02
「……?」
眼を開くと、暑い陽光が空から降り注いでくる。
おぼつかない視線で周囲を見れば、緑色の木々達と、耳に響くセミの鳴き声。
噴水からわき出す水の色が、照らされて輝いている。
夏の景色が、そこには広がっていた。
僕もまた、気だるい暑さを身体に覚えるような感覚で、身体を動かす。
それが錯覚だとわかっていても、彼女のなかにある過去の風景は、とても鮮明で生々しいものだったからだ。
ベンチに腰掛けた身体を想像しながら、左手の感触に気づく。
僕の身体のイメージ、その左手に、触れているものがある。
「今日も暑いねぇ」
横からかかる、声。やや高く、幼い甘さを残す、女性の声。
声の主はわかっているので、ゆっくりと、そちらへ振り向く。
「そうだね。雲一つない快晴だし、君も暑そうだ」
予想していたとおりの人影に、僕は安心して口を開く。
視線の先には、一人の少女が座っていた。
夏服らしい半袖のブラウスに袖を通し、膝丈までのスカートで細い身体を彩っている。
やや暑く見えるのではないかと想える姿は、けれど、着崩れた様子のない清楚な印象を与える。
その中で、ややカールがかったミディアムの髪型が、愛らしさを付け加えている。
茶目っ気を含んだような大きな瞳が、僕をじっと見つめている。
「どうか、した?」
耐えきれず、僕は聞き返してしまう。ふふっ、と軽く笑いながら、彼女はつないだ右手に力を込める。
ぎゅっと握りしめられたように、僕の身体は反応する。
「想えば、大胆なことをしているよね」
「大胆って、なにがだい?」
「触れあわないと話せないって、恥ずかしいなって」
照れるような彼女の顔に、僕はうつむく。
――想えば当時は、彼女と手をつなぐだなんて、考えたこともなかった。
もう何十回と繰り返した行為なのに、未だに気恥ずかしさを覚える。
「……久しぶり。元気だったかい」
胸中のくすぐったさを隠すために、自然なフリを装って、僕は声をかける。
若く張りのある声が、二人の間に響く。
「もちろんよ! わたしから元気をとったら、いったいなにが残るの?」
軽快に笑う彼女の様子に、僕もつられて微笑む。
――気恥ずかしいのは、彼女と会う時の、僕自身のイメージのせいか。
まだ、彼女とともに歩いていた頃の姿を、まとっているがゆえなんだろうか。
「君は、変わらないな」
「キミが変わっているんだよ~」
「どうだろう、そう見える?」
「見える見える。いつも会う度、眉間のシワが増えていっているね」
眉の上に指を掲げ、おどけたようにそう言う彼女。
「会う姿は、変わっていないはずなんだけれど」
「人ってさ、顔に年齢が出るって言うじゃない?
同じ顔でも、心の顔って言うのが、もしかしたらあるのかもしれないよ」
「嬉しくないな、なんでも見抜かれてしまうことになる」
「だから、わたしから元気をとったら、なにも残らなくなるのよ。心だけ、なんだもん」
彼女から不意に出た言葉に、僕は表情を硬くしたのだろう。
「ごめんね」
申し訳なさそうに、左手で髪をいじる彼女。
その仕草に、僕は口を開く。
「今日は、どんな話を聞きたい?」
「そうそう! 聞きたいこと、いっぱい考えていたんだよ」
答える彼女の顔に、ひとまずの明るさが戻る。
そう、見えただけかもしれないけれど、それが重要だと想いたかった。
――その後は彼女から聞かれた話題に、答える時間。
僕の近況や、彼女の家族のこと。
知人や友人達の様子、恋愛関係、新たな出会い。
最近の流行り、美味しい食べ物、はまっていること、などなど。
息も切らせずに問いかけてくる彼女の様子が、ふいに、ぴたっと止まる。
「……なんか、さ」
「うん? どうしたんだい」
左手を唇に寄せて、彼女は訝しげな視線を向けながら、僕に言った。
「最近は、話題が乗らないねぇ。どうしちゃったの?」
「……前ほど、世間に、興味がなくなってしまってね」
ためらいながら、そう言っていることは自覚していた。
「だめだよ~、いつの時代も興味と関心を持っていないと」
人差し指を立てて振りながら、僕に向かって片目を閉じる。
上から目線のように言う彼女。
いつもそうだ。
彼女は僕をからかう時、いつもそうやって言っていた。
「昔みたいに、たどたどしくても……元気に、話してほしいな」
