03
――過去に彼女は、現実での身体の大半を、失ってしまった。
ただ、脳から心臓、延髄などの身体部分は残っており、かろうじて生命を生きながらえていた。
そんな彼女と家族に、ある計画が持ちかけられた。
その身を機械と接続することにより、肉体を医療的に保護しながら、意識領域を電子デバイス上に接続させる。
接続された電子デバイスの力により、彼女の意識は、中間となる仮想世界のなかで外部との接触を可能にする。
家族の希望で、彼女の身体を模した、接続デバイスが造られた。
彼女だったものは、彼女の身体によく似た機械に補強され、生命活動を続けている。
その姿は、人形のようにも見えたし、でも、眠っているだけのようにも想えた。
ただし、そのままでは会話をすることもできない。
なぜなら彼女には、人間としての発声器官や肉体が、もう存在していないのだから。
彼女の意識のなかへ、潜り込む必要があった。
用意されたのが、意識を一時的にデータへと変換し、接触を行うデバイスだった。
そのデバイスは、手と手を介して行われる。
実にアナログな、接触コミュニケーションの形を取っていた。
僕を含めた、彼女を知る人々。
みんなは、いつも、彼女の硬い手を握る。
彼女を模した、彼女でない、冷たい機械の腕を。
潜り込んだ世界で、いつも僕は手を握ったまま、彼女と話す。
そこから感じる温もりは、この仮想世界では、昔のまま。あの、暑い夏の日のままだと……錯覚、できる。
――なぜならここは、彼女の見る、夢の世界なのだから。
「久しぶり、ってさ」
「ん?」
「久しぶりって、言ってくれたから。けっこう、時間が経ったのかなって」
「……そうだね。前よりは少しばかり、時間が経ったかもね」
「年をとると、時間の流れが速いっていうもんね~。それかな?」
「そうだね。確かに、早くなった気がするよ」
「わたしは、ずっと同じように感じるけれどね」
夢の世界は、変動しない。
彼女の意識は、具体的な形となって、まとまっていることはない。
こうして僕が手をつないで会話をしている光景も、幻だ。
僕が彼女の意識とリンクしやすいように編まれている、舞台にすぎない。
これは、技術的なものと、彼女の心象風景が混じっているらしいが……詳しいことは、僕には理解できなかった。
――今の状態は、羊水のなかに近いのではないか。
そう、医師が言っていたのを聞かされたことがある。
いつか生まれる胎児のように、彼女は、いつか目覚める夢を見ているのかもしれない。
……それが、生きているのかと言われれば、賛否を問われる事態なのかもしれない。
実際、彼女の存在と倫理を問う議論も、盛り上がっていたと聞く。
でも、僕にとって彼女は、あの日のままで生き続けていてくれた。
彼女は夢のなかで、僕との再会を喜んでくれた。
そして僕も、彼女との会話を、拠り所としていた。
「今でも、信じられないよ。だって、わたしはまだ、みんなが言うあの日から進んでいる気がしないんだもの」
彼女は、朗らかにそう言う。その内心の真実は、推し量るしかないのだけれど。
――あの頃より、手をつなぐほどに距離を縮めたはずなのに。
僕は、心の中の言葉を告げることができなかった。
「その、どんな感じなんだ? この、手をつないでいない時っていうのは」
代わりに口から出てくるのは、彼女の話を聞くための、話題づくり。
彼女も付き合いがいいから、それに乗ってくれる。乗ってくれるのを、僕は知っている。
「その話題、前にも言ったよ~。忘れちゃったの?」
「年をとると、忘れっぽくなってね」
「まだまだ若いでしょ」
「……どうかな」
僕は苦笑いしながら、そう言う。直裁的な言葉は避けたけれど、若いと言いきれる精神的余裕もなかった。
「キミは……もしかして」
彼女のためらうような言葉に、僕は彼女の顔を見て声をかける。
「どう、したの?」
「ううん、なんでもないよ」
でも、その彼女の顔は、いつもの彼女の顔と少しだけ違っていた。
