テルスの『必殺』
鏡面を叩き割ってから、五分が過ぎた。
終わらない。あともう少し、そんな状況がいつまでたっても続いていた。
優勢なはずの盤面。
コングたちの防衛戦はこの上なく機能し、魔物を一匹たりとも通していない。
結界内に入り込む水を始め、目まぐるしく変わる環境にも精霊魔法で対処できている。
彼らの手に余る上位の魔物はメルクによって押しとどめられ、すでにガルグイユの一体は氷漬けにされていた。
そして、王はテルスの”初見殺し”に押され、中心部に近づくことができない。
常にテルスが蠅のように付きまとい、傷を与え続ける。中心に行くにはこいつが邪魔と王も認識したのか、ルナだけでなくテルスにも攻撃するようになってきた。
順調だ。
作戦は上手く進んでいる。王の体には再生を終えていない傷もあり、動きも鈍っている。
だが、解放が終わってくれない。最後の最後が詰め切れない。
「テルス、テルス! 大丈夫かい?」
心配そうなソルの声に応える余裕が今のテルスにはなかった。
ひたすらに体が酸素を求めている。どんなに空気を吸い込んでも、それでは足りないと動悸が痛いほどに胸を叩く。頭が痛い。手足が重い。防寒具がびしょびしょで気持ち悪い。あの王うるさい。弱音も文句もたっぷりだ。
残念ながら、そんなテルスの文句を聞いてくれる相手はいない。
むしろ、王の金切り声ばっかり聞いていて辟易している。
勝手な話だが、テルスは人魚のお姫様はもっと歌が上手いものだと思っていた。孤児院でだろうか、そんな本を読んだような気もする。でも、延々と聞かされているのは耳障りで頭が痛くなる金切り声の歌。
これは何かの魔法ではないか、とテルスがソルに聞くほど酷い声だった。
テルスを攻め立てるのは声だけではない。尾びれが氷山を砕けば礫が飛び、水の槍が絶えずテルスかルナを穿とうと放たれている。
だが、何より辛いのはそんな王の攻撃ではなかった。足場の悪い氷の上では速度が落ちるため、飛ばなくてはいけないことだ。
「っと、あぶ、な」
空中でバランスを崩しそうになる体を風を制御し、押しとどめる。
慣れぬ魔法の使い方にボロが出始めていた。風を操りそこね、無様に氷上を転げ回ったのは数え切れず、体を叩く強風に汗が乾けば肌が痛みを訴える。
ボロボロだ。それでも、この場で一番余裕があるのもテルスだった。
「テルス、八時の方向から魔物が防衛線に近づいている。みんなは反対側の魔物が多くて気づいていない。メルクの方も人魚型魔物が三体ほど魔法で狙ってる。これは五時の位置だ」
ソルから与えられる情報は上空にいる白隼の視点のものも含まれる。
スポッターたちからもたらされた情報を受け、即座にテルスは王の相手をしながら風を駆る。
コングたちは近づく魔物に気づいていない。ソルの言っていたとおり、今は目の前の魔物の対処に追われている。
チェレンとその契約精霊、東雲が邪魔な水と小型の魔物を排除し、アイレが『風』の魔法で吹き飛ばすことにより敵の動きを阻害する。そうして数を減らした魔物たちをコング、バルフ、マールが駆逐していく。
マールが広範囲の【魔壁】で防御、コングがシャベルで魔物と戦いながら『土』の魔法で足止め、バルフが斧を振るい止めを刺す。シルアフォムスのような《Ⅳ》やそれに近い魔物がくれば、シュネーが『氷』で氷結させて、メルクがくるまでの時間を稼ぐ。これらの動きを、サルジュが指揮と【魔弾】でフォローする。
とても初めて組んだとは思えぬ連携だ。だが、もはや魔物の数は七人で対処できるものではない。何より、マテリアル上位の魔物が数を増していた。
上位の魔物がメルクのラインを突破してきている。どれほどメルクが『水』と『氷』を駆使し、魔物を倒そうとその数は増すばかり。少しずつラインは下がり、メルクは今ではほとんどコングたちと共に戦っている。
だから、援護をし、この状況が続くように調整ができるのはテルスしかいない。
疾風が防衛線付近にいる魔物たちを蹴散らし、吹き飛ばす。
