五浄天
酒場にメルクと共に現れた執事風の男――五浄天が騎士、エイン・ヴァイパーに連れられ、テルスとルナは五浄天の屋敷に向かっていた。
わざわざ五浄天から呼び出しがかかるあたり、テルスたちのことは一日と経たず、グレイス中に広まってしまっているようだ。
テルスとルナの隣には誘いを断られ、残念そうにしているメルクもいる。
勿論、テルスはそんな友人を気にせず、グレイスの地下街に見入っていた。テルスだけでなく、ポケットから頭だけ出しているソルも、ルナも、テルスと同じようにあちらこちらを気にしている。
グレイスの地下街は地中とは思えぬほど広く、開放的な場所だった。
何より、外と違って暖かい。あの体の芯から凍りつくような寒さを思い出すと、もう外には出られなくなりそうだった。
一方で、地下らしい景色もある。
一つは、壁にはめ込まれたように見える家や店だ。
聞けば、穴を掘るだけでは見た目が寂しいとペイントを施したことにより、こんな飛び出す絵本のような町並みになったらしい。通りによって色が違う煉瓦の道も相まって、何だか可愛らしかった。
もう一つは、頭上で瞬く星や蛍のような光の群れだろう。鉱石を利用した魔法の光源らしいが、人工物とはとても思えない懐かしさを覚える優しい光だった。
この光に照らされているからか、地下街にはどこか温かい雰囲気がある。
日の光ほど強いものではない、月や星のような儚くも優しい光。街灯や家から漏れる光もあり、まったく暗くはない。
人の光が集まり、溢れている。グレイスの町はそんな印象の町だった。
「テルス、ちょっとあそこに行ってみないかい?」
「行きたいけど、無理かなあ」
肩まで這い上ってきたソルは耳を引っ張り、テルスを誘惑する。テルスだって、色々と見てみたい。しかし、今はゆっくりとグレイスを散策している時間はない。テルスたちは五浄天の屋敷に向かっている最中なのだから。
エインは無言でテルスたちの前を歩いている。話そうと声をかけても事務的な答えしか返ってこず、どんどん距離は開いていった。なんだか取っつきにくい人である。
ろくな会話もなく、一行は人気のない通りに入った。遠くに大きな屋敷――正確には屋敷のペイント――が見えるが、あれが五浄天の屋敷だろうか。
「あれが目的地かな。でっかいし」
「さあな。俺も昨日、ここに着いたばかりなんだよ」
「昨日? いたんなら、潮に――」
「それだよ! ずっりーよな、お前らだけ。寒くて部屋で布団に包まってたら、噂の潮に参加し損ねるとか。あー、運がねー」
「まあ、メルクならそう言うよね」
〈うん、聞いてたとおりかな。でも、メルクは何で五浄天のとこに?〉
心底残念そうにしているメルクにルナが文字を浮かべる。その文字はヴィヌスの屋敷で顔を合わせているため、気安いもの。ルナにとっても、テルスにとっても、このグレイスではメルクのように素の自分が出せる存在はありがたかった。
「暇だったとこに、ここで一仕事しないかって依頼が来たんだよ。大方、騎士選定で使ってた『水』と『氷』を見て使えると思ったんだろ。ここはそういう魔瘴方界だしな」
「そういう魔瘴方界?」
「あー、水属性で強い奴には、ここの調査依頼がよく来るんだよ。ほら、最小の魔瘴方界なんて、一番簡単に解放できそうじゃねえか。だから、湖を攻略できそうな属性の奴らには、声がかかるってわけだ。んなわけで、俺もここの魔瘴方界だけは知ってる。まあ、行こうとも思ってたしな」
確かに、水属性や氷属性の人間を使えば、あの湖をなんとかできそうだ。もっとも、そんな単純なことで解放できるともテルスは思わない。ソルも同意見らしく、テルスの肩から刺々しい言葉が飛ぶ。
「なるほど。それで話に乗った馬鹿はすぐに現実を思い知るってわけだ」
「いや、その通りだが……やけに自信満々だな、ネズミ」
メルクの言う通り、ソルは当然とばかりの口ぶりだった。しかし、ソルはここに来るまで、雪花の湖のことは知らなかったはず。首を傾げるテルスだったが、続くソルの言葉はさらに予想外なものだった。
「テルス、ルナ嬢、注意したまえ。ここは君たちの考えている以上にまずいかもしれない。戦力が必要だ。そこの犬でもまずは手懐けておくといい。こいつは精霊的には信用できるし、おそらく今のテルスには必要だ」
「あ、誰が犬――」
「メルク黙って、後で話す。ルナは聞こえる? あとソル、ここで話さなくちゃいけないことか?」
〈大丈夫。聞こえてるよ〉
「今がチャンスだ。この通りに入った瞬間、とても魔力が……いや、監視している奴がいなくなった」
「は?」「え?」〈監視?〉
監視? いつから?
三人の表情が一瞬で切り替わった。
「まじか。なら、ブルードの庭園で使ってた聞こえなくなるやつは――」
「もう、やっている。僕の声は君たち以外には聞こえない」
前方を確認すると、エインはこちらなど欠片も気にせず歩いている。ソルの言う通り、今が好機なのかもしれない。
「時間がないから必要なことだけだ。まず、メルク、君は五浄天とやらの仕事を断り、こちらにつきたまえ。次に、これからは僕がいいというまでは、あの話はしないこと。そして、なるべく早く湖に行ってくれ。遠くからじゃなくて、直接あの湖を確認したい」
「おい、なんで俺が付き合わなくちゃいけないんだよ」
「これでも僕は君を助けようとしてるんだけどね。あの、エインという男。なんだか、瘴気が濃すぎる気がするんだ……まあ、信用するかしないかは君次第だ」
「ちっ、よく分からんが信じてやるよ。というか、同じ仕事なら、お前らとの方が面白そうだ」
成り行きでメルクが仲間になった。聞き覚えのない奇妙なメロディがテルスの頭に浮かぶが、そんなことは気にしていられない。
「皆さま、キーン様が中でお待ちです」
家も店もない殺風景な通りの袋小路。そこには、孤独な屋敷の扉を開き、テルスたちを待つエインがいる。
鬼が出るか蛇が出るか。僅かに緊張した面持ちで、テルスたちは五浄天の屋敷に踏み込んだ。
(あれ? なんか違う……)
入り口の扉や外の大層なペイントと比べ、中は質素なものだった。
身分が高い浄化師の屋敷だというのに、シリュウやヴィヌスの屋敷で見たような豪華さはない。生活に必要なものだけを集めている。そんな印象だ。
「シグマ様。浄化師ルナ・スノーウィル様と騎士テルス・ドラグオン様。そして、仕事を依頼したメルク・ウルブス様をお連れしました」
「……ああ」
エインに案内された一室。その奥から簡潔に答える声があった。
扉が開いた先にあったのは整然とした部屋、というよりかは、物が少ない部屋。あるのはベッドやクローゼット、机、本棚程度のもの。
そんな寂しさすら感じる部屋の奥に、色褪せ灰色に近くなった黒髪の男がいた。眼鏡の向こうにある目がちらり、とこちらを見るも、すぐに興味を失ったのか手に持った本に視線を戻す。
〈初めまして。この度、正式に浄化師の末席に加わりました、ルナ・スノーウィルと申します〉
ルナが書いた青い文字。しかし、それに対する返答はない。
浄化師キーン・シグマは本から目を離していない。ルナの『声』は届いてすらいなかった。
疲れ切った。厭世的。もしくは、無関心。そんな印象を受ける人だ。初対面の人間に対するあんまりな態度に、ルナはどうしよう、と言いたげな視線をテルスに向け、メルクもイラついているようだった。
「……えーと、初めまして。ルナ・スノーウィルが騎士、テルス・ドラグオンと申します――」
「知っている。さっきエインが名前を言っていたからな。いいから、要件だけ言って帰るといい。こちらとしては、私以外の浄化師が何故この地に来たか報告を受けたいだけだ」
取り付く島もないとはこのこと。とりあえず、今日は色々あったし、テルスとしてもさっさと帰りたい。なら、これはちょうどいい展開なのかもしれない。
テルスは考えていた表向きの理由を語る。
「では、簡潔に。魔瘴方界王域をこの目で見てみたかったからです」
「そうか。ならば、近づきすぎて命を無駄にしないことだ。情報が欲しいならエインに言うといい。あいつは何度も境界までは行っているからな」
忠告に助言。案外、いい人なのかもしれない。必要以上に話したくないだけで、こちらを気にはしているようだ。
「ありがとうございます。では、失礼します……」
向こうもいてほしくないだろうし、さっさと退出しよう。
そう思い振り返ったテルスはルナと目が合った。
「……すみません。最後に一ついいですか?」
「何だ? 手短にな」
「グレイスの駒者とは仲が悪いんですか?」
ルナは多分、これを聞いてほしかったのだろう。
そうテルスは思ったのだが、ルナは目に見えて慌てていた。そうだけど、そうじゃない。もっと、聞き方があるでしょう! と言いたそうな顔である。なんだか、反応だけで何が言いたいか分かってきた気がする。
「悪いぞ。ああ、聞きたいことは何となく分かる。先に言っておこう。グレイスの駒者を使うのは下策。私が魔瘴方界に赴くのはさらに下策だ」
「調査なら少数精鋭が望ましい。よってグレイスの駒者は必要ない。ここの魔瘴方界は小さく、長時間の『浄』はいらない。なら、浄化師は余計な危険を冒す必要はない、ということですか?」
打てば響くように返ってきたテルスの言葉に、浄化師キーン・シグマはようやく視線を本から離した。
「その通り。理解が早いのは好ましい。君の名前は覚えておこう、テルス・ドラグオン」
「どうも。それでは、今度こそ失礼します」
その言葉を最後にテルスたちは五浄天の部屋から退出した。
そして、あれよあれよという間にエインから資料を渡され、案内役を紹介され、気がついたら、屋敷を後にした。
早い。早すぎる。呆けた顔で帰路に就くテルスたちは理解が追いつかず、しばらく無言だった。
結局数分も話さなかった。
退出間際にメルクが言い放った「依頼は断る」も「そうか」で終わった。本当に余計な話が嫌いなのだろう。
そして、テルスはキーン・シグマについて考える。
(信頼できそう……かなあ?)
この地に来た目的の一つ。信頼できる浄化師に落葉の森での件を相談すること。
無駄なことを嫌うあの性格から考えると……どうなのだろう。
「何だあれ。浄化師って言っても、もう少しあるだろ」
「いつの時代も偉くなると傲慢になるのかねえ……ルナ嬢はああなっちゃ駄目だよ」
信頼云々はともかく、メルクとソルの印象はかなり悪いようだった。
「ソル、今は大丈夫?」
「……監視はないよ。聞きたいことは、あの無礼者が信頼できるかどうかかい?」
ソルの言葉にテルスは頷く。メルクは何の話か分からないようだったが、ルナは違う。真剣な面持ちでソルの言葉を待っていた。
「答えは……信頼できない。だって彼、瘴気の残滓があるよ。魔瘴方界に入るのは下策とか言っていたというのに」
ルナと二人、テルスは地中の空を仰いだ。
グレイスでの怒涛の初日は、この先の嵐しか予感させない始まりだった。




