冷たき湖底の王
巨大な尾びれ。それは昨日、湖に飛びこんだテルスが見たものだった。
この領域における最悪、マテリアル《Ⅴ》魔瘴方界の『王』。
その姿は人魚だった。
ただし、物語に出てくるような人魚の姫とはかけ離れている。
濃い青の鱗に覆われた巨大な体の色彩は美しくとも、不気味に蠢く鱗の一つ一つがそれを台無しにしている。大量の小魚をその身に埋め込んだかのような醜悪にして吐き気すら催す見た目は怪物そのもの。
何より、テルスたちを見下ろす目は居城に侵入した餌へ向けるものでしかない。
外に憧れる美しい人魚姫ではなく、外に憎悪を向ける化物の人魚姫。裂けた口から細かい牙を覗かせ、耳障りな金切り声が氷を震わす。
「……ねえ、あれはまずいよ。まずいって。仮にもあれは王様なんだろう? 皆で、せめて、あそこのメルクと一緒に戦おうよ」
肩に乗るソルは完全に怯えている。白隼の方もすでに肩から飛立っていた。
まったくもって、頼りになる精霊たちである。
「それは無理。メルクの相手も来たから」
氷壁を破り、ガルグイユが現れた。
数は二体。最低でもあと一体はいるはずだが、あの災魔の触手の先にガルグイユの姿があったということは、そちらは喰われたのだろう。
どうせなら、王も含めて全部食べてしまえばいいものを。次々と水に乗って結界に侵入してくる魔物たちを見て、その思いはより深くなる。
あと解放にどれほど時間がかかるか。
少なくとも、落葉の森で聞いたリィンと大気を震わすあの音は聞こえない。
落葉の森と同じなら数分でここを解放できる。だが、それを魔物たちが待つはずもなかった。
魔物が高波のように押し寄せる。その狙いはただ一人。
この黒の空間において最大の異物である白い少女だけだ。
落葉の森のように毒が周囲に満ちていないからか、それとも湖という空間だからか。ここの魔物は王がいる最奥であっても遠慮の欠片もなく攻めてくる。
だが、今までの情報から考えれば、これは想定の範囲内。
そして、想定していた以上、対策も用意してある。
「ウェントペア」
そのテルスの呟きで、魔物の動きが一斉に鈍る。見えない壁に阻まれたかのような不可思議な光景。その悪戯のタネは氷上の水たまりが教えてくれる。
浮かぶ波紋、流れる水。テルスに加え、チェレン、アイレの精霊魔法によって生み出された風が結界の内でさらなる結界となって、魔物を押しとどめていた。
多くの魚型魔物に踏みとどまる足はない。その型は水中に適合する泳ぐためのもの。氷に包まれた滑りやすい地面の上では、吹きすさぶ暴風には耐えられない。
しかし、上位の魔物にそんな策は通じなかった。王を先頭とした魔物たちは風を乗り越え、ルナを目指して一直線に進んでいく。
「行かせねえよ!」
水に乗ったメルクが同じように一直線に、ガルグイユを始めとした上位の魔物たちへと突っ込んでいく。
普通に考えれば自殺行為だ。が、メルクは魔物たちから『水』の操作を奪い、動きを阻害していく。それは、どこかテルスが使う技に似ていた。
餌を前にした餓狼はもう止まらない。浮かんだいくつもの水剣がメルクとともに暴れ回る。足元に流れる水をかき乱し、動きを封じた魔物たちを捌きにかかる。
それでも、王だけは止められなかった。人魚の王はメルクの魔法をその身に受けようと気にもせず、狂ったようにルナを目指す。
――王は死にもの狂いで襲ってくるそうだよ。狂戦士のように降りかかる魔法をものともせず、前線の騎士をなぎ倒しながら、一直線に瘴核を攻撃した人をそれはもう執拗に狙うんだって。
その姿はいつか、落葉の森でルナが書いた話そのものであった。
メルクを無視し、巨体に似合わない速度で接近する醜悪な人魚姫。ついに防衛線までたどり着いた王を見たコングたちの表情に緊張が走る。
しかし、彼らは迎撃しようとはしなかった。
その理由の一つは単純に迎撃に回せる手がないから。キューバーで破れた結界を再生させ、精霊魔法でこの環境を維持し、結界内に侵入してきたケルピーやローレライといった魔物たちを対処する。たったの七人ではこの状況を保つことすら難しいというのに、王の相手など不可能だった。
王の御前を遮る者は誰もいない。
近づく王の手がルナへと伸び――その人魚の首が斬り落とされた。
「よし、斬れた」
こっちに気が向いていないのは好都合とばかりのテルスの奇襲。背後から王を切り裂いた狼藉者の攻撃は止まることなく続いていく。
落ちた首が魔素へと還るよりも早く、暴風が王を吹き飛ばす。思考する頭がない以上、その巨大な体は案山子も同然。氷を砕きながら滑っていく王の体を追うようにして、幾つもの斬撃が走っていく。
「やれ、やっちゃえテルス! そのまま倒しちゃえ!」
斬る、斬る、ひたすらに斬り刻む。耳元の声援を無視し、テルスは刀を振るい続ける。背後からの奇襲には成功した。このまま王の瘴気を削り切って倒し切る。
それが理想。もっとも、そんな都合の良いことなどあるわけがない。
王の体が再生を終え、テルスの刀も止まる。人魚の頭部が戻った瞬間、溢れ出てきた迎撃にテルスは後退せざるを得なかった。
「なんだろう、あれ。ソル分かる?」
「分からない。でも、触れないほうがいいのは確実だね」
王の体から無数の泡が零れていた。
ここが水中ならばその泡は綺麗に見えたのかもしれないない。でも、今の泡はボトボトと人魚の体から剥がれ落ちる鱗のようで、とても綺麗とは思えなかった。
何より、正体が分からないことがただただ不気味だ。
泡が落ちた氷に変化はない……ように見える。黒揚羽のような毒なのだろうか。何にせよ、あれに触れるのはまずい。それだけは確かだった。
「気をつけるんだよ。ほら、お姫様がお怒りみたいだから……」
「うん。怒ってるし、うるさいなあ、あれ」
ヒステリックな金切り声が氷を震わしている。だが、そんな王の怒りなどテルスは柳に風と受け流していた。
むしろ、怒ってくれてルナから自分に意識が向けばいいな、とすら思っている。ただ、それは淡い期待に過ぎなかった。
王の視線はテルスではなく、依然としてその遥か後方のルナに向いている。
あれほど傷をつけても優先順位に変更はない。そして、狙いが動けないルナである以上、王の攻撃を避けるのではなく防がねばならない。
テルスに王の攻撃を正面から防ぐ自信はなく、王には時間がない。だからこそ、両者が選択するのは攻めの一手。テルスは空を翔け、溢れ出る泡に半身を埋めた王は手を振るう。
地を這う蛇のように泡が動き出す。その軌道はやはり空を飛ぶテルスには向かっていない。幾重にも枝分かれし、囲むようにルナへと流れていく。
白い泡が氷上を滑る。
王は領地には献身的でも、配下の命には興味がないらしい。
泡の魔法の軌道上に他の魔物がいようと関係がない。ローレライやケルピーが次々と泡に飲まれていく。
酸か、毒か、それともそういう魔法なのか。
泡に触れた魔物が溶け、同じように泡になっていく。体が崩れていく末路は惨いもので、抗議の断末魔も白い泡沫へと飲まれていった。
触れれば終わる魔法。
それを横目で確認したテルスはルナを守りに戻るのではなく、さらに前へと加速した。
守りに入らない。それが予想外だったのか、王の反応が僅かに遅れた。泡の迎撃も奇妙に跳ねるばかり。
テルスはその隙を逃さず、するりと王の間合いに滑り込んだ。
確死の圏内。
今にも触れそうなほど近く、刀と泡が互いの目の前にある。一拍の後、先手を取ったのは王であった。
王の体を覆っていた泡が飛び散る。抱擁するほどに近いテルスに逃げ場はなく、飛沫一つが触れれば終わり。勝利を確信したのか王の顔が歪み、
その表情のままに王の首が再び宙を舞った。
「柔い。ペアで十分」
走る銀閃に頭が飛び、王の思考は切断された。発現していた泡の魔法がキャンセルされ、王の体も力なく倒れていく。
その体をテルスは風で、先の泡と同様、王の知らないもので吹き飛ばす。
深い湖底に住まう人魚姫。かつての攻略でも確認されたことはなく、何年も湖の監視、調査を続けてきたキーンたちの資料にも記載がない存在。
この人魚姫は湖から出たことがない、外を知らない王だ。
湖が鏡の如く映す空の色も、遥か彼方を吹き抜ける風も、冷たい水で満たされた湖底の世界以外の何もかもをこの人魚姫は知らない。
だから、テルスはその無知を突く。
風を使い、テルスは気球から投げ出していたものの一つである樽を吹き飛ばす。
砲弾もかくやという速度で王に直撃した樽はその中身を盛大にぶちまけた。
そして、どろりとした液体――油を滴らせながら、王の再生が終わる。その視線はついに無視できぬ障害としてテルスを映すが、あまりにも遅い。その足元にはすでにテルスが風とともに飛ばした爆弾が転がっていた。
炸裂する赤。爆炎が王の身を包み込んだ。
樽の中身であった油に炎が燃え移り、王が悲鳴とともにのたうち回る。
身を灼く炎を知らない王はその消し方も分からない。飛来する樽が壊れるたびに油が広がり、勢いを増していく炎からただ離れようと逃げ惑う。
湖底に似つかわしくない炎の園が広がっていく。しかし、この”初見殺し”も水に流され、すぐに消えることになるだろう。
「このまま、いければいいんだけどなあ」
もう少し。辺りには解放を予感させる、あの大気を震わす音が響き始めている。
あと数歩先にある希望を掴むため、テルスはさらなる未知を献上し、己の役目を果たしていく。
そう、テルスだけでなく、皆がそれぞれの役目を果たし、攻略は順調に進んでいた。歯車はきっちりと噛み合い、ずれることなく回転している。
ただ、その速度だけはゆっくりと落ち始めていた。