「あの頃は、どもってばかりだったじゃないか」
「好きなことには、熱っぽかったじゃないの。漫画のこととか、アニメのこととか」
「や、やめてください……」
当時の自分を想い出して、年甲斐もなく、顔が赤くなるような気分になる。
女の子と話すのにすら緊張し、手をつなぐのなど夢物語。
彼女の優しさを、恋への発展と夢想していた、幼い頃。
――でも、それはもう、過去の話だ。
「君の言うとおりだ。ちょっと、疲れているんだと想う」
「わたしとの話は、気分転換になる?」
明るい声でそう言う彼女だったが、つないだ手が、少しだけ硬くなるのがわかった。
「ああ。君と出会うのは、とても嬉しいことだよ」
「……よかったわ」
そのまま彼女は言葉を止めず、想い出話へと話題を移す。
テストの範囲や、難しかった問題、怒る教師に優しい担任。
悩んでいた友人への相談や、意見の衝突があったクラスメイト。
それらをひっくるめた人々との学園祭や体育祭、夏休みに遊びに行った日のこと。
彼女は、すらすらと話題をつむぐ。先ほど見てきた体験のように、ついさっき観終えた映画のように。
まるで、昨日のことのように、よどみなく楽しそうに語るのだ。
――本当に、昨日のことなのかも、しれないけれど。
僕はそれらの言葉に、懐かしさとともに、頷いてばかりいた。
「みんな、元気かな」
「そうだね。僕と同じように、ちょっと疲れてしまった人もいるけれど、元気そうだったね」
「あんまり会ってないの?」
「同窓会とか、開くのも珍しいからね。ほとんど、会っていないかな」
「冷たいなぁ~。もっと親身に、みんなと会ってあげなよ」
非難の眼差しを受けながら、僕は苦笑する。
「忙しいのもあってね。仕事に、子供の面倒。なかなか、難しいんだ」
僕は、自分の事情を盾に、彼女の言葉を避けることにした。
それにこれは、周囲もそういった事情を抱えていたから、嘘ではなかった。
「おぉ、待望のお子さんだね!」
彼女も僕の様子を見て、話題を切り替えてくれる。
そうして僕の気を使ってくれるのが、確かに、彼女だという感触を与えてくれた。
「……親戚の子、だよ」
僕は、ためらいがちにそう言う。
自分の子供の話題は、否定した。
「ありゃりゃ、そうなんだ。いい人いないの?」
「ストレートに聞くなぁ」
「だって、まどろっこしいのイヤなんだもん」
まっすぐにこちらを見つめる彼女の瞳は、ただただ純粋だ。
いつも向けられる――向けられていたその瞳に、僕は嘘をつききることが苦手だった。
「……いるには、いるよ」
言ってしまってから、彼女の様子を見て、少し慌てた。
眼を見開き、髪をいじりながら、彼女は戸惑うような視線を僕に向けている。
――罪悪感を覚えるなら、独りで居続ければ良かったのに、と内心で自虐する。
「そ、そうなんだ」
「ただ、片想いなんだけれどね」
「……告白、しないの?」
「どうかな。彼女、気づいてくれるか、不安で」
「言わなきゃ伝わらないよ!」
「はは、確かに」
軽く受け答えながら、当時の甘い空気を想い出す。
想い人が彼女であったことも、確かにあったはずなのに。
――僕が逢瀬を重ねた人物は、もう、いない。
「でもでも、キミも結婚しないとねぇ。もう、いい歳なんでしょうから」
「まだ君と会えるくらいには、僕は元気ですよ」
僕が言った言葉に、彼女は口をとがらせる。
「そんなにわたし、お婆ちゃんじゃないから」
不満げな顔をする彼女の横顔。
「……あの日から、どれぐらい経ったのかなぁ」
「お医者さんから、教えてもらっていないの?」
「う~ん、教えてもらったような気もするし……もらってないような気もするし……忘れちゃったのかな」
彼女は、大きな瞳を真夏の空へと向けながら、おどけるように言った。
「それとも……消えちゃったのか、な。どっちだと想う?」
僕も同じように、彼女の見つめる空へと視線を移す。
雲一つない、青い空。まるで、絵の具を塗りたくったような、単色の空。
僕は、彼女ではなく、空へ向かって言った。
「消えないよ。ただ、忘れてしまっただけさ」
そう言いながら、僕は、彼女の手を握る。
おそらく、現実の僕の手も、彼女の手を握りしめているはずだ。
……この世界へ来るための、冷たい機械の手を。