窮地
影のようについてくる虫の蠢く音。
その音から、テルスとルナは逃げ続けていた。
太陽は真上にあるというのに黒い胞子が舞う森の中は薄暗い。道は今にも黒い影に飲まれそうで頼りなく、糸のような道を辿る二人の額には汗が滲んでいた。
それは疲労だけが理由ではない。
魔物は間違いなく自分たちを追いかけている。しかし、振り返って背後を確かめても、そこには何もいない。通り過ぎた獣道には黒い影が広がっているだけだ。
それなのに、虫が蠢く音が二人の耳から離れてくれない。もう、この音が本当に後ろから聞こえているのかも定かではなかった。
――気が狂うとはこんな感じなのかもしれない。
そんな思いが、テルスの頭に浮かぶ。
テルスがここまで来ることができたのは約束があったからだ。優しい弟分と頼りになる相棒を守りたいと思ったからだ。
その思いがなければ自棄になってがむしゃらに魔物と戦っていただろう。何より、どこからか這いよる得体の知れない何かを確かめようとしていたはずだ。
人が怖いと思うモノ。
得体の知れぬ、未知の何か。
真っ暗闇の中、手を伸ばした先に何かが触れる。髪のように細い何かが指先に絡みついているような感触。それは突如、指先から凄まじい勢いで腕を這い上がってくる。そして、袖の中へと侵入し……なんて事があったら迷わず飛び退いて、払いのけようとするはずだ。
テルスも、おそらくはルナもそんな思いに苛まれていた。
どこから聞こえてくるかも分からなくなった音。魔物がどこに潜んでいるのか。ただ、それを確かめたい。木を切り倒し、茂みを揺らし、魔法を四方に撃ち込んで、こんな、いつ襲われるかも分からない状況から脱したい。
しかし、それをしてしまえば擬態しているはずの魔物を刺激し、追いかけてくる魔物が増えてしまうだけだ。そう頭では理解していても……思考は延々とループしていく。
これがこの王域の性質のようなものなのだろう。
擬態する魔物に騙されてしまえば戦うことになり、奥へと進むほどにその数は手がつけれないほど膨大になっていく。そして、どこに潜んでいるかも知れぬ魔物を恐れ、瘴気に理性を削られ、心が弱くなったところで、この王域は真に牙を剥く。逃げ出したものは罠の餌食になり、森を荒らせばより状況は悪くなっていく。
そんな、蟲による罠の森。
「ああ本当に……」
趣味が悪い。
今にも割れそうな薄氷の上にいる思いで二人は森を進む。折れかけた心を支え、余計なことを考えず、ただ前だけ見つめてを走り続けた。そして、
「着いた……?」
〈うん、ここを抜ければ最奥のはず……あの林がそう〉
茂みを抜けた二人の先に広がっていたのは草原。
視界を遮るものはない。腰ほどの高さの草が風に揺れる中、ルナが指差した場所には、ぽつんと周りから隔絶されたように一際黒い木々が生えた林があった。
「ざっとあそこまでは、三百メートルくらいか」
〈そうだね、やっとゴールが見えた。でも、この原っぱにはインセクタの巣があるし、ティザーニアが飛び回ってるから透明化の魔法を使って進まないと。足元にも気をつけて〉
「了解っと。この王域に入って最初に痛い目を見たのは落とし穴だったからなあ。うん、もう絶対に引っかからない」
希望を胸に二人が踏み出す足は、先程よりも力に満ちていた。
そうだ。もうゴールは見えているのだ。姿を隠して走り抜ければこんな距離など一分もかからない。
そのはずだった。
「……なんだよこの数」
蟻が群がる餌。
それが今のテルスたちだった。
たった数歩で無数のインセクタたちが現れ、それを避け、進んだ先にまた無数のインセクタが巣穴から這い出てきた。
そして一分もしないで、見晴らしのよかった原っぱは虫を模した人型の魔物が溢れる光景となった。
こんな数がいてテルスたちが未だに見つかっていないことが不思議なくらいだ。
「どうする?」