物憂げな、あの頃の君が浮かべることのなかった、渋い表情。
「なんでもないって、本当に?」
つい、問いつめるような口調になった僕。
「……独りぼっちって、わたしにはわからなかったんだけれど」
けれど彼女は、僕の質問を無視して、違う話を始めた。
「独りぼっち? どういう意味だい」
「どんな感じかって、聞かれたから。ここに独りで、いるってこと」
彼女は、空を見上げながら、口を開く。
ここでも、あの頃でも、昔ではない、虚ろな瞳で。
「あの頃はね、誰かとずっと話していたから。独りになることなんて、なかったのね」
「あの頃?」
「本当の、この風景。キミといた、あの景色よ」
「……僕は、手なんて、つなげなかったよ」
眩しい彼女の瞳に、僕は、そんなことを言ってしまう。
「そうだね。あの頃は、ただこの場所を一緒に歩いているだけだった」
だから、独りじゃなかったの――そう言う彼女に、僕はやや搾った声で言う。
「誰だって、完全な独りになんて……なれないよ」
そこまで言って、僕は口を閉ざす。
――彼女の姿に、惑わされているんだと、想い出したからだ。
「ありがとう。でも、そうね。キミは、今も来てくれるものね」
「……ごめん」
「ううん。でも、その独りって感覚……ずっと、あるのね」
すっと、彼女は空いている手を空へとかざす。
「なんて言えばいいのかな。――そう、適切か、わからないけれど」
広げた手の平を、空と平行になるようにして、左右に往復させる。
「壁、かな」
「壁……かい?」
「わたしは自分の部屋に、一人で横たわっている。不思議と身体は動かない。誰も家にはいない。
なのに、窓一枚の外側からは、ずっと、幸せそうな笑い声が聞こえてくるの」
「それが……壁? でも、声は聞こえているんだろう」
独りじゃないはずだ……そう、言ったつもりだったのに。
「でも、声は聞こえるだけなんだよ?」
僕は、想い当たる。これは彼女と外部との、繋がり方の話なんだと。
語りかける手段は、いつも外側からだ。
彼女が自発的に呼びかけることは、外部からの制御機器なしには、できないのだ。
「だからわたしは――じっと、ただ、存在するようにしていたの」
かざしていた手を、肩に寄せて、彼女は自分の身体を包む。
「わたしのことは……誰も、必要としていない。そう、覚悟してね」
「そんなことはない」
間髪入れず、僕は否定した。
強い語気だったが、彼女は怒るでもなく、淡々と言葉をつなげてきた。
「わかってる。でも、そう想わないと……いけなかったの」
「いけなかった……なぜ?」
「ぼんやりとだけれど、ずっと、色々な人が訪ねてきてくれる。でも……わたしには、その確証がなかった」
そこまで聞いて、僕は、彼女がいつの話をしているのかに気づいた。
――これは、過去の話だ。
彼女が未だ、精神となってしまった現実を受け入れられず、誰ともうまくコミュニケーションができなかった頃。
僕は、当時を想い出しながら、彼女の言葉を引き出すようにする。
「手をつなぐのは、君が提案したんだよね」
「そうそう、ずいぶん昔のことだけど……」
ぎゅっと、僕の手を握りしめて、嬉しそうな笑顔を浮かべる彼女。
「……あれ?」
けれど、その笑みは一瞬、固まってしまう。
「どう、した?」
さりげなく、自然に、硬くならないように。
僕は、彼女に心配の声をかける。
ううん、と彼女は頭を振って、大丈夫と答える。
振り払うように手を動かしながら、僕の心配を和らげるためか、可笑しそうに笑う。
「おかしいよね。だって、こうして手を握るようになってから、まだそんなに経ってないのに」
「……そうだね」
ただ、頷いて、肯定する。
「だから僕は、君の知る姿のままでいられる」
「そうだよねぇ。だから、早く恋人を見つけて、ノロケ話に期待しちゃうよ~」
――明るく笑う彼女は、先ほど僕が投げかけた、想い人の話を"遺している"のだろうか。