エルフのお菓子屋
――王都シャトランジまで来てくれ。詳しいことはその後に説明する。
手紙の内容は簡潔なもので、挨拶などを除けばその程度の情報しか書いていない。まあ、シリュウのおじさんの頼みなんていつもこんなものだ、と諦めている。
「はあ……」
自室のベッドにテルスは寝転んだ。階下の子供たちの声も遠く、隔離されたように静かな部屋の中。ぽつぽつ、と小さな音が鼓膜を微かに震わす。窓の外を見れば、いつの間にか雨が降り始めていた。
今日も雨。連日の悪天候に気分も湿っぽくなる。
テルスは雨が嫌いだ。思い出したくもないのに鮮明に、まるで呪いのように記憶に刻まれている光景にはいつも雨が降っていた。
「ずいぶん、経ったよなあ……」
目を閉じ、暗闇の中でいくら記憶を探ろうと、ここに来る前のことは何も思い出せない。どこに住んでいたかも、家族の顔もテルスは思い出せない。どんなに懸命に探っても、そこに広がるのは黒一色の光景だ。
覚えている一番最初の記憶は魔物から、あの領域から逃れようと、死に物狂いで走っていたこと。
あの領域――『魔瘴方界』。
この大陸セネトでは、まるで盤上の駒のように人と魔物が争っている。きっと、空高く飛んで、大地を見下ろせば……そう、ちょうどチェス盤のように、白と黒の領域が並んでいるに違いない。
人と魔物の争いとはすなわち、領土や領地、領域といった世界の奪い合いだ。人は瘴気に汚染された黒の領域では生きてはいけず、魔物は瘴気で染まっていない白の領域では生きてはいけない。
だからこそ、魔物は大地を黒く染め上げ自分たちの領域を作り上げる。そして、人も同様に魔瘴方界では生きていけないため、その黒く染まった領域を解放しようと戦う。
人と魔物は生きていくため、戦いの詰みを求めて、互いの領域を奪い尽くそうとしている。
それがセネト。
テルスの原初の記憶は、魔物の領域である魔瘴方界の景色。もっとも、覚えているのは途切れ途切れの記憶に過ぎない。
――目を覚ますと暗い空の下で一人、雨に濡れていた。
――魔物に追われ、必死になって逃げた。なんとか、隠れてやり過ごすことはできたけど、息をしているだけで気分が悪くなった。まるで、呼吸と共に体に何かが入ってくるようで、自分という存在が侵食されていくような不快な感覚がつきまとっていた。
――走って、走って、走って。何時間か、何日か、それとも何週間か。どれくらい時間が経ったかも分からない。痛みすらもう感じなくなっていた。それでも、希薄になっていく自我を懸命に繋ぎ留め、魔物から逃げ続けた。
――疲れ果て、倒れた。足はなくなったかのように感覚がない。視界が暗くなっていく中、少しだけ温もりを感じた。
それが魔瘴方界での最後の記憶。
次に目を開くと、墨のように真っ黒な髪の男性が隣にいた。
黒髪の男の名はシリュウ・K・ドラグオン。
卓越した武勲を立てた証である『K』の文字を王から賜った者。
今では、四大貴族の一角として知られるセネトでも有数の名家にして、シリュウ自身も騎士団長の一人として名を轟かす英傑だ。そんなシリュウが魔瘴方界の解放のため遠征に来ていたことが、テルスにとって唯一の幸運だったのかもしれない。
「……ほんと、よく生きてたよな、俺」
だからこそ、自分を助けてくれたシリュウの頼みを無下にはできない。今度は何をさせられるのか不安もあるが、無茶な頼みではないはずだ。今までも、孤児院がらみの仕事や、届け物などのちょっとした頼みだったのだから。
今日は早めに寝よう。明日は王都に行く準備をしなくてはいけない。
窓を叩く雨粒の音を聞いていたテルスは、いつの間にか深い眠りについていた。
「ふあ……ねむ」
あくびをしながらリーフの町を歩くテルス。柔らかな風が頬をなでるように吹き抜けていく。気持ちの良い涼しい気温。木の葉がさわさわと揺れる音も心地よい。そんな穏やかな午後にいっそう眠気は加速していく。
