セレクション
「ここは……何処?」
名前はテルス。
自分のことは覚えていても、あまりに状況が分からず、テルスは呆然としていた。
テルスは何故か『盤場』の舞台の上に立っていた。周りには屈強な方々が武器を持って睨み合い、観衆が今か今かと何かの開始の合図を待っている。
『盤場』とは競技や演劇などの見世物を行う施設だ。大きさや形状、開催内容は施設によって異なるが、王都最大の盤場であるこの場所は戦いの場。
つまりは闘技場。巨大な正四角形の舞台に残る傷跡が、それを囲む観客席の熱気が、なにより、この空間を包む殺気が、ここが戦う場だとテルスに突き付ける。
それでも、何故ここに立っているのかまでは分からない。ポケットに触れてみると温かい膨らみはある。ソルはいるようだが、出てくる気はないらしい。色々と聞きたいというのに頼りにならないネズミである。
(なんで、俺はここにいるんだろう……)
落ち着かない様子のシリュウが馬車を急かし、王都で一番大きいと言われる盤場に向かっていたことは覚えている。その道中で、戦えるかどうかなど色々と聞かれた気がするが、テルスは二日酔いで答える余裕なんてなかった。突っ走っていく馬車の揺れと、胃からせり上がってくる名状しがたい何かを堪えることに、ただただ必死だった。
目をつぶって耐えていたが、気ぜ……どうやら、眠ってしまったらしい。それからどれほどの時間が過ぎたのか。テルスの記憶にかろうじて残っているのは、寝ぼけながらメイドに背を押され歩き始めたくらいのもの。何故こんな場所に立っているのかは、まったくもって分からないし、分かりたくない。
連れてきたのがシリュウでなければ、剣闘士にでもさせられたと思うくらいだ。いや、戦い大好き人間であるシリュウだからこそ、その疑念がテルスの頭から離れないのかもしれない。
「俺、今から何させられるんだろう……?」
目を爛々と光らせ、鼻息も荒く武器を握り締める人たちに囲まれている。正直怖い。状況についていけず怖い。
テルスはとにかく一刻も早くここから離れたかった。
「おいっ! なんでここにお前がいるんだよっ!」
いらつきを隠さない声。しかし、今のテルスには心の支えになるような声が聞こえてきたのはそんな時だった。
振り向くと、そこにはリーフの駒者がいた。名前は覚えていないが、よく自分に突っかかってくる駒者たちだとテルスは記憶している。だが、嫌われていることが気にならなくなるくらい、今のテルスにはこのガラも人相も悪い二人の男が救世主に見えた。
「ここは何処ですか?」
「はあ? 何言ってんだ? いいから帰れよ。ここはお前みたいな実力も歳も何もかも足りない奴がくるところじゃないんだよ鼠が」
返ってくるのは辛辣な言葉。リーフの駒者と話そうとするといつもこうだ。
さて、どう聞けば答えてくれるだろう。テルスが悩んでいると、この二人を探しに来たのか見知った人物が現れた。
「おい、下っ端ども! もう始まるぞ。こんなところで油売ってないで……って、坊主! 何でここに!?」
「あっ、おやっさん。久しぶりです」
口をぱくぱくと金魚のように開け閉めする禿頭の男。五年前、駒者の仕事を始めた頃からの顔見知りであり、リーフの駒者を纏める年長者にテルスは軽く頭を下げる。
「おま、なんで、ここに!?」
「いや、俺も分からないんですが、いつの間にかここにいて……ここは何処で何するところですか?」
「そりゃ、戦うとこ……はあ、お前がいるんじゃ、もう無理だな。ちょうど王都まで来てたから、力試しついでに金を稼ごうと思ってたのによ」
テルスを置いて、おやっさんは諦めの表情を浮かべ、愚痴り始めた。そんな様子が気に食わないのか、下っ端の一人は苛立ちを隠す様子もなく吐き捨てる。
「冗談はやめてくれよ、おやっさん。こいつがいたところで何の変りもねえでしょ。マテリアルもない雑魚、むしろ勝率が上がったってもんだ。おやっさんも、こいつには関わるなっていつも言ってんじゃんかよ」
「……ほんっと、どこで話が捻じれてるんだか。悪意すら感じるぞ、これ。お前な、それはこいつに関わるとお前たちみたいな、マテリアル《Ⅱ》の奴らが死ぬからだ。なんてったってこいつは馬鹿だからな。一人で《Ⅲ》を複数相手にしようとする命知らずにひょいひょいついてったら、こっちの命が危ねえんだよ。俺は絶対に忘れねえぞ……遠征についてきたこいつが……やべ、思い出したら、ちびりそうになってきた」
男たちは数秒をかけようやく、おやっさんの言葉を理解したようだった。
「……は? 冗談でしょ? 何言ってんすか、おやっさん」
「いや、だからこいつには、俺たちは勝てねえんだよ。何でお前たちが勘違いしてんのか知らないが、こいつは十三の頃には……うわっ」
その気配は、まるで波の如く押し寄せてきた。
緩んだ空気を洗い流し、ここが戦場だと示すかのように。
自分の命が脅かされる感覚。おやっさんが蛙が潰れたような声を上げたと同時に、テルスは一つため息を零した。
ここにいる理由はまだ分からない。しかし、この瞬間、一つはっきりとしたことがある。
「あのー……」
葉風の町リーフなんて片田舎に過ぎない。そんな場所でいくら強かろうと、この場ではなんの関係もない。
その証拠に、二人はまだ気づいていない。テルスやおやっさん、他の人々が何に怯え、武器を握りしめ、魔力を溜めてまで警戒しているのか。