メルクを狙っていたローレライを始めとした人魚型魔物は一瞬にして距離を詰めたテルスによって捌かれる。そして、王がルナを狙って投げた無数の水の槍を『風』と【魔弾】が逸らしていく。
これでリセット、とはならない。
メルクたちが余裕を取り戻しても、テルスの体力や魔力はじわりじわりと削れている。
何より、吹き飛ばした魔物に致命傷を与えることができていない。
これが『風』の欠点だ。
もしも、選んだ属性が『火』や『氷』なら、おそらく今の攻撃だけで魔物たちを倒すことができていた。しかし、『風』はそのまま使うだけなら吹き飛ばすことしかできない。
確実に倒すなら『風』を操るための【道化の悪戯】に加え、【魔弾】や【魔刃】を使わねばならない。
【魔弾】を始めとした魔力消費の少ない魔法や、【道化の悪戯】で『風』を操るだけならば、そうそう魔力切れにはならないはずだった。だが、ほとんど常に魔法を使用しなければならないという、度を越した魔法の連続使用が真綿で首を絞めるようにテルスを追い詰めていく。
「ソ、ル、属性の、追加できな、い?」
「む、無理だ! そんな状態の君ではどの属性にしても大して変わらない。それに、切り替えるならともかく、僕の力で二つの属性の同時使用はできないよ……」
「そ、っか」
荒い呼吸に混じった声は残念そうに途切れた。
呼吸を整える時間はない。青く揺らめく刺突が空中のテルスに迫る。
幾度も突き出されるは王が持つ二本の槍。それをテルスはろくに『風』すら行使せず躱していく。
葉が枝を離れ、落ちていくかのような力のない動き。でも、当たらない。掠りすらしない。ふわり、ふわりと刺突は通り過ぎ、どれほど王が槍を振り回そうと、術理の欠片もないただの暴力ではテルスを捉えることはできなかった。
ならば着地を潰すと思考を切り替えたのか。テルスの足が氷に着地した瞬間、王は槍を叩きつけ、その『水』を解放した。
生きとし生ける全てのものを泡へと還す力。
王の『水』が氷の大地へ広がっていく。
解放した『水』に飲まれ、至る所で魔物が泡へと還っていく。だが、王はそんな末路など一つたりとも見てはいない。ただ、眼前のテルスに視線を奪われていた。
速くはなかった。魔法を使ったわけでもなかった。
ただ、とん、と大道芸のように軽く跳んだだけ。それだけで、テルスは槍を振り下す王の懐に入り、『水』の解放をやり過ごした。
近づくな。鬱陶しい。多分、そんな意味の金切り声がテルスの鼓膜を震わせる。でも、近い方が躱しやすいし、攻撃しやすい。王から放たれる泡の魔法を散らしながら、テルスは刀を走らせる。
――芸がないなあ。
痛む頭に浮かぶのはそんな思い。もう飽きるほどに見た。その程度の飛沫なら、【リベリオン】を使っていなくとも吹き散らせる。
なまじ王に知能があるからか、攻撃も読みやすく脅威を感じない。それに距離さえ詰めていれば、この王の攻撃は怖くなかった。
泡に、『水』の槍。蛸の足みたいな水流で辺りを薙ぎ払う『水』の魔法。尾びれの鱗が魚のように動き回る気持ち悪い攻撃もあった。だが、どれも近い間合いでは効果が薄い魔法か、『風』で楽に吹き飛ばせる攻撃だった。
それでも、一度でも当たれば死ぬ。
本当にずるい、とテルスは嘆く。首を飛ばし、何度もその体を斬っているというのに、疲弊していくのは自分ばかり。荒い呼吸の全てをため息に変えても、この理不尽さには届かない。
王と戦うことはできる。
しかし、いくら善戦しようと、最終的な勝利を掴むことは決してできない。
テルスには王を倒せない。誰もがきっとそう答える。だが、
「……いける」
その解答を本人だけは否定する。
「いける……あの世に逝けるってこと!? ついにダメなのかい? 死を覚悟した方がいいのかい? もう何回もしてるけど!」
「いや、勝て、そ、だなって」
「そんなに息を切らしながらじゃ説得力ないよ!」
まったくもって正論だ。
こんなにボロボロな姿で強がっても、負け惜しみにしか聞こえないことはテルスも重々承知している。
ただでさえ少ない魔力は限界に近い。ハバキリをあと二回使えるかどうかといったところだろう。