テルスがルナに投げかけた言葉。それはもう質問ではない。
倒して強引に前に進んでいいか、という確認だ。
人がすり抜けて進むスペースなど、ギリギリあるかないかといった程度。終着点であった林はインセクタの群れに阻まれ見ることもできない。最早、この壁というべき魔物の群れを突破するには強引に突き進むしか手段はない。
〈突破しよう。なるべく攻撃しないように前に進んで、もう攻撃するしかないってなったら、一気にあの林まで走ろう……ほとんどの魔物が王域に足を踏み入れないように、王の住処にはここの魔物も足を踏み入れないはず。もちろん、王がいなくなったら襲われるだろうけど……〉
「それなら問題なさそうだ。そもそも、王様のとこに辿り着けないと意味がないし。むしろ、ここのインセクタとかが入ってこないなんて、魔瘴方界で唯一良心的なとこなんじゃない?」
〈うん……そう、だね〉
それは、最初に見つかったときの混魔を含む群れにも同じことが言えた。
あのまま混魔たちに襲われていたら、テルスたちはまず助からなかった。魔物が踏み込まない領域。その魔瘴方界の仕組みはテルスたち侵入者からすれば救いでしかない。
それが少しだけテルスは気になっていた。
魔物さえ禁忌とするその領域はなんなのか、と。
ただの一駒者であるテルスさえ疑問に思うそれを、浄化師のルナが気にならないはずがない。突破しようと書きつつも、どこかためらいを浮かばせたルナの表情にテルスも今一度これでいいのか、と自身に問いかけていた。
だが、決断を急かすように背後の森からも魔物が溢れてくる。
木々をなぎ倒し、現れた魔物はテルスが見慣れた飛蝗や蝉、蜻蛉以外にも、見たことがない魔物が数多くいる。ハンミョウ、オケラ、巨大な蚊……それ以外はほとんど元の型を判別できない。もう見ただけではなにが元になっているかも分からない魔物が大半だ。
「迷ってる時間もない、か。ルナ、行こう。あれと挟撃なんてゾッとしない展開は俺は嫌だ」
〈それは、私だって嫌だよ〉
逃げるように、インセクタの間を縫って二人は進む。が、やはり思ったように前に進むことができない。
背後の魔物たちが原因ではない。現れた魔物の群れは何処に襲いかかればいいのか判断しかねているようで動きはない。
面倒なのはインセクタたちだ。
〈なんか、おかしい……なんでこのインセクタたちは……〉
思ったことを無意識に書いているのか、その文字は一人呟いた言葉のように誰かに向けられたものではない。それでも、テルスはルナの心境は理解できた。
インセクタたちはテルスたちに直接襲いかかることはない。だが、囲むように、邪魔するようにテルスたちの進路に立ちふさがる。
行動が中途半端だ。
侵入者に襲いかかるわけでもなく、気づかず動かないわけでもない。これでは、まるで先ほどの死人のようだ。
「つ、とっ」
テルスが踏み出した先の地面から、インセクタの頭が現れる。テルスの唇から漏れた息が聞こえた様子はないが、次々と現れるインセクタはしきりに周囲を見回し、目の前のテルスたちには気づかず、散開していく。
「ルナ、インセクタたちは何に反応してると思う? 音……匂い……でも、それならもっと積極的に追いかけてくるよな」
〈……魔瘴種虫人型生物インセクタ。マテリアルは《Ⅱ》。王域の巡回と侵入者の排除が主な役割。王域には四方にインセクタが巡回に使う獣道があり、中心部付近のインセクタの巣まで繋がっているその道は王域を進むルートとして推奨されている。知能があり、単体で侵入者を排除しようとせず、仲間を呼ぶ厄介な習性。巣穴を形成し、姿は確認されていないが女王のような存在がいるとされ、元の型は蜂や蟻に近いのではないか、と言われる。群れとしての危険度は高いが、五感は人間以下、攻撃も木の枝を加工した槍程度で単体の力はかなり低い……これが私が覚えている限りの情報かな。でも、ここまで来たらもう記録には頼れない。自分たちでこの魔物の習性に気づかないと……私は巣穴が真下にあるから音に反応しているんだと思うんだけど……〉