(あんなに寝たのになあ。なんかいつまでも寝れそうだ)
午後までずっと寝ていたテルスだったが未だに眠気は取れない。体調が悪いわけではない。むしろ、今すぐトロルと一戦できそうなほど快調だ。しかし、心地よい陽気のせいもあってか買い物が終わった今もベッドが恋しかった。
「んっ~、この後、どうしようか」
大きく伸びをすると、テルスは懐から財布を取り出し、お金を数え始める。王都に行くということで、念のため必要になりそうなものを買いはしたが、お金はまだまだ残っている。タマに聞かれたら小言を言われそうだがトロル様々だ。
――ならば征くしかあるまい。
帰り道から外れ、小さな路地にテルスは入る。薄暗く人気のない迷路のような道を左に、右に。秘密基地に向かう子供みたいな気分で歩くこと数分。周囲の景色は草木に覆われた緑のトンネルに変わっていた。
葉風の町では人家から少し離れれば、こんな風に緑に隠された秘密の場所が広がっている。
葉を透かし差し込む緑の陽光を見上げながら小道を歩いていると、鼻腔をくすぐる甘やかな香りがしてくる。その香りを辿っていき、道を塞ぐような茂みをかき分けた先に目的の店はあった。
看板もない、おもちゃのような外観の小さな店。
扉を開くと、案の定誰もいない。
「すみませーん」
声を上げると店の奥から「は、は~い!」と焦った声が聞こえる。ドタバタと重い何かが落ちる音を立てながら、その店員は大慌てでカウンターにやってきた。
「はい、ここはお菓子屋です! 良かったら……って、あなたですか」
落胆したようにため息をつくエルフの女性店員。
奥でお菓子を作っていたからか、亜麻色の髪を後ろで一つに縛っており、エルフ特有の長い耳が露わになっている。人に比べて長命な種族であるエルフゆえに外見で歳は判断できない。
しかし、少なくともその外見はテルスよりも幼い少女に見える。
怜悧な美しさを持つエルフが多い中、この少女はどこか柔らかな雰囲気を持っていた。美しいというよりかは可愛い。身につけている花柄のエプロンや頬に付いたクリームがその印象を後押しする。
「昨日あんなにお菓子を買ったのに、もう食べちゃったんですか?」
「全部、飢えた子供に毟り取られたんだよ。だから、今日はどうしても食べたかったのを買いに来た」
そう言って、テルスは楽しそうにショーウィンドウを眺める。が、エルフの店員マルシアはどこか複雑そうな表情を浮かべていた。
「う~ん……私としては常連さんができるのは嬉しいのですが……人がたくさん来るのも緊張するし……テルスさん、来るときは言ってください。覚悟がいるので」
「店員が接客するのに何の覚悟がいるんだよ」
昨日と違う、鮮やかな色のお菓子たちから視線を離さずに、テルスは突っ込む。
「い、いや、だって、お菓子屋さんに憧れはあっても、人と接するのはちょっと苦手で……」
「そうなの? あっ、このコーヒーマカロンとマドレーヌ一つください」
「あっ、ありがとうございます……って人の話、聞いてますか?」
ちょっと不満げな顔をしながらも、マルシアはコーヒーマカロンとマドレーヌを取り出し、紙袋に包む。確かに話すのは苦手なのかもしれないが、それ以外の様子は立派な店員そのもの。何より、ここのお菓子はかなり美味しい。テルスからしてみれば、人がいないことのほうが不思議でならない。
「聞いてる聞いてる。でも、このお店なら、お菓子も美味しいから人気が出ると思うけど」
「そ、それは嬉しいけど困ります! テルスさんは、なんか人って気もしないし、エルフって気もしないから大丈夫なだけです!」
「俺の種族はなんなんだろう……」
「あっ……すみません。で、でもテルスさんの周りにはエルフみたいに精霊がいますし」
「ああ、それか。なんかエルフの人にはよく言われるんだけど、俺、精霊は見えないよ」
