白との出会い
木々をすり抜け飛んでいく魔物の影。
その脚が掴む子供は意識を失っているのか、動く様子はない。一刻も早く追いつこうとテルスは馬を急がせるが、この森の中では思うように速度が上がらなかった。
「もう、馬じゃ進めないか……」
ここは落葉の森の中。
魔物を追うどころか、木や魔物に邪魔され前に進むことすら難しい。
ただでさえ、乗馬経験すらないのだ。走ったほうがいい、そう判断したテルスは馬から飛び降りた。
「ありがとう。気をつけて帰りな」
馬の尻を叩いて、町へ帰らせる。嘶き、もときた道を走っていく馬には感謝してもし足りない。門にいた衛兵さんから無断で借りてきたが、乗るのに不慣れな自分をここまでよく運んでくれた。
いい馬はなんとなくでも走ってくれるんだな、とテルスは目から鱗が落ちる思いだった。
魔物を縫うように躱しながら、テルスは走り始める。
魔力を体に巡らし、【強化】の魔法を使ったテルスは木々の間を吹き抜けていく風のように速い。
しかし、それでも蛾型魔物ブレニーナに追いつくことができない。速度はテルスの方が速いが、次々とキャタピラーを始めとした煩わしい虫型魔物たちが現れ、道を阻んでくる。
「ああもう、人が退治しにきたときは出てこないくせに」
魔物たちを相手にしている暇はない。ブレニーナを見失えば、後を追うことができなくなる。それに……
(……近い)
いつかと同じ、体に染み込んでいくような不快な空気。
周囲に漂い始めている瘴気に、魔瘴方界は間近だと直感する。
急がなくては。テルスは腰のポーチに手を伸ばすと、ボールのようなものを取り出した。
周囲を取り囲む魔物は全て虫型。それなら、これが効くはず。
魔物は大きく分けると二つに分類される。
一つは黒い瘴気から発生する魔物。こちらは様々な生物の因子を組み込んでいたり、既存の生物とは似つかない姿が多い。複数の因子を取り込んでいる異形の魔物は、『混魔』と呼ばれるものもいる。
もう一つは生物が瘴気に汚染されて生まれたもの。キャタピラーなどのように、生物が瘴気に汚染され、巨大化や凶暴化した魔物。体は瘴気と化しているものの、こちらは元の生物の特性も色濃く残っている。
例えば、魔物になろうとも、殺虫効果がある薬草が効いたりするとか。
地面に叩きつけた玉から煙が溢れ、もうもうと周囲に広がる。何匹かの虫型魔物は嫌がるように鳴くと、ツンとした臭いの煙から逃れようと離れていった。
その隙を逃さず、テルスは再びブレニーナを追う。足を止めた時間はほんの数秒だというのに大分、距離が離されていた。
このままでは、とテルスは唇を噛む。事態は一向に好転してくれない。テルスを嘲笑うかのように魔物が道を塞ぎ、抱える焦燥は加速していくばかり。
見つけた獲物へ喜々として襲いかかる獣の魔物やゴブリンの群れ。その中には、トロルまでいる。いずれも煙玉の効果が薄い魔物たちだ。
まともに相手をしていたら時間切れになることは明白。
トロルの追走を木々を縫うように走ることで躱し、茂みから飛びかかるゴブリンを刀で払いのけ、ただ前だけを目指しテルスは森を進み続ける。
だが追いつけない。どうしても追いつくことができない。
むしろ、森に入ってから少しずつブレニーナとの距離が開いているようにテルスは感じていた。
「撃ち落とす……のは駄目か」
魔力を飛ばす魔法【魔弾】でブレニーナを攻撃しようにも、木々が邪魔で届かない。それに、闇雲な攻撃ではシュウを傷つけてしまう可能性がある。悩み、打開策が見つからぬまま、タイムリミットだけが刻々と近づく。
そして、ついにテルスの視界にそれが映った。
魔瘴方界へと続く境界。魔物と人の領域を分けるその黒き壁が。
影の如く黒い半透明な壁は、全てを拒むかのように存在していた。視界一杯に広がる、天に届くほどの巨大な壁を目にして、もう一刻の猶予もないことをテルスは悟った。