「それだと、動いていないのに仕切りに探し回る行動に説明がつかない。無差別ならまだしも、少しずつ近づいてきているし……おっと、そろそろ動こう、このままだと身動きできなくなる」
ルナの耳元で囁き、テルスは安全そうな道を選び進んでいく。
よく足元の草を見れば踏み倒されたような跡がある。この跡がない部分を選び、進んでいるのだが、インセクタたちはテルスたちの位置に気づいているかのように道を阻む。
ルナの透明化の魔法も永遠にはかけ続けることはできない。背後の魔物の群れとインセクタに同時に襲われ、あの林までたどり着けるかをテルスは考え始める。
(きついけど……無理ではないな)
もう少し進めればいける。前後の魔物が逆ならば不可能だったかもしれないが、インセクタが相手なら……
「んっ、なに?」
不意に肩をつつかれテルスが振り向くと、ルナの赤文字が宙に書かれていく。
〈もしかしたら、テルスの……〉
テルスはルナの文字を全て読むことができなかった。
大きな羽音。遥か上空で大気を揺らすその音が聞こえたからだ。
隠れる場所はない。だが姿は透明になっていて、分からないはず。テルスとルナは顔を合わせるとその場に小さくしゃがみこんだ。
数秒もせず、大きな影が草原に落ちた。
魔瘴種蛾型生物ティザーニア。ついに二人はその全容を目にする。
分かってはいた。
最初に頭上を通り過ぎたときにその大きさも、相手にしてはいけない魔物であるとも理解はしていた……そのつもりだった。
「でかすぎる……」
体は褪せたような茶色。インセクタや蓑虫もどきと同様に、擬態には適してない体色。翅の先端には後から付けられたようにギョロギョロと動き回る血走った目が付いている。
そして、そんな特徴がどうでも良くなるほどに大きい。胴体だけでも今まで目にしてきた魔物のどれよりも巨大だというのに、その翅はもっと長く、草原の半分は埋まるのではないかと思うほど。そんな大きさで、遥か上空を悠々と飛んでいるのだから手がつけられない。つけられるはずがない。
勝ち負けじゃない。そもそも、これとどう戦えばいいのか分からない。
テルスとルナの前に現れたマテリアル《Ⅳ》の巨大な魔物は、インセクタが徘徊することを異常と見なしたのか、通り過ぎず、上空を旋回している。
そして、止まったかと思うと、大きく翅をそらし――
まずい。
この魔瘴方界に入ってから、これほどシンプルに身の危険を感じるのは初めてだ。収束する魔力と風。壁の代わりになる物もこの草原にはなく、防ぎきれる魔法はテルスたちの手札にはない。
騒ぎ出す魔物たちを横目にテルスは賭けに出る。
「ルナ、こっちだ!」
テルスはルナの手を引き走って、インセクタの巣穴へと飛び込んだ。
「【道化の悪戯】」
幸いインセクタと鉢合わせることはなかった。思いのほかしっかりと固められた土壁に手をあて、テルスは魔法を行使する。
巣穴の上下を塞ぎ、ルナとシュウを抱き寄せ、可能な限り体を小さくした。
そして――
爆音と暴風がテルスたちを襲った。
もみくちゃになりながら吹き飛ばされる。ようやく、自分の意思で体を動かせるようになったかと思えば、テルスたちはティザーニアにほど近い空の高さにいた。
「……はっ?」
気がついたら、空の上にいる。その現実にテルスは僅かな間、呆けた。
竜巻のようなもので、地面ごと吹き飛されたことに気づくのに数秒。抱き寄せたルナとシュウは奇跡的に離していない。テルスが現状を確認している間も、土砂と魔物が入り混じった怪雨に紛れ、テルスたちは大地へ落ちていく。
何もしなければ死ぬのは明白だ。木が指ほどの大きさにしか見えない高さなど、恐怖でしかない。もう飛びたいなんて絶対に思わないとテルスは固く心に誓って、呪文を叫ぶ。