刻んである魔法陣は【魔弾】、【魔壁】、【魔刃】、【強化】、【道化の悪戯】と全てが下位魔法。一発逆転の魔法なんてものは行方不明だ。
魔力は少なく、トランプ・ワンというAどころかK、Q、Jといった絵札にあたる魔法すらない。そして、相手は魔物の王様ときた。これを無謀と言わず、何を無謀といえばいいのか。
ああ、分かっている。それでも。
深く息を吸い込んで。吐き出して。
そして、テルスは笑う――勝つ、と。メルクやシリュウに似た挑もうとするものが頬に刻む好戦的な笑みを浮かべて。
「勝ち目あるから、大丈夫」
「うーん……本当かい?」
疑わしそうなソルの声。強がりじゃなくて本当に勝ち目があるのに、と信じてくれない精霊にテルスは少し悲しくなった。
そもそも、だ。テルスの仮想敵は魔瘴方界の王をも超える《Ⅵ》の魔物。それに挑もうというのに、五年も時間があって切り札を用意していないはずがない。
切り札の一枚は【強化】、【魔刃】、【道化の悪戯】を合わせた『ハバキリ』。王にすら届くと証明されたテルスの必殺だ。ただ、この必殺でも上位の魔物を倒し切ることは不可能だと、これもまた証明されている。
だが、この必殺には続きがある。
【リベリオン】によって魔力という不安材料は軽減された。《Ⅳ》以上の魔物に使った経験はないが……王の体に残った傷跡で効果のほども確認できた。
あとはこれで詰め切れるか。
これで終わらねば形勢はさらに悪くなり、逃げの一手を打たねばならなくなる。しかし、ここで王を討たねば三分と経たず、魔物の大群に飲まれるだろう。どちらにせよ負けるのなら、ここでベットする方がテルス好みだ。
――さあ、勝負。
王と相対するテルスの刀に魔力が集まっていく。テルスの視線に宿るその殺気を感じ取ったのか、王もまた距離を取り巨大な『水』の槍を発現させた。
必殺の応酬を予感させる両者。だが、その間に割って入る声があった。
「テルスっ!」
遠くから聞こえるメルクの声。意識は王に集中させたまま、視線だけで最奥を見る。そこには待ちに待ったルナの文字が浮かんでいた。
〈あと、ちょっと! 多分、一分いらない!〉
「もうすぐだとよ! ここで使うぞ!」
最奥でせめぎ合う輝きは、すでに白が黒を消し去ろうとしている。
だが、まだ終わらない。領域の危機を感じた魔物たちが狂ったように最奥に押し寄せてきている。
キューバーも限界なのか、結界の再生が追いついていない。最奥に侵入する大量の水は魚影によって黒く染まっている。精霊魔法での氷結も、吹き飛ばすこともできないと一目で分かる最後の波。
その波は今のテルスたちにはあまりに高すぎた。
このままでは飲まれると分かっていながら逃げる場所がない。
だから、メルクも最後のカードを切ろうとしている。だが、本当にいけるのか。最終ラインまで下がったテルスは群がる魔物を斬りつつ、メルクに問いかける。
「使えるの? トランプ・ワン」
「あと一回だ。それもこの感じだと、使ったら倒れるな。シズクの馬鹿のせいで大分、魔力が削られた。ほんっと、あいつ腹立つ」
メルクがあのトランプ・ワンを使えるのは二回。三回目は撃ったと同時に倒れるとテルスは聞いている。
ただ、今のメルクは肩で息をし、その額には汗が滲んでいる。
一目で疲労していると分かるこの状態では二回目もきついだろう。しかし、任せる他に手段がない。
「そっか。じゃあ、まかせた」
「おう。ついでだ。あの王も俺が倒してやるよ!」
メルクの魔力が溢れ出す。
強くも不安定な、どこか蝋燭の最後の揺らめきを思わせる輝き。それを消させまいとテルスは竜巻じみた風で群がる魔物を吹き飛ばす。
たった数秒の猶予。
だが、メルクの必殺が牙を剥くにはそれで十分だった。
「これで終いだ。喰らいつくせ!」
鎧袖一触。
群がる魔物を一瞬で氷結させ、メルクの『飛雪蒼牙』が湖底を駆け抜ける。
湖水を凍らせ、踏み砕き、大きく助走を取るかのように蒼い狼はテルスたちの周囲を走り、
放たれた王の槍へと飛びかかった。
テルスではなく、メルクの必殺でもなく、ただルナへと放たれた殺意の槍はまるで渦潮そのものだった。渦巻く圧縮された水流がただ一つを貫く魔法は、間違いなく今までで最大の規模を誇る王の魔法だ。何より感じ取れる圧が違う。