あそこを越えてしまえば、追いつくことはさらに困難になる。それに……
「……っ、もう、か……」
それはいつかと同じ感覚。
少しずつ少しずつ、無数の虫がたかるように瘴気がテルスを蝕んでいく。痛みが全身に走った。だが、まだ小さな痛みだ。魔瘴方界の中ではこれとは比べ物にならない痛みが襲うことをテルスは知っている。
もう、迷っている時間はなかった。シュウもこの痛みを感じ始めているはず。
テルスは危険を承知でブレニーナを攻撃することを決断し、狙いを定めるが、
「――っ!」
突如、茂みから飛び出してきた太い腕に回避を余儀なくされる。
転がることで躱したテルスが顔を上げると、先回りでもしたのか後ろにいたはずのトロルが道を塞ぐように立っていた。最悪のタイミングで入った邪魔。この妨害が意図したものでないことは、涎を垂らすトロルの顔を見れば明らかだ。
倒れているテルスにトロルだけでなく、犬型魔物カニスも獲物を取られまいと、牙を剥いて飛びかかる。数歩先に死が待っているような危機的状況。
しかし、テルスは迫る狂犬の牙を見据えながら冷静にタイミングを計っていた。
「――ソードペア」
灰の剣閃が走った。
剣閃の正体は【魔刃】と【道化の悪戯】の合わせ技。伸びた魔力の刃に両断され、カニスは黒煙へと変わっていく。
その骸を踏み潰し、迫るトロル。しかし、魔法を使えばトロル程度に後れは取らない。返す刀で無防備な首を狙い、即座にトロルの首を斬り飛ばす。
紙一重とはいえ魔物を素早く倒すことができたことを安堵する時間はなかった。迫る後続の魔物から身を隠すため、テルスは煙玉を地面に叩きつける。
そうして、なんとか魔物を巻き、白煙から飛び出たテルスが目にしたのは、
境界を越えるブレニーナの姿だった。
「くそっ!」
何か白い光がブレニーナに飛んで行った気もしたが、今はそれを気にかける時間もない。
追うか、諦めるか。
境界の向こうを飛ぶ魔物の姿は朧げながら確認できる。ならば、まだ可能性はある。それに約束をした以上は諦める選択肢はない。少しの間なら、とテルスは襲いかかる苦痛を覚悟し、境界を越えようと踏み出す。
同時に、背後から何かが落ち葉を踏む音がした。
(――魔物!)
振り向いた先にいたのは魔物ではなかった。
そこにいたのは、見覚えのない白装束の人物。
フードが付いている真っ白な装束に身を包み、背中には駒者がよく使う茶色のバックパックを背負っている。しかし、どう考えてもテルスには目の前の人物が駒者には見えなかった。
「誰? 今、急いでいるんだけど」
〈その先に行くのですか?〉
白装束は喋らず、宙に文字を書いていく。テルスがその様子を訝しげに見ていると〈喋れないのです〉と文字が浮かんだ。が、テルスは警戒を緩めない。
(背後から魔物が来ない。気づかれずにこんなとこまで来た……?)
散々追われ、煙玉を駆使してようやく巻けた粘着質な魔物の群れ。しかし、この人物の背後から魔物の群れが迫る気配はない。それに身につけている白装束も綺麗なもの。汚れ一つないその白い服からは、魔物と戦いここまで来た様子は見て取れない。
不可解な怪しい人物。だが、今はこんなのに構っている時間はなかった。
「行くけど。じゃあね」
そう告げ、テルスはその一歩を踏み出した。
壁に触れている感覚などない。抵抗なく足は境界を突き抜け――魔瘴方界の大地を踏んだ。
――その一歩で世界は変わり果てた。
影が濃い、仄暗い景色。
肌に感じる異質な魔力に鳥肌がたち、広がる空気は酷く澱んでいる。
戻ってきてしまった。
まさか、もう一度この地に入ることになるとはテルスは思いもしなかった。目の前に広がる光景に、思い出したくもない断片的な記憶が嫌でも記憶の淵から湧き上がってくる。
そして、記憶と同じ、体を襲う苦痛を耐えようとテルスは歯を食いしばる……が、その痛みはいつまで経ってもやってこなかった。
