見えない鎖
テルスとルナの間に降り立った男。
風で崩れた髪を撫でつけながらルナに話しかけるこの男が誰かは分からないが、その身分は明白だ。
この庭園が薄暗くとも、撫でつけられた濃い茶髪、大仰な身振りに、高価そうな宝石が付いた指輪は見て取れる。何より、メルクと違って礼服に着られているという感じがない。
貴族。面倒なのが来た、とテルスは様子を見守る。幸い、貴族の男はテルスには何の興味もないようで、現れてからずっと背を向けていた。
〈これは失礼を。ヴァン・スタッグ様。私のことは気にせず、どうか夜会をお楽しみください〉
白い文字が宙を流れる。ルナの感情を表しているのか、細く角ばった文字は明らかに拒絶に近い意味を込めて書かれている。なにより、ルナの顔には明らかに嫌そうな表情が浮かんでいた。こういうポーカーフェイスの欠片もないところを見ると、テルスはこの少女に隠し事ができるのか不安になってくる。
「そんな、未来の夫になるかもしれぬ人物を無下にするものではないよ。さあ、中で語らおうじゃないか。ここで見ず知らずの男と話をしているより、ね」
(は……?)
この男は今、何と言った?
ルナと違いテルスはポーカーフェイスを崩さずに驚いていた。
――見ず知らずの男と話しているより。
あの会話を聞かれたかもしれない。
具体的なことは全て隠しながら話していたが、もしかしたら感づかれた可能性もある。いや、それ以前に精霊であるソルの探知をこの男は掻い潜ったのか?
警戒するテルスだったが、ソルの囁きがそれを否定した。
「なんとなく分かったけど……それはないから。あと、君が驚くのはそっちじゃない。はあ……この男に魔法や魔具とやらの気配はないよ。大方、テラスの三人が騒いでいるのが聞こえたってとこさ」
それは良かった。しかし、テラスの三人とやらはどれだけ騒いでいるのだろう。別の意味でテルスは不安になってきた。メルクとティアはヴィヌス少年を悪の道に誘っていないだろうか。
〈私は結婚するつもりはないとお伝えしたはずです。どうぞ、お先に屋敷にお戻りください。私もすぐに友人の浄化師や知人に挨拶に参りますので〉
嫌だなー帰ってくれないかなー助けてー……といった思いがルナの表情から容易く見て取れた。声を聞かずとも、その文字と表情は声色よりも雄弁にルナの心を映しだしている。あまりの正直さに貴族の男も怯むと、
振り返った男は不機嫌そうな表情を隠さず、テルスへと矛先を向けた。
「君、どこの者だい? この方がどなたかご存じなのかな?」
男の機嫌は明らかに悪そうだ。これは酷い。とんだとばっちりである。
「……えー、私は、ドラグオンの者です。えー、そこの方が浄化師であることは存じております。以前、助けていただいたお礼を申し上げていました」
ティアの教育が効いているのか、まだギリギリで猫は被れている。いつの間にかソルはポケットへと逃げ込んだようで、テルスが話し始めてからずっとポケットの中身は震えていた。
間違いなく笑っている。人が困っているのに薄情なネズミである。
「ドラグオン。ということは、君は孤児院の者かな?」
「そうですけど……」
明らかに侮蔑の表情を浮かべて男はテルスを見る。どうやら心の内を隠す気がないのはルナと同じようだった。
「ここにいるということは、君も騎士選定に出場するということか。正直、嘆かわしいよ。騎士というのは何よりも強くなければいけない。何故か?」
「それは――」
「そう! 強さが無ければ、希望の象徴たる浄化師を守れず、多くの騎士を率いることなどできないからだ。しかし、高潔さも兼ね備えていなければならないと私は思っている。何故か?」
「えーと――」
「そう! そうでなくては、人の上、まして、浄化師の隣に立つには相応しくないからだ」
(……答えを聞かない。何故か?)