「勝ち残りたいなら、あれを何とかしないと」
テルスはすっと舞台の反対側、他の人々が睨む、その場所を指差した。
そこに立つのは、一人の男。
青みがかった黒髪は溢れる魔力に揺れ、その圧が背筋を震わす。構えた『叢雨』は霧を生み、その先端からは水滴が零れ落ちていた。まるで、砂時計だ。解き放たれるその時を男は静かに待っている。
そう、魔力を漲らせ集中する、メルク・ウルブスが立っていた。
テルスとメルクの目が合う。メルクは僅かに驚いた様子を見せるも、すぐに獰猛な笑みを浮かべ、一層魔力を魔具に込めていく。意識を集中せずとも、大気を震わすような魔力が集まっていくことが嫌でも分かった。
「あ、そっか。戦いたいとか言ってたなあ……」
「う、嘘……だろ……」
「なんだよ、あれ……化け物じゃねえか」
「さて、テルス、一つ相談なんだが……」
その先はテルスは聞き取れなかった。
おやっさんの言葉を遮るように大音量の声が響いたからだ。
『さあ、いよいよ予選最終日の戦いの始まりだあ! もう三日も開催しているから皆、分かっていると思うけど勝者は二名。二名になったらそこで終了! タイマンは最後の最後までとっておくんだよ! あと、保護用の魔具が切れたら失格。参加者は自主的に退場しないと巻き込まれて死んじゃうかもしれないから、気をつけてね。さあ――』
頭上から降ってくる土砂降りのような轟音。戦いの始まりを告げる合図に興奮し、観客が叫ぶ。
保護用の魔具とは、この首から下がっているものだろうか。靄がかかったように不鮮明だったが、ドラグオンのメイドから渡された記憶があるような気がする。
いつもの癖でテルスはピンと指で首飾りをはじく。シンプルな銀のリングに青い魔石が付いた簡単なつくり。見回せば、どの参加者の首にもこれがかかっていた。
(これ、くれるのかなあ……でも、今は――)
ちょうど欲しかった魔具が手元にある。だが、そんな呑気なことを考えている暇はない。鞘に手をかけ、メルクと同じく魔力を集中させる姿に、リーフ出身の駒者二人は息を呑み、おやっさんは諦めたように空を仰いだ。
『ではでは、『セレクション』予選――始め!』
瞬間、波濤が押し寄せた。
宣言と共に、横薙ぎに振るわれたメルクの魔具から巨大な波濤が溢れだす。巨大すぎる大剣を象った『水』に人々が飲まれていく光景は災害そのものだ。
逃げ惑う者、立ち向かう者。それらを全て頭から排除し、テルスはただ盤上の駒を洗い流す水流に集中する。
一歩。
押し寄せる猛威にテルスは踏み出す。その姿も虚しく水に飲まれ、水は舞台から溢れることなく凍り付き、氷の花を開かせた。
『セレクション』開始から僅か三秒――氷花の上に立つはただ一人。
氷上に立つメルクの姿を見て、観客席の一角では悲鳴のような雄たけびが上がっていた。
「あああああああっ、くそっ! テルスの奴、予選で負けやがったあああ!」
シリュウが恥も外聞も捨て大声で叫ぶ。
待ちに待ったテルスがようやく王都にやってきて、予選の最終日にもギリギリ、本当にギリギリで間に合ったというのに相手が悪すぎた。
どう考えても、今の『水』と『氷』の魔法を発現した奴はマテリアル《Ⅳ》だ。あんなのに当たったテルスの運が悪い。
それを理解していようとも、シリュウは落胆を隠せない。孤児院の子供は自分の子供。それはテルスとて例外ではない。むしろ、シリュウとしては自分が救い出したこともあってテルスへの思い入れは強く、子供の晴れ舞台での活躍を祈る親心のようなものがあったのだ。
「仕方ないのではー? あれは運が悪いですよ」
「そりゃあ、分かっているがなあ。くそう、どうせ正直に説明したら遠慮すると思って、遠まわしに参加させたってのに。馬車の中で寝ていたのも都合が良かったのに……最後の最後で運に見放されやがって、テルスの奴……」
それら全てはテルスにとって『運が悪い』方だということに気づかず、シリュウは深々とため息をつく。あまりの落胆ぶりに隣のメイドもかける言葉がない様子だった。
しかし、
「まだ終わってませんよ」
黒猫の少女が後ろから、そう声をかけた。
「ん? お前さんは駅でテルスの隣にいた……」
「タマ・フェリスと申します。ドラグオン様、失礼ですが試合はまだ終わっていません」
そう言って、タマが指差した先で、
大輪の氷花が両断された。
割れた氷の隙間からテルスが現れる。滑るように疾走する先には、待っていたと言わんばかりにメルクが無数の『水』の魔剣を発現させ、待ち構えていた。
――始まる。
壮絶な戦いの始まりを予感させる光景に、観客たちが息を呑む。そして、
『試合終了~! 残った二人は五日後のセレクション本戦に出場だあ~! 一瞬で舞台を氷に閉ざす大魔法とそれをしのぐ猛者。いやー、両者共に本戦が楽しみだっ! そして本戦の司会も変わらずこの、デネビオラ・スワンが担当します! よろしくねっ!』
終了の合図に、シリュウは喜色満面で観客と共に吠える。
その様子は貴族というよりも、ただの親馬鹿な父の姿だった。
その一方、終了の合図にずっこけたテルスは冷たい氷の上でぼやいていた。
「だから、『セレクション』って、何……?」
その疑問に答えてくれる人は残念ながらいない。テルスの呟きは冷たい氷の上を滑り落ちていった。