苦痛の代わりに温かな白い光が体を覆っている。それに首を傾げるテルスの隣には、いつの間にか白装束が立っていた。
「なんで、ついてきてるの?」
〈私も子供を助けに来たんです。浄化師もいないのに魔瘴方界に入ろうとするなんて無謀すぎです。ちょっと動かないでください〉
浮かぶ文字を読んでもいまいち状況が掴めないテルスだったが、隣に立つ白装束が浄化師であることは理解できた。
魔瘴方界に入れる唯一の存在が、何でこんなところにいるのかなど疑問は尽きない。だが、隣に立つ浄化師の真剣な空気と白い魔力に押され、テルスは黙って様子を見守る。
浄化師は胸の前で祈るように手を組んだ。すると、白い光がテルスと浄化師を包み込み、薄いヴェールのようなものに変化する。
「なんかの魔法?」
〈ええ。この光の中ならば私たちの姿は外から見えなくなります。早く追いましょう。光の外には出ないでくださいね〉
「了解」
なるほど、とテルスは心の中で納得した。
姿を隠す魔法があったならば、この浄化師が魔物に追われていないのも頷ける。これなら、ブレニーナに追いつくのも難しくないかもしれない。
二人は遠くを飛ぶ魔物に追いつこうと大地を強く蹴り、降り積もる落ち葉を巻き上げながら前へと走っていく。
もっと速く。ただ目的の魔物だけを目指し進んでいく。時折、森の異変に気づいた魔物が茂みから姿を現すも、キョロキョロと辺りを見回すだけで、テルスたちを追ってはこない。姿が見えなくなる透明化魔法の効果は魔瘴方界にあっても絶大だった。
魔物に存在を感づかれてはいる。
だが、姿が見えなければ魔物も戸惑う。透明人間となったテルスたちは、十数分を過ぎてもいまだに魔物と交戦せず前に進めていた。魔物の妨害が減ったことにより、シュウをがっしりと脚に掴んで飛ぶブレニーナにも追いつき始めている。
しかし、
「……このままだと、ギリギリ間に合わないか」
〈そうですね。王域が見えてきています〉
――王域。
黒い胞子が漂う魔瘴方界の王が住まう領域。
黒く染まった魔素である瘴気の濃度が増し、胞子状となって漂うその場所は人にとって絶望の世界。魔瘴方界に住む魔物ですら、一部を除いてそこには足を踏み入れない禁域と言われる。
王域にブレニーナが入ってしまえばシュウを助ける望みが完全に絶たれる。今でさえ、もう手遅れになっているのではないか不安で仕方がないのに、王域に入ってしまえばそんな希望すら抱けなくなる。
最後の一線がブレニーナの進む先に見え始めていた。
「撃ち落とすよ」
〈フォローします。あの子を助けたらすぐに離脱しましょう〉
浄化師が宙に書く文字は、走るテルスの前で一定の距離を保って浮かんでいる。便利だな、と思いながらテルスは左手をブレニーナへ伸ばし、狙いを定めた。
見えない銃を構えるように。先ほどとは違い魔物に追われていないこの状況ならば、撃ち落とすことに不安はない。問題はその後だ……だが、
――今はあの魔物を撃ち抜くことだけに集中しろ。
テルスはゆらゆらと飛ぶブレニーナを睨み、魔法の引き金を引いた。
「【魔弾】、【道化の悪戯】」
呪文とともに灰の弾丸が放たれた。
風の精霊の助けを受け飛んでいく魔力の弾丸は、寸分のズレもなくブレニーナの枯葉の如き翅を穿つ。そして、鳴きながら落下していく魔物の脚からついにシュウが解放された。
今すぐ透明化の魔法から飛び出し、全力で走ろうとも間に合わない距離。このまま地上に落ちればシュウは無傷では済まないというのに、テルスは動かない。
〈まかせて〉
目の前に浮かぶその文字を信じたから。
テルスたちを包んでいた透明化が解け、一条の光となる。シュウの元へ伸びる光は、テルスには『手』のように見えた。慈愛に満ちた暖かな光の手は優しくシュウを掴み、テルスのもとへ運んでいく。
「シュウ!」
光の手からシュウを受け取るテルスの胸に、間に合った安堵が広がる。だが、シュウの状態を確かめる時間はなかった。
――ギィィッ! ギギィィィッ!