「ええっ、そうなんですか? じゃあ、なんで精霊が……」
それはこっちが聞きたいなあ、とテルスはぼやく。
精霊に付きまとわれる覚えなどない。案外、このリーフには精霊が多いらしいし、俺以外の人にも精霊はくっついているのではないか、とテルスは勝手に思っている。
「分かんない。精霊を使役する精霊魔法も俺は使えないし、いても、せいぜい魔法を使うときにちょっと手伝ってくれるだけ。それでも随分助かってるけど」
「そうなんですか。変わってますねえ」
(……君に言われたくはないなあ)
のほほんと感想を述べるマルシアだったが、接客が苦手なのに、店を開く理由がテルスには分からない。お菓子を売りたいなら、注文を受けて配達とか、手段は他にもあるだろうに。
テルスとマルシアはお互いに目の前の人物に対して『変人』という感想を抱いていた。
「まあ、少しずつ慣れていけば? ほら、小っちゃい子とかで慣れるとか」
「それは……子供とか優しそうな人なら、まだ大丈夫ですが……」
(……俺は精霊がいなければどういう反応をされていたんだろう)
テルスの顔立ちはそこそこ整っている。しかし、眠そうな目が邪魔をして、優しそうには見えない。それに、このお店ではやる気に溢れ開眼しているため、精霊がいなかったらその爛々とした目を怖がられていた可能性は非常に高い。
「まあ、そのうち慣れるよ。なんなら今度、うちの孤児院の子供たちでも連れてこようか?」
「それなら大丈夫そうですね。このお店、ほとんどお客様来ないですし、いつでもいいですよ」
「……そういえば、俺がいるときに他のお客さんを見たことは一度もないっけ」
テルスは店の中を見回し、ポツリと呟く。綺麗に掃除された床や窓。窓際に飾られたセンスのいい小さな白い花。ピカピカに磨かれた指紋一つないショーウィンドウに、お客さんも来ないのにそこそこの数が用意されたお菓子。それらを見て、思わず目頭が熱くなってきた。
「い、いえ、今日はたまたまですよ! いつもは、もうほんのちょっと、お客様はいますよ! 本当です! 本当ですから!」
「そっか……うん。分かってる。人は来てる、来てる」
「絶対信じてないですよね!?」
自分の失言に気づき、猛然と話し出すマルシアを生温かい眼差しでテルスは見ていた。
「本当なのに、嘘じゃないのに……今日は町で大きなイベントがあるじゃないですか。きっと今頃、どこのお店もお客様なんていないはずですよ」
「大きなイベント……何かあったっけ?」
ここ最近は町の外にいることが多かったテルスには聞き覚えのない話だ。
それに、孤児院は町の中心部からは大分離れた場所に位置している。そのため、知ろうとしなければ祭りなどの大きな行事だろうと、テルスたち孤児院の人間にとっては蚊帳の外の出来事だ。
「今日は『浄化師』が町に来るんです」
「……ああそれは、お客さんは来ないだろうなあ」
浄化師、それは魔瘴方界に入る手段を持つ唯一の存在。
瘴気が広がる魔瘴方界には通常、人は入ることができない。しかし、この世界にはわずか三十人程度に過ぎないが『浄』の魔力を持ち、魔瘴方界に入ることのできる人間が存在している。
それが浄化師。
聖人とまで言われ、一部では崇められてさえもいる浄化師の存在は人々にとっての希望だ。
そんな人が来ているなら、一目見ようと集まる人間はさぞ多いはず。果たして、マルシアの店に影響があったか知るすべはないが納得できる話だった。
「テルスさんも、見に行ったらどうですか?」
マルシアが差し出したお菓子の袋を受け取りながら、テルスは首を振る。
「いや、俺はいいよ。今日はなんだか眠いし、帰ってお菓子食べたら寝る。んじゃ、お菓子ありがとう。また来るよ」
「はい、お買い上げありがとうございました。またのご来店をお待ちしておりましゅ」
とりあえず、テルスは盛大に嚙んだのは聞かなかったことにしておいた。