心の中でこっそりテルスは反抗する。しかし、口には出さない。そんなことをしたら絶対に面倒なことになるに決まっている。それに、大仰に話すその姿と月明りに照らされた容姿に、テルスはようやくこの人物が何者か思い出した。
ティアが解説した一人、優秀と評されていたスタッグ家の人だと。
「だが、今の騎士選定は随分と門戸が広くなった。最終的な選択は浄化師にあるとはいえ、誰でも参加でき、単に強いだけの者が選ばれるなど……ああ、何故こんなことに……」
ため息までも大仰につくと、スタッグはルナに向き直り優雅に礼をした。
「すみません、スノーウィル殿。しかし、私は自分こそが相応しき強さと高潔さを持つ者であると騎士選定にて証明します。『浄天』を除けば、いえ、すでにその域に匹敵する輝きを持つスノーウィル様に選んでいただければ、これほど光栄なことはありません。では、夜会でまたお会いしましょう」
そう言うと男は背を向け、気まずい沈黙だけを残し、この場を去っていった。
「……貴族って、大変なんだなあ」
ポツリと呟くテルス。明らかに嫌そうな人にまで、結婚だのと迫らなくてはいけないなんて。あんな人付き合いはごめんだなあ、と肩をすくめていると、眼前に白く大きな文字が展開されていく。
〈一応書いておくけど、私はあの人と結婚するつもりはないからね〉
「読んだ、読んだ。まあ、申し出がまったくないよりはいいと思うよ、うん」
〈他人事だと思って……あの人が万が一、騎士選定で勝っちゃったら、私はあの人を騎士にしなくちゃいけないかもしれないんだよ……〉
ジト目になって見てくるルナの視線から逃れるように、テルスは顔を背ける。
「断れば?」
〈それは無理かな……私の場合は騎士を選ばないといけない理由があるから。あの人が騎士の称号を授与されたら、ほぼ決定〉
「そういうもんなの?」
〈……テルス、騎士選定のことよく分かってないでしょ?〉
その文字には頷くしかなかった。
魔動気球では尋ねることが出来ず、ドラグオンの屋敷でも時間がなくシリュウから詳しい説明は聞けなかった。
結局のところ、テルスが分かっていることは誰でも参加できること、騎士の称号を貰えること、やたら強い人たちが参加すること、くらいのものか。
〈じゃあ、私が教えるよ。何も知らないで出ると大変だと思うから〉
「お願いする」
〈はい、任されました。まず、騎士選定は誰でも騎士の称号が得られる大会っていうのは知ってる?〉
「あー、うん。シリュウのおじさんから聞いた」
〈じゃあ、これは実は、『騎士』っていう称号で強い人を戦力として抱き込むことが目的ってことは?〉
「……なにそれ、聞いてない」
おかしい。テルスはそんなドロドロしてそうな裏側の話は聞いていない。
しかし、
〈うーん、シリュウさんのことだから、大雑把にしか説明してないんだろうなあ〉
「そうだろうなあ……というか、おじさんと知り合いだったんだ」
〈うん。シリュウさんの騎士団がよく護衛に来てくれるんだよ。それで、この大会はね……〉
ルナは分かりやすいように文字の色を所々変えながら説明を始める。宙に整然と並ぶ文字は教科書でも浮いているかのようだ。そのお陰で、数分後には騎士選定の知識がなかったテルスもある程度は理解することができた。
『騎士選定』とはその名のとおり、騎士を選定することを目的とした大会。
『騎士』とは特に優れた力を示した者に与えられる称号。騎士に選定された者は貴族に近い権力や地位を持つ。具体的には、緊急時の兵の指揮権。王都、各町防衛に関する発言権。騎士団長及び浄化師付き騎士の資格認定等々。
(なるほどなあ)
道理であの人数が集まるはずだ、とテルスは納得する。これは駒者や兵士にとっては成り上がる千載一隅のチャンスだ。それに賞金ももらえるらしいので一攫千金のチャンスでもある。テルスとしてはその話を詳しく聞きたい。
〈選定方法は三日間行われる予選から六名、推薦枠から六名、計十二名が出場する本戦を行い、適性があると判断された者に騎士の称号が与えられる。優勝者は授与確定。その他にも一人から三人、授与されることがあるから、最低一人、多くて四人程度、騎士の称号を授与されることになるかな〉
しかし、壁は厚い。
赤い文字の部分を読むと、今回の予選参加者は約三百人と書いてある。保護用の魔具の存在もあってか、比較的安全が保障されているこの大会には腕試しで出る人も多いそうだ。だが、本気で『騎士』を狙っているものがほとんどだろう。
そんな大規模な大会にいつの間にか出ていたのか、という驚きの一方、よく予選を突破できたな、とテルスは他人事のように感心していた。もっとも予選の参加者を氷漬けにしたのはメルクで、テルスは躱しただけだ。