それは、ただ己の運の無さを呪うしかない光景だった。
片方の翅が潰され、風に流されながら落ちていったブレニーナは、テルスたちにとってこれ以上ない最悪の場所に落下した。
樹木に衝突したブレニーナに驚き、蝉型魔物が空気を引き裂くような声で鳴きながら飛び回る。
森中に響き渡る鳴き声に次々と森の奥から魔物が姿を現し始めた。
〈逃げますよ! こっちに来てください!〉
浄化師の文字にシュウを抱え、テルスは走った。
しかし、僅かに間に合わなかった。魔物たちは侵入者を発見し、怒りの咆哮を上げる。それに応えるように森中から魔物の声が木霊していた。
「あの姿を消す魔法は?」
〈魔物に見つかってしまいました。この状況では効果が薄いです〉
「じゃあ、最短距離を突破……できない、かあ」
シュウを背負い逃げ出そうと走り出すも、三歩も進まず足を止めるテルスたち。その前方には、トロルを始めとしたマテリアル《Ⅲ》を超える魔物が、数えるのも馬鹿らしいほどの軍勢となって立ちふさがっていた。
たった一度の不運で、テルスたちは帰路を失った。
戻れたはずだった。救えたはずだった。その可能性がこぼれ落ちてしまったことをテルスは感じ取っていた。
ここは魔瘴方界。魔の世界。
同胞の叫びに応え、集まった魔物はついに姿を現した侵入者に牙を剥く。
「悪いけど、俺はどうあがいてもあんな数を突破できない。君は?」
〈無理です〉
「だよなあ……トロルにオーガ、おまけに大量の虫型魔物。それに、なんか見たくないのが奥にいるし」
〈混魔に……見えますね〉
「……ああ、ほんと笑えない」
立ちふさがる魔物の軍勢の奥に、巨大な異形の姿があった。
太く長大な胴体は百足に似ている。背には甲虫の翅、蟷螂の鎌に似た腕を広げ、獲物を見る貌は蜻蛉のよう。何よりもサイズが大きすぎる。体の大部分は魔物の群れに隠れ、見えないというのに、起こしている体だけでトロルが赤子のように可愛く見えてくる。
目の前の魔物たちはじりじりと距離を狭めるだけで、すぐに襲いかかってこない。混魔がテルスたちに襲いかかるのを待っているからだ。上位の魔物に獲物を譲る下位の魔物の姿は統率された軍隊を思い起こさせる。それに魔物はもうこの状況を『詰み』だと本能で理解しているようだった。
弧を描き立ちふさがる魔物の軍勢から、テルスたちが戦わずに逃げる術はない。人が有するどんな優れた軍隊であろうと、無傷でこの包囲網を突破することは不可能だ。魔物たちは己の優位を理解しているからこそ焦らない。
そして、理解しているからこそ、テルスたちにも焦りはなかった。
緊張に唇を舐め、隣にいる浄化師にテルスは話しかける。
「……勝算はあると思う?」
〈仮にそれができたら、私たちの名は後世まで語り継がれますね〉
「そっか……名前といえばまだ聞いてなかった。俺はテルス。駒者をやってる」
テルスの遅すぎる自己紹介に、浄化師は顔を隠していたフードを脱いだ。
〈ルナ・スノーウィル、浄化師です。よろしくお願いします〉
フードの下から現れたのは、白い少女。輝く白い髪が風に揺れ、その明るい銀の目でテルスを見つめる。この黒い世界の中で、あまりに眩しいその白にテルスは目を奪われた。
「……よろしく。短い付き合いにならないように祈ってるよ」
〈そうですね。末永くお付き合いしたいものです〉
交わす言葉に反して、二人の表情は固かった。
焦ってはいない。だが、軽口を叩かなければやっていけないほどの絶望がテルスたちの先には広がっている。五月蝿いだけの心臓の音を無視し、震える手足に力を入れる。守るべき子供がいると心を叱咜し、前を向く。
「行こう」
〈はい〉
二人は、そうして踏み出した。折れそうな心を繋ぎ留め、微かな希望が残された道、
背後に広がる王が住まう領域へと。
魔物は本能で理解していた。もう侵入者には、自分たちと戦い敗北する未来しか残されていない、と。
それは王域に住まう魔物が、己よりも上位の存在だと理解していたゆえの答え。より過酷な道へ足を踏み入れる行為は魔物の本能には刻まれていなかったからこそ、その選択肢は存在しなかった。
二人は理性で理解していた。自分たちの命を繋ぐためには王域に足を踏み入れるしかない、と。
それは目の前の魔物の軍勢には敵わないと理解していたゆえの答え。子供を抱え、魔物の包囲網を突破し、町へと帰ることを不可能と冷静に判断したからこそ、その選択肢を選んだ。
魔物たちはその予想外の一手に焦り、大地を揺るがしながらテルスとルナに襲いかかるが、もう遅い。
テルスとルナは王域へと足を踏み入れる。
そこに入ってしまえば魔物たちは手出しができない。
何故なら、此処は王の居城。魔物にとっては『聖域』ともいえる空間だからだ。そして同時に、人にとっては絶望の領域であることを意味する。テルスたちはもう後には引けず、前に進むしか助かる道は残っていない。進んできた道は魔物の軍勢によって閉ざされてしまっているのだから。
だが、より深い絶望へと踏み出したその一歩に後悔はなかった。