる。
噂に聞く限りだと、ロリコン伯父様とセットでガリア王立学園の二大イケメンだとか。
ミーハーなルイーズ姫殿下やアナベラお嬢様は「キャーキャー」騒いでいた。
私はイルハム枢機卿に軽く頭を下げて、部屋の中に入る。
すると少し、汗臭い、甘酸っぱい臭いが鼻につく。
「おお……」
なんと筋トレグッズがたくさんあった。
王立学園二大イケメンの一人は、なんと筋トレマニアだったようだ。
なるほど、さっきまで筋トレしてたのね。
良いなぁ……私も使いたい。
「君は……メイドさん? 名前と用件を伺っても宜しいかな?」
「シャルロットと申します、猊下。ロラン・ド・モンモランシ伯からの申しつけにより、鍵を返しに参りました」
「シャルロット? シャルロット……シャルロット……」
私の名前を連呼しながら、イルハム枢機卿は鍵を受け取る。
そして私の頭に乗っているブーメランを見て、ポンと手を打った。
「シャルロット・カリーヌ・ド・モンモランシ・ド・ラ・アリエ殿か?」
「はい、確かに私の本名はそう言う名前ですね」
「これはモンモランシ選教侯、あなたも人が悪い。最初からそう名乗ってくれたら良かったものを……」
少しだけイルハム枢機卿の対応が変わった。
どうやら歓迎してくれるらしく、ソファーを勧められる。
イルハム枢機卿は戸棚から、紫色の液体の入った瓶を取り出した。
どう見ても葡萄酒だ。
「あー、私はまだ成人していないので……」
「葡萄酒ではなく、葡萄ジュースです。……私も昼間からお酒を飲むほど、落ちぶれた坊主じゃありませんよ」
ニヤッとイルハム枢機卿は笑って、ワイングラスに葡萄ジュース(?)を注いだ。
私は少しだけ飲んで……
「本当に葡萄ジュースですね。とても美味しい……ああ、それと、私のことはシャルロットと。敬語も使わなくて結構です。また未成年ですし」
「むむ、しかし幼いとはいえ一人の選教侯を……まああなたがそう言うのであれば、この場では砕けた口調で話させて貰おう」
私に対する敬意は変わらず、だが少しだけ自然な口調になった。
多分、この人は同僚に対してフランクな態度で臨むようなタイプだ。
同じ聖職者を相手にした場合、教皇聖下くらいにしか敬語を使っていないんじゃないだろうか?
「ところでモンモランシ伯は?」
「急に風邪を引いてしまったようです」
「それはまた……お大事にと、伝えて欲しい」
まあ引かせたのは私だけどね。
私がそれを言うと、皮肉にしかならない。
「シャルロット君、君の目から見て……この学校の授業はどうかね?」
「つまらない、レベルが低い……という感じですね」
「はは、正直で宜しい。モンモランシの才女にとっては、確かにここの授業はつまらないだろう」
イルハム枢機卿は愉快そうに笑った。
一応あなたが最高責任者をやっている学園なわけだが……まああまりここの運営は乗り気ではないんだろう。
「もし良かったら、ルテティア神学大学に来ないかい? 君なら大歓迎だ。できれば……錬金術の講義もして欲しいくらいだ」
「講義、ですか? 私はまだ十三歳ですよ?」
「モンモランシの錬金術師は生まれながらの錬金術師であると、聞いている。違うのかね?」
なるほど、教会ではそういう説明がされているわけね。
詳細は知らなそうだ。
「……一応聞くが、エリクサーの錬成は?」
「ご心配なく」
私はポケットから試験管を一本、取り出した。
中に真紅の液体が入っている。
「エリクサーです。母から全ての錬金術を受け継いでおります。……ただ、まだ私の〝釜〟は完全とは言い難いので、成人である十五歳まで納入は待って頂きたいです」
私たちモンモランシ家は生産した一割をガリア王に、九割を教会に納めている。
それを見返りに庇護して貰う契約なのだ。
「それは良かった……モンモランシ家が絶えてしまうのは、我々教会としては忍びないのでね」
「そう言って頂けると、ありがたいですね」
私は笑みを浮かべた。
何を隠そう、世界で五番目のイブラヒム教徒は三千年前のモンモランシ家当主だ。
当の預言者イブラヒムご本人から洗礼を授かったのだ。
そして私たちモンモランシ家は迫害を受けていたイブラヒム教徒を助けたりしたし、金銭的な支援や政治的な援護もしてきた。
今はモンモランシ家が守られる立場であるが、昔はモンモランシ家が守っていたのだ。
その返しきれないほどのモンモランシ家への大恩が教会にはある。
……実は預言者イブラヒムが金髪碧眼のボーイッシュな女の子だとか、今の教義とイブラヒムが伝えた教義が微妙に違うとか、教会内部で行われた権力闘争だとか、モンモランシ家が教会の秘密の多くを知っているというのも、教会がモンモランシ家を優遇している理由の一つでもあったりする。
「神学大学、ですか……ここよりはずっと楽しそうですし、是非とも行きたいですね」
「ならば、来ると良い。いつでも待っているよ」
「ふふ……私からの一票を、期待してらっしゃるのですか?」
私はちょっとした悪戯心で聞いてみる。
教皇は教皇選挙によって選出される。
確かイルハム枢機卿は次期教皇の有力候補だったはずだ。
教皇を選出することができる選教権を持つのは、枢機卿及び各国国王、そして選教侯の地位を持つ貴族だけだ。
まあつまり私は貴重な一票を投じる権利を持つ。
選教権を持つという意味合いでは、選教侯と国王は同格と言えるため……私がモンモランシ選教侯だと分かった途端、イルハム枢機卿は腰が低くなったのだ。
「いやいや、私はこれ以上出世するつもりはないし、できないよ」
「おや、そうなのですか?」
「まあ、今の地位が一番気楽だからね」
確かに教皇になったらいろいろと遊べないかもしれない。
この人は女性関係の乱れた噂をよく聞くし、あながち嘘でもないんだろう。
「ところで猊下、その、お一つ頼みたいことがあるのですが……」
「何だね? 大学への転入のことかな?」
「いえ、そちらは後でじっくり考えさせて頂きます。……そうではなくてですね、その、筋トレ器具を貸して頂けませんか?」
「?」
イルハム枢機卿の目が点になった。