反逆と約束の風
それは、もしかしたら錯覚だったのかもしれない。
だが、本当に少しの時間。ルナ・スノーウィルは瘴気による死というものを経験した。
浄の魔力を持つルナたち浄化師はある意味で、瘴気とはもっとも縁遠い存在だ。いかに瘴気が人にとって危険であろうと、浄化師は瘴気の影響を受けない。危険だと頭で理解していようと、実感することがないのだ。
だが、もしも、そんな機会があるとしたら。
それは、魔力が尽き、息絶えるまでのほんの一瞬の間だけのことだろう。
だから、アリスの【浄光結界】を破り、瘴気が押し寄せた数秒間。
ルナは限りなく死に近づいていたといえる。浄の魔力すら侵す濃度の瘴気に、はっきりとその気配を知覚できたのだから。
「う、うううっ! 冗談じゃない、なにこれ……!」
ルナの背後では、苦しそうにアリスが胸を押さえていた。白金の髪の間から見える額には玉のような汗が浮かび、その体からは白い魔力の光が明滅していた。
〈大丈夫、アリス!〉
ルナが駆け寄ろうと、アリスに反応はない。浮かべた文字を読む余裕すらなく、呼吸は今もなお全力で走っているように荒かった。
嘘だ。
真っ先にそんな言葉を思うほど、その姿はルナにとって信じがたいものだった。それはミユも同じなのだろう。近くにいる彼女もいつも以上に慌てていた。
ルナもミユも魔力には恵まれていた。
それこそ、魔力切れの経験が、片手で数えるほどしかないほどに。
しかし、そんな二人の魔力量を足しても、アリスには敵わない。厳しい訓練時代ですら、アリスが魔力を使って疲れているところなど、見た覚えがなかった。
そのアリスが全力で魔力を放出している。
今にも瘴気に塗り潰されそうな結界を維持しようと、必死に耐えていた。
ルナは唇を噛み、その衝動を堪えた。
手伝いたくとも、ここでアリスと同じように魔力を使えば、すぐにルナの魔力は空っぽになってしまう。それでは何の解決にもならない。
呼吸も荒く膝をついたメルクやグレイスの駒者たちが死ぬ。この結界に逃げこんできた他の動物たちも等しく息絶えることになる。
何かないか。アリスの魔力を増幅させるような、そんな何か。例えば、魔力を回復させる魔石や魔力を増幅させる魔具のようなものが……
〈……魔具。そっか、それだ! ミユ、神霊魔具をアリスに!〉
「あ、そそ、そっか!」
ミユは叩ききったり、押し潰したりにしか使わないが、彼女が持つ神霊魔具には自身の魔力を周囲一帯に拡散することができる性質がある。いわば、自分の魔力に染まった領域を作り出せる魔具なのだ。
そんな白と銀の色合いが美しい神霊魔具を、女の子どころか力自慢の大男ですら苦労しそうな巨大で重すぎる大剣を、ミユは半ば投げるように、アリスへぽいっと渡した。
〈まっ……あ〉
間に合わなかった。
ルナが文字を書くよりも早く、アリスは巨大な大剣によって押しつぶされた。
しかし、効果はあった。
神霊魔具によってアリスの浄が広がっていく。魔力の不安定さも消え、アリスも大分楽になったはずだ……疲労の代わりに、顔を真っ赤にして重い大剣を持ち上げようとしているけども。
「あ、ごごごごめんね!」
「馬鹿! お馬鹿! 馬鹿力! こんな重いの、急に渡さないで!」
いつもどおりの毒舌。それが言えるほど、アリスの調子が戻ったことに少し安心した。ただ、それを書いたら怒られるから、ルナは楚々とした微笑を浮かべて黙っているが。沈黙は金、書かぬも金なのである。
「久々に死を覚悟したな……おい、住民たちの避難が始まってる。お前たちは気球の近くで待ってろ。アリスはそのまま三十分、気合で頑張ってくれ」
「そんなに持つわけないでしょ、馬鹿なの? 私の魔力量がいくら多くても、一つの町を覆えとか限度がある! さっさと仕事しろ!」
「いや、す、すまん。おじさん、緊張を取ろうとしただけなんだ。徐々に結界を縮小していく感じで、できるだけ持たせてな」
怒るアリスと宥めるシリュウ。それを娘の機嫌を取ろうとするお父さんみたい、と思いながら、ルナはきょろきょろと自分の騎士を探す。
(あれ……何をしてるんだろう……?)
