砂の海
一面の砂。
目を凝らしても先には何もなく、ただ枯れ果てた世界が広がっているばかり。
寂しい地だ、とテルス・ドラグオンは思う。
二ヶ月前に初めてこの魔瘴方界に足を踏み入れた時は景色に浸るどころではなかったが、こうして周囲に目を向けると本当に”何もない”ということがよく分かる。
――刻限の砂。
そう名付けれらたこの魔瘴方界には生命の気配がない。
灼けつく日差し、乾いた風、そして、瘴気に染まった砂だけが降り積もっている。
まるで、自分だけが取り残されたような空漠の領域。
もっとも、それは地上の話だ。
テルスは袋から取り出した肉塊を”何もない”砂漠に放る。
放物線を描き、肉塊は砂に落ち――飲まれた。
波紋だけを残し、肉塊は音もなく瘴気渦巻く地中に沈んでいく。同時にテルスは小さく砂が波打つのを感じ取った。
「……来るよ」
その呟きにフードの中に引きこもる小さな友達が身を震わせる。
砂に無数の波紋が浮かび上がっていく。
波紋に、波打つ砂。特殊な靴がなければ立つことすらできないここは砂漠というより、海に近い。
つまり、ここは海面だ。そして、テルスは海に餌を投げ入れたのだ。この無数の波紋は餌におびき寄せられた――
「――【魔刃】」
灰の一刀が砂から飛び出た魔物を両断する。
魚型魔物レモラ。
青白い砂で作られたかのようなこの魔物は数が多いだけの雑魚だ。
今も餌に反応したというより、より巨大な魔物が動いたから慌てているに過ぎない。
本命はこの後。巨大な二つのあの波紋の主だ。
「テ、テルス、二匹だよ!」
「分かってる! しっかりフードに――」
大波の如く、砂が巻き上がる。
ただ地中から現れただけで砂の海を大荒れにする巨大な魔物。
マテリアル《Ⅳ》混魔ケートス。
鯨に似た巨大な体だが、その頭部だけは犬や狼に近い。
波打つ砂漠をテルスは疾走する。背後には大きく口を開き、砂やレモラごと飲み込みながらケートスが迫ってきている。
この砂漠では一度でも転んだり、体勢を崩したら終わりだ。
サハラは「ここは砂漠じゃなくて海や湖だと思った方がいいよ」と言っていたが、この砂漠はそんなに優しくない。海や湖なら泳ぐことができるが、ここは沈んだら浮かび上がることなどできない。
ただ砂に飲み込まれ、レモラなどの小型の魔物に啄まれながら溺死するか、ケートスのような大型の魔物にぱくりと一飲みにされるか。
魔具である靴、手袋、外套以外で砂に着地することは死を意味する。
この二ヶ月の練習もあって、テルスはこの砂漠を走れるようになった。
こんな大荒れの砂漠でも【道化の悪戯】を使えば問題はない。
それでも、トンネルのような砂の波を走るのは冷や汗が出る。背後に巨大な魔物が二匹もいるなら尚更だ。
「ああ、あああああ、まずいよお、テルスううう!」
「もうちょっと、ここを出たら……反撃だ!」
テルスが砂のトンネルを飛び出るのと同時に、白い閃光が走った。
浄化師ルナ・スノーウィルから伸びる【閃手】。
瘴気を祓う『浄』の魔力で形成された手がケートスを殴り飛ばす。
レモラ同様、ケートスの体を構成しているのは瘴気に染まった砂だ。当然、見上げるような砂の山が軽いはずがない。それを殴り飛ばす力とは如何ほどか。
テルスはそっと湧いた疑念を頭の隅に置き、反転。体勢を崩した二匹のケートスに疾走する。
巨体がぶつかり、互いの砂に干渉する魔法が邪魔し合い、二匹は隙だらけだ。
でたらめに放たれる砂刃の波を躱しながらテルスは二匹の間合いに入り――抜刀した。
「――ハバキリ・迦楼羅」
銀月が二匹の首を刎ねた。
テルスの必殺の一刀。再生を阻害するマテリアル《Ⅳ》すら仕留める一撃。
だが、この砂漠では仕留めるだけでは不十分だ。
〈【浄光結界】。準備オッケーです!〉
「出番ね。いくわよ、ルーンちゃん!」
「はいはい~、まかせなさいコングちゃん!」
白い魔力が砂漠に広がり、それと同時にケートスの巨体に無数の岩槍が突き立つ。
一秒、二秒、三秒……やがて、ただの砂となって崩れ落ちたケートスにテルスたちはほっと安堵の息を漏らす。
「ふう、今日もなんとかなった」
「ほんと毎日毎日、大物が相手だよ。それも砂があったらすぐに再生するって、この砂漠はどうなってんだい、ほんと」
魔物の養殖場か何かなのかい、というソルの愚痴にテルスは苦笑する。
ソルの言葉は案外、的を射ている。
この砂漠にいる魔物はほとんどが砂で構成された体をしている。そして、そういった魔物は砂さえあれば何度でも再生する。今のケートスもその体が砂に沈んでいれば、明日には首が生えていたことだろう。
ただ、倒すだけでなく、砂に戻してはいけない。
まったくもって、面倒な魔瘴方界だ。
ルナの【浄光結界】。
コングのような『土』の属性持ちやルーンのような精霊魔法による地形操作。
または地上で一瞬で魔物を瘴気に還すような火力。
それらがなければ、刻限の砂では魔物を倒すことすらできない。
「まあ、魔物も嫌だけど、俺は何よりあれが嫌だなあ」
「……そうだね、あれも大概だ」
テルスが指をさす先には砂嵐があった。
早く早く、と手を振るルナたちの下に駆けながら、テルスは思う。
いったい、いつになれば先に行けるのか、と。
人の世界と魔物の世界を分かつ境界を超えれば、すぐそこに砂に半分飲まれた家々がある。
テルスたちが拠点に使っている現在、最西端の小さな町。それは境界から一キロと離れていない場所にあった。
そう、この二ヶ月。
テルスたちは刻限の砂を進むことなど、まったくできていなかった。