〈本戦は十二名が同時に戦う乱戦形式。予選でも使っていた保護用の魔具の効果が切れたり、舞台から落ちると失格。最後まで残った人が優勝。そして、新たに生まれた騎士は浄化師付きの騎士になるか選択する〉
「それって、選べるもんなの?」
〈うーん、ここがちょっとずるいとこかな。勝ったら、短剣を授与されるんだけど、金色のと銀色のを選べるんだ〉
なんか童話みたいだな、と頭の片隅で思いつつ、テルスは流れるように書かれていく文字を追う。
〈金色で普通の騎士、銀色で浄化師付きの騎士になれますよって感じかな。大抵の人、特に駒者の人は騎士になれても、面倒な仕事や危険なものは嫌だから金色を選ぶの。でも、金色を選んだとしても、いざっていうときは国の要請に応じなければいけないし、月に一回以上、城に顔を出さなくてはいけないとか決まりが結構あるんだよ。それで、だんだん面倒になって気がついたら騎士団に入っていましたってなる……これはシリュウさんの経験談だけど〉
「こわ……って、シリュウのおじさん、そんな感じであの騎士団作ったのかあ」
〈びっくりだよね。王都最強の騎士団の一角なのに……〉
なんだか、騎士団の団員が可哀想になってくる話だった。
〈つまり、さっきの答えは選べない。騎士の称号を授与された時点で、国の戦力になったも同然。こうやって、強い人を手持ちの駒に加えることが国側の目的かな〉
「やっぱなしっていうのは?」
〈難しいかなあ。称号の返還は王の決定に異を唱えることになるし。テルスもよく考えた方がいいよ。騎士になりたくないなら、短剣を手に取らないこと。夢を持って騎士を目指していたけど、なんか違うぞっていう人が多いそうだから〉
「……うん、聞いといて良かった。ほんっと、ありがとう」
テルスは別に騎士は目指していないのだ。本戦で勝ってしまったら、大変な目に遭うところだった。だが、分かっていれば自分の実力を確かめ、メルクと戦い、ちょうどいいところで負ければいい……それすらできず、瞬殺される可能性も十分あるが。
「そっか、金を選ぶとそうなるのかあ。じゃあ、銀の短剣を、ようは浄化師付きの騎士を選んだら?」
〈まず騎士がお付きになる浄化師を希望して、浄化師は希望している騎士の中から一人を選んでペアになる……という感じかな〉
「なるほど。でもさ、浄化師と騎士が組む必要ってあるの?」
そもそも、浄化師に騎士という護衛がついていなくてはいけないのだろうか。
浄化師を襲うような人はまずいない。魔物の護衛という役なら、魔瘴方界を解放するときは騎士が一人どころか何十、何百もの兵士が浄化師の護衛につくはずだ。それなら、わざわざ騎士を選ぶ必要はない気がしてくる。
テルスの頭に過ぎる疑問に、白い文字が答えていく。
〈浄化師は大きく二つに分けられるの。一つは王都に常にいて騎士団と共に派遣される浄化師。もう一つは積極的に魔瘴方界の探索を行う浄化師。騎士の選定は前者の浄化師にもあるけど、主に後者に必要な決まり。浄化師が魔瘴方界を探索したい場合は必ず騎士がいなくてはいけないって決まりがあるの……ほら、魔瘴方界を調べるだけなら少数精鋭の方がいいから〉
「ああ、そういうことか」
少数で浄化師を守らなくてはいけないからこそ、護衛には高い実力が求められるのだろう。
それに少数の方がいい、という意見にはテルスも頷ける。あの落葉の森の魔瘴方界で生き延びることができたのは、人数が少なかったのも大きな要因だった。少数だったからこそ、魔物に気づかれず、食料も不足せず、素早く移動できたのだから。
(ん? ということは……)
今のルナの説明を踏まえると一つ分かることがある。しかし、それはテルスにとって、いや大抵の人にとっては信じがたいことだった。
「つまり、ルナは魔瘴方界を探索する方になりたい?」
〈うん、そうだよ〉
あっさりと肯定の言葉が返ってきたことにテルスは言葉を失った。
魔瘴方界の探索。それは、あの落葉の森での絶望的な状況が日常になるということだ。あれを経験してなお、ルナはそれを望むというのか。
〈だから、今回の騎士選定で私は誰かを選ばないといけない……〉
文字と表情を見て、ルナが強くそれを望んでいることはテルスにも感じ取れた。だからこそ、心から信じられる仲間が欲しいことも。
〈私は…………〉
途切れる言葉。その続きは待てども書かれることがなく、やがて俯いていたルナは顔を上げ、テルスに微笑むと屋敷を指差した。
〈そろそろ、行こう。話はもっとしたいけど、皆が帰ったら目的が果たせないよ。それじゃあ、ソルを数日、預かってもいいかな?〉
「分かった。ほら、いいもん食わしてもらいな」
ポケットからソルを取り出し、再びルナの肩へ。こちらを見つめてくるソルが何を言いたいか、テルスは十分に分かっていた。
「ルナ」
声をかけると、少し先を歩くルナが振り向いた。
月明りに照らされ、庭の草木が黒々とした影絵を描いている。その景色の真ん中に立つ白いルナの姿が、ほんの少し遠くにテルスは感じた。
「……いや、なんでもない」
言いかけた言葉をテルスはそっと胸の奥にしまった。
力になりたいと思った。でも、何をすればルナの助けになるのか分からなかった。
そんな少年の迷いが風に乗って、少女へ届く。ルナは儚げな微笑みを唇に浮かべると、響くことのない声を紡いだ。
――ありがとう。
声は届かずとも、その思いは確かにテルスに届いていた。去っていくルナに声をかけて、呼び止めたかった。しかし、その言葉がどうしても見つからない。結局、テルスはルナの背を見送ることしかできなかった。
「……はあ」
リーフで見るより星の少ない空を見上げ、テルスはため息を零した。
そして、ルナが去り、一人残った庭でテルスは呼びかける。
「それで、君はいつまでそこにいるんだよ」
「あれー、気づいてたの」
間延びした呑気な声が頭上から降ってくる。僅かな葉擦れの音ともに姿を現したのはメイドの少女だった。
「貴族様が勢いよく飛び出したから、心配して来たんだよ。それよりも……」
「それよりも……?」
何かを堪えるように震える少女に、怒らせたか、とテルスは身構える。
ティアが気配を殺してやってきたのは察知していた。おそらくはルナとソルも。ルナに預けた際、ソルが何も言わなかったのもそれが理由だろう。
貴族が去ってからの話をティアがどこまで聞いていたかは分からない。しかし、間違いなく浄化師に対する作法はなっていなかった自信がテルスにはある。なんといっても、身分だけなら浄化師は貴族と同等以上なのだ。ドラグオン家のメイドにお叱りを受けてもおかしくはない。
が、ティアの言葉はお叱りを覚悟したテルスの予想の斜め上をいくものだった。
「捗るーー!」
「……いや、なにが?」
目にキラキラした星を浮かべ、ティアは叫ぶ。
「だって、だって、『約束だ……必ず勝つ』かーらーの、無言の『待ってる……』だよっ! ボク、こういうドラマチックなの大好きっ。目の前でこんな展開をされたら……いやー興奮してきたー!」
「はい?」
おかしい。明らかに台詞が捏造されている。
ティアの自信満々な台詞変更と十割増しに脚色された演技に、テルスはたじろぐ。あまりに、ためらいのないティアの姿にテルスは自分の記憶の方がおかしいのかと錯覚しかけていた。
「いや待って、俺、そんなこと言ってない。何、聞いてたの!?」
「またまたー。声は聞きとれなかったけど、あの雰囲気は間違いないでしょ。恥ずかしがらなくていいよー。で、テルス、どうやって勝つの? なんでも言ってね。対戦相手の情報は必ず手に入れてくるからっ! でも、闇討ちはよくないよー。やっぱ、こういうのは正々堂々と戦って……」
首を振って異議を申し立てようとするテルスだったが、ティアはまったく止まらない。一直線に突き抜ける純真な眼差しが、テルスの口を塞ぎにかかる。
「あ、うん」
「もう、そんな調子じゃあ勝てないよー。優勝はもう決まっているって言われてるくらいなんだから」
「優勝は決まっている? そういえば、メルクも準優勝候補とか言ってたっけ」
よく考えれば変な話だ。本戦は乱戦とのことだが、準優勝候補ということは最後まで残って優勝候補と戦っている可能性は十分にある。
勝てば優勝、負ければ準優勝。
それなのに、何故か優勝候補とは呼ばれないのだ。
まるで最初から、勝敗が分かっているかのように。
「だって、マテリアル《Ⅳ+》、浄天の浄化師の中で騎士が決まっていない一人。浄化師近接戦闘最強って言われる『四浄天』ミユ・リース様が出るからね。優勝は難しいよー」
歌うように告げられたのは、浄化師最強の一人の名だった。
「……なんで、そんな強い人が参加するのさ?」
「えーと、割と有名な話なんだけど、騎士は嫌って突っぱねるミユ様と、王様たちが喧嘩して、じゃあ、もし騎士選定で負けたら誰か一人選べって話になったらしーよ。それで嫌で嫌でたまらないミユ様が前回の騎士選定で優勝して、それ以降は、どんな申し出があっても勝って突っぱねているの。常勝無敗なこの人が負けるのはまずないよ」
とりあえず、王が関わっているような話が、下々の者まで広まっているところに疑問を持つべきなのだろうか。そして、ミユとやらはどれだけ騎士と組むのが嫌なのか。
「だから、あの推薦枠の貴族と戦ってボコボコにして、『聖女』さんと組むために貴族連中は確実にボコボコにしないと。いや、むしろ貴族など前座っ! 目指せ、打倒ミユ様!」
「何で、貴族をボコボコにしないといけないんだよ」
「だからー、ルナ・スノーウィル様の方が問題なんでしょ! 子供を身を挺して守った『聖女』様、白き『閃手』で魔を祓う浄化師、可憐でおしとやかな『白桜』の姫様!」
「……いや、誰それ」
どれも知らない人だ。テルスの記憶の中のルナだと、名前負けな気がする。
特に『聖女』。テルスにははっきりと魔物を投げ飛ばし、殴り飛ばしと無双するそんな物理系聖女の姿が思い出せるのだから。
「もー、あの人のペアを目指すなら、なるべく勝ち残らないといけないの。テルスは全然事情が分かってないねー」
「事情?」
「そ、事情。ルナさんは自分の身を挺して子供を守ったことから、民衆の人気が特に高いの。それで、貴族からも大人気なんだよ。なんて言ったって、民衆の人気はあるのに、魔瘴方界に行かなくていい理由まで持っているんだから」
何もかもが知らないこと。東の辺境リーフで、それもたった一人で駒者をやっていたテルスでは知り得ぬ世情。次々と告げられる情報にテルスは混乱する。
「それって、どういう……?」
「つまりね、貴族は自分たちの地位を上げるために、浄化師であり民衆人気が高いルナさんが欲しいの。ルナさんは声が出ないから、魔瘴方界で戦うことが難しい人。だから、国からの危険な要請がない都合の良い存在と見ているんだよ」
ティアの丁寧な説明を聞いて、テルスもルナが話さなかった事情を少しずつ飲み込んでいく。
駒者や兵士にとって騎士選定は成り上がりのチャンス。
そして、貴族にとっては、地位をさらに上げるチャンスなのだ。
中でも、ルナは浄化師としてちょうどいい。
取り込めば民衆の支持も得られ、声を出せないルナであれば国から危険な要請がくることはまずない。
つまり、
「ようは、ルナを狙っている連中は魔瘴方界の探索なんてするつもりはない、と」
「そのとーり。あの人たちが欲しいのはルナさんじゃなくて、ルナさんが着ているものだから。付加価値の方が重要なの。貴族の人たちの浄化師になっちゃったら、ルナさんはきっと、ただの着せ替え人形にしかならないと思うよー」
「いや、でも――」
そうなってしまえば、ルナの想いは叶わない。魔瘴方界を探索するという目的は果たせない。
だが、そうならなければいい。可能性ならばもう一つある。そもそも――
「ドラグオンの、四大貴族のメイド兼丸々なボクが一つ予言をしてあげる。テルスが選ばなければ、絶対に貴族がルナさんの騎士になるよ」
テルスの考えを先読みしたかのようにティアはそう言った。のほほんとした呑気な空気を消し去り、メイドとは違う真剣さを持った姿で。
「……何で?」
「何でも……今の浄化師に騎士付きは少ない。騎士の選定は貴族も関わる。推薦枠とは何を推薦するか。民衆が求めているもの……一面から見れば、上の人達も正しいんだろうね」
ティアは詳しくは話さなかった。諦めたように告げるその断片が何を意味するか、テルスには分からない。
しかし、一つだけはっきりとしている。
このままでは、ルナの願いは叶うことはない。待っているのは箱庭の人形。都合の良いように操られ、着飾られる未来しか待っていないのだ。
恩人の進む先が断崖絶壁と知って、何もしないという考えはテルスにはなかった。が、蜘蛛の巣が如く権謀術数をめぐらす世界でテルスにできることはない。
(ああ、ほんと面倒だなあ……)
ルナは多分、一人でもあの領域に挑みたいと思っているだろう。
しかし、魔瘴方界を探索するには騎士が必要で、そして、最初から魔瘴方界探索を望む騎士はおそらくルナを選ばない。
意思の疎通ができようと戦闘の途中で文字を目で追うことは難しい。
まして、極限の状況が続くあの空間で戦うというのに、騎士が不安を残す選択をするはずがない。
だから、ルナに選択肢はない。望む騎士が自分を選ぶことはなく、形だけの鍍金の騎士だけが自分に手を伸ばす。それでも、自分の願いを叶えてくれることを信じてルナは誰かを選ぶしかない。
どうするべきか。どうしたいか。
それは決まっている。だが、テルスには捨てられない約束もあるのだ。そのためにはリーフを長く離れたくない。
深く思考に埋没するテルスはティアに引きずられながら、屋敷へと戻っていく。
約束と想いに縛られたままで。