テルスは少し離れたところで、現れた魔物から視線を外さず、ソルと何か話をしているようだった。
ちょっとだけルナの頬が膨らむ。仲間外れはいけないと思うのだ。
気球は駅に降り、《黒騎》が避難を始めている。こちらに走ってきている一団も見える。ルナたちも、そろそろ動かなければならない。
そんな理屈と一緒に不満をぶつけようと文字を浮かべたところで、ルナは近づいてくるグレイスの駒者たちに気づいた。
「おい、シリュウのおっさん。まずいんじゃないのか?」
暗い表情を浮かべた駒者たち。その様子を見たメルクが小さく声を上げた。
頷くシリュウだけじゃない。ルナたちも分かっていた。
もう、心が折れている。
人は魔物と対峙するだけで恐怖を覚える。魔物が強大であるほどに、抑えられない恐怖が胸に灯ってしまう。
リバーシ。見ただけで逃げ出したくなるような魔物と、その瘴気。突きつけられてきた現実は人々の戦意を奪うには十分すぎた。
「も、もう……グレイスは駄目なのか。俺たちは……」
――故郷を捨てなければいけないのか。
その言葉が続いていたはずだった。少なくとも、ルナの心にはそう届いていて、彼女の心にちくりと針を突き立てた。
「お願いです。浄化師様。この地を、どうか、どうか救ってください……」
黒く染まった地を浄化できる存在。この絶望と隣り合わせの地では神のように敬われる浄化師に駒者が、いや、グレイスに住まう人たちが縋っていた。
ずっと、この地で戦ってきた。
いずれ、こんな日がくるかもしれないと思っていた。
覚悟をしていたつもりだった。
こんな故郷など簡単に捨てられると思っていた。
でも、いざ、その運命と対峙したとき。
それが容易く受け入れられるものでないと、気づいてしまう。
そんな思いをルナは理解していた。このグレイスの地で数日を過ごしたからではない。グレイスの駒者たちがどういう思いで戦っているか聞いたからでもない。
故郷を失う経験をしているから。
だからこそ、ルナの中には迷いがあった。
「……無理だ。俺がそう判断した。行け、お前たち三人は気球の近くで待機していろ。おい、テルス! あと、メルクもだ。お前らは護衛についてろ」
シリュウの判断は正しい。
いつ瘴気が押し寄せてくるかも分からない場所で、あんな魔物を相手にできるはずがない。
ルナだって同じ考えだ。それなのに、心に氷を落とされたように、嫌な冷たさが体中に広がっていく。駒者たちの落胆と、嘆きと、願いが耳にこびりついて離れてくれなかった。
――ここで、止まりたくないな。
ルナだけじゃない。多分、みんながそう思っている。それでも、険しく、続いているかすら分からない真っ暗な道を選ぶことはない。
だけど、彼は違った。
「おじさん。あいつ、このままだと倒せなくなるよ。だから、倒そう」
その声に静寂が広がった。
そして、その静寂をちょうどいいとばかりに、白いネズミの声が埋めていく。
「あの魔物は今、リバーシの瘴気を吸い上げているんだ。だから、ここはまだ瘴気に飲まれていない。人ではなく魔物ばかり喰らっているのも瘴気を取りこんでいるからだ。断言しよう。あれは瘴気や魔力を喰らうほどに強くなっていく。ようは、今が一番弱い状態だ」
だから、倒さなくてはならない。
そう言外に告げる騎士と精霊の言葉に、しかし、《黒騎》団長は首を振った。
「……そうだとしても俺たちには手段がない。馬鹿な俺にだって分かる単純な話だ……あいつは、でかすぎる」
おそらく、あの魔物にとって触手は末端の器官。本体はこの丘よりも高い位置にある眼球の部分だろう。剣や槍は言うに及ばず、銃弾や魔法ですらその高さには届かない。
倒さなくてはいけない存在。だが、倒す手段がない以上、戦うことはできない。
「では、届くのなら?」
「は?」
「君と騎士団は避難が終わるまで、ここにいるんだろう? あの魔物が動き出したら、止めなくてはいけないから。なら、君たちの武器があの魔物に届くようになったら……」
ソルはじっとシリュウを見つめ、言葉を続けた。
「戦うのかい?」
「ああ、戦うな」
その答えは呆気ないほどすぐに返ってきた。
当然かもしれない。魔物が強くなる以上、迅速に対処する必要がある。
それに、おそらく、あの魔物を倒さなくては膨大な数の触手からグレイスの人々を守り切ることはできないだろう。
ただ、その答えを聞いて、ルナはそっと俯いた。
なんとなく、テルスとソルが何を考えているか分かっているから。
「そっか……じゃあ、ルナ――」
〈いいよ〉
先に書かないといけないとルナは思った。
私も同じ気持ちだと、そう伝えたかったから。
ルナだって気づいているのだ。この状況を覆せるかもしれない一手に。
「えーと、悪いけど……借金が増える」
〈知ってる〉
「そっか。じゃあ、覚悟は?」
〈できてるよ〉
君を選んだときに。
そう、小さく唇を動かし、音にならない声で呟いた。
――でも、選んだのはいつだろう?
あの騎士選定で誓ってくれたとき。
もう会えないかなと思っていた君がひょっこり現れたとき。
落葉の森から生還して青空を見上げたとき。
あの虫籠で夜を明かしたとき。
無謀にも境界を越えようとしている君を見たとき。
思い出すだけで、ルナは少し笑ってしまう。それがきっと答えだった。
(多分……)
全部。
全部が一緒にいる人は君がいいな、と思った理由。
一人で子供を助けようと頑張っている人がいると知った最初から、今まで。
そんな恥ずかしいことは書かないけど。
代わりに書きたいことがあった。約束してほしいくらい守ってもらいたいこと。それを小さな光に乗せ、ルナはテルスの前に拳を突き出した。
〈死なないでね〉
震えた文字にはルナの不安が滲んでいた。
それを吹き飛ばすように、テルスはいつもと同じ笑顔を浮かべ、ルナと拳を合わせた。
「死なないよ。死にそうになったら逃げるけど……いつもより気合は入れる。このままじゃ、もやもやするもんな。お互いに」
ずるい。
今、それを言うのはずるいと、ルナはこみ上げる思いを必死に我慢した。
テルスは分かっていたのだ。
故郷を失ったルナが、帰るべき場所を失おうとしている人たちを見て何を思うかを。
胸の奥からゆっくりと広がる温かさを伝えるように、ルナは【浄光】をテルスに送る。強く輝く白い光を。テルスがあの瘴気の嵐を進めるような浄の灯になるように祈りをこめて。
それが、一人と一匹の最後の準備だった。
風が次第に強くなっていく。精霊の声に呼び寄せられるように、テルスを中心に風が渦を巻く。そして、
「――【リベリオン】」
紡いだ声に、反逆の風が吹き荒れた。