「【道化の悪戯】! 風で落下速度低下! 地面を耕せ!」
見えもしない精霊に向けた指示。それは意図したものではなく、この危機的状況に自然と零れ落ちたものだった。
言葉にしても意味はないはず。だが、上昇気流を巻き起こし、魔法の効果範囲に入った瞬間に、ありったけの速度で大地を耕したその効果は心なしか強かった気がした。
テルスの魔法に加え、ルナの【閃手】がまさに地面に手を突くように伸びる。近づく大地に二人は目をつむり……ぼすん、と柔らかな大地に受け止められた。
「うぐっ……助かった、ありがとう」
無事に着地はできたものの、抱えたルナとシュウの体重がテルスに重くのしかかる。掠れた声で見えない精霊とルナに感謝をすると、土砂を払いのけながら体を起こした。
周囲はたった一度の魔法で一変していた。
ティザーニアが巻き起こした暴風は地面を捲り上げ、魔物すら巻き込みながら、テルスたちを吹き飛ばしたようだった。緑のカーペットのような草原はもう見る影もない。茶色く染まった大地は耕された農地のよう。そして、その農地では大地に衝突し、体がおかしな方向に曲がったインセクタたちがもがいていた。
「巣をひっくり返されて、殺されるなんてインセクタもついてない……ルナは大丈夫?」
〈……うん〉
ルナは砂が入ったのか目をこすっている。テルスも口の中にまで入り込んだ砂をぺっと吐き出しながら、魔物の様子を窺う。
「ああもう、なんで増えているんだよ……」
テルスは数を増した魔物に空を仰ぐ。そして、未だに上空を旋回しているティザーニアが目に入り、今度はがっくりと肩を落とした。
残念ながらあれほどインセクタが死んだはずなのにその数は減っていなかった。それどころか地表の異変を嗅ぎつけたのか、先ほどよりも多くのインセクタが巣穴からわらわらと這い上がってきている。
巣穴から出てきたインセクタは森から溢れた魔物と共に、悠々と上空を飛ぶティザーニアに抗議するように、空へと鳴き始めた。
キィギィ、とガラス戸を爪で引っ掻くような耳障りな音が合わさり、不快な虫たちの合奏となる。
そこに、加わってはいけない声が混じった。
「うわあああああ!!」
ピタリ、と止んだ合奏。
そして、一斉に魔物たちがテルスたちがいる場所を睨んだ。
テルスとルナも同じように背後を振り返った。すると、そこには目を覚ましたシュウが驚愕の表情で固まっていた。
最悪なタイミングでの目覚め。
別にシュウは死んだわけではない。あんなに体を揺らしていたのだから、起きても不思議ではない。
むしろ、こんなことになるのなら起こしておくべきだったのだ。
目覚めたら周囲は虫の魔物でいっぱいでしたなんて、子供なら泣き出すのが普通なのだから。おまけにここは魔物の巣窟。ただでさえ魔物から感じる恐怖に慣れていないシュウは、魔物の大群を前に小刻みに震え、その口からは声にならない声が漏れていた。
「……ルナ、この距離なら何秒で林につく?」
〈十秒くらいかな。抜け目ないね。林に近づくように落下するなんて〉
「いやいや、あんな状況ですぐに透明化の魔法を使っている君の方が、俺には不思議なんだけど」
テルスがシュウに目を向けると、シュウは目を閉じ口に手を当てて震えていた。何がどうなっているかも分からないだろう。怖くて仕方がないだろう。それでも、すぐに声を出さないよう口を塞いでいる辺り、この子は賢い。
「シュウ、大丈夫だから。ほら、息を吸って……吐いて……」
軽く抱きしめ、くしゃりとシュウの頭を撫でると、少しずつシュウの震えが小さくなっていく。
「そこの白い人の言うことをしっかり聞けよ。あと、なるべく静かにしておくこと。そうしたら、もうちょっとでここから出られる。ええと、分かった?」
こくりとシュウは頷いた。それに小さな笑みを浮かべテルスは答えると、
透明化魔法の外側へと足を踏み出した。
 




