五年後
雨上がりの森。
雫に彩られた葉の陰で、一人の少年が黒髪に無数の水滴をつけて隠れていた。
ここに隠れて、もう数十分。土の匂いに身を浸し、少年――テルスはじっと息を潜めてその時を待っていた。迷彩柄の外套に身を包んだ姿は、目を凝らしても分からないほど周囲に溶け込んでいる。
やがて、森の奥から数体の魔物が姿を現した。
芋虫の姿をした魔物。
但し、芋虫といってもそのサイズは優に成人男性を上回る大きさだ。見ている方が急かしたくなるような速度で巨体を動かし、一際緑が濃い場所まで行くとむしゃむしゃと草を食み始める。
芋虫型魔物キャタピラー、約三○○チップ。数は三体。今までの魔物の報酬を含めると……うん、足りない。目標金額はまだまだ遠そうだ。
「……まっ、塵も積もればなんとやら、と」
とりあえず退治しよう、と面倒な思考は放棄する。腰に差した鞘から刀を抜き、テルスは身を隠していた茂みから飛び出した。
「よいしょ」
一歩、二歩と瞬く間に間合いを詰め、刀を一閃。芋虫型魔物キャタピラーは何が起きたかも分からないまま両断され、黒煙へと姿を変えていく。
仲間が倒されて数秒。
ようやく、敵に気づいた残りのキャタピラーが動き始めた。
のろのろ、といった擬音がつきそうな速度で――キャタピラーにとっては必死で――この場から離れようとする姿はなんだか哀愁を誘う光景だ。
しかし、魔物は魔物。キャタピラーだろうと餌にする植物に与える被害は馬鹿にならない。木の精霊からすれば天敵に近いこの魔物を放っておくわけにはいかないのだ。
「はあ……」
ため息と同時に、テルスは『魔法』を行使した。
灰色の淡い光が刀身に灯る。刀を振りかぶり横へ一閃すると、切っ先から伸びた光が二匹のキャタピラーを切り裂き、黒煙へと変えた。
絶命した魔物は黒い煙、すなわち瘴気となる。これは人も同じだ。死ねば魔力を生み出す魂は宙を漂う魔素となり、自然に還るのが理。
しかし、魔物の体は汚染された魔力である瘴気だけで構築されているため、絶命すればこうして瘴気だけが残る。そして、その瘴気はテルスのような駒者が日々を生きる糧……つまり、お金となるのだ。
「【チェック】」
呪文を唱えると、テルスの首からぶら下がる魔石が淡く輝き始める。魔石は宙に漂っている瘴気を吸収すると、僅かにその色を濃くした。
透明だった魔石の中で黒い魔力の塊が揺れている。その様子を一瞥し確認すると、テルスは空を仰いだ。
駄目だ。本当にまだまだ足りない。
(三日だけでかなりの稼ぎにはなったんだけどなあ。まあ、時間はあるしゆっくり行こう。大物になんて挑みたくないし、そもそも、こんなとこで遭遇しないだろうし……)
――パキッ。
そんなことを考えていたテルスの背後から枝を折り、大地を踏みしめる音が聞こえてきた。
その音を聞いたテルスの動きは極めて迅速だった。一目散に先程まで隠れていた茂みに戻ると、じっと息を潜め、森の奥を見つめる。
木々の間から、足音の主が現れるのにそう時間はかからなかった。地