おそらく王にとっても必殺の一撃。王の波濤とメルクの吹雪。互いの切り札がぶつかりあい、湖底の中央で荒れ狂う。
数秒の膠着。
そして、メルクの必殺が敗北を喫した。
爆発する冷気の渦を穿ち、王の槍が迫りくる。
だが、その槍もまたメルクの必殺により威力を落としていた。槍としての形をほとんど失い、横殴りの雨のような姿となってなお止まらない王の必殺。それに対抗する力は地に伏したメルクにはもう残っていなかった。
「くっ、そが。わりぃ、あと頼む……」
「散らせ!」
「【狛犬水霊】頼む!」
「あ、【天つ風の羽ばたき】!」
「【凍え咲く六華】!」
らしくない弱々しい頼みに応えるように、テルスの『風』、チェレンと東雲による精霊魔法、そして、アイレとシュネーの上位魔法が王の必殺を散らしていく。
質の悪いことに、触れた対象を泡へと変える力は雨粒となっても残っていた。
散らした魔法の余波を受けた魔物が次々と泡へと還っていく姿が、嫌でもテルスの視界に映りこむ。
皮膚に無数の雨粒が触れるたびに、肉が削げるように泡へと変わっていく。逃げる足を奪われ、悲鳴のような叫びすら雨音に消され、魔物たちはもがきながら泡の海に沈んでいく。
視界一杯に広がる雨の幕。それを押しとどめる『風』の向こうで広がる惨状に、皆の顔に緊張と恐怖が浮かぶ。防御を任されたマールを始め、コングたちも思わず【魔壁】を張るほどに、泡に侵食されていく魔物の姿はおぞましいものだった。
一滴たりとも侵入を許せない。
そんな緊迫した数秒が過ぎ、ついに雨が上がった。
皆がほっと安堵の息を吐き出す。だが、テルスだけはそんな安堵すら置き去りに、宙を蹴って外へ飛び出していった。
雨が上がった先の王を見たから。
「テルス、好機だ!」
「分かってる!」
肩に乗るソルが告げずとも分かる。
逃すわけにはいかない好機がそこにはあった。
王の半身が氷に包まれていた。硝子のような拘束具にその尾と左半身を地に繋がれ、体は凍てつき動くことすらままならない。
メルクの必殺は余波となってなお、王へと牙を突き立てていたのだ。倒せてはいなくとも、その半身は氷によって拘束されている。だからこそ、雨を耐えていたあの数秒の間、王の追撃がなかったのだろう。
動けず、もがく王。これ以上ない好機を前に、テルスは飛ぶ。距離を瞬く間に詰め、王がテルスに気づき、その右手を向けるよりも早く――
「――ハバキリ」
その一撃を振るった。
音すら残らない、静かすぎる一閃。
王の半身がいっそ滑稽なほどに、ゆっくりとずれていく。袈裟切りに両断された半身が氷の大地に落ちてようやく斬られたことに気づいたのか、王は悲鳴と怒りの声を上げた。
「……ん?」
氷上でもがく王。
その姿に違和感を覚えたのか、ソルがテルスに声をかける。
「変じゃないかい? 再生しない。倒した、と言えるのは最初に氷漬けにしたのと、君が斬った三回だけのはずだが……」
「再生を阻害してるんだよ。あれは、そういう一撃なんだ」
怪訝そうなソルにテルスは頭痛を堪えながら答えた。
ハバキリで斬って、切断面の瘴気を【道化の悪戯】で乱す。
テルスにとっては特殊なことではない。
魔物の体を構成する汚染された魔力である瘴気。それをディバイドで分けて、ディスカードで乱す。どちらも【道化の悪戯】を利用した技だ。
そして、トランプを使ったある遊びからつけたこの技は、《Ⅳ》以上の魔物を倒すためのトランプ・ワンにするために磨いたもの。諦めの悪い少年が愚直に積み重ね、掴み取った切り札の一枚だ。
ただ、やはり魔力の消費はテルスにとって激しかった。
少しの魔力では王の瘴気に飲まれ、乱すことすらかなわない。相応の魔力を消費した結果、ついに限界を訴え始めた痛みにテルスは頭を押さえる。
だが、魔力を賭けた甲斐はあった。
もがき、溢れだす泡の中央でもがいていた王の手。空へと突き出されたその手が、黒い淀みを祓う白い波動が広がるとともに力を失い――地に落ちた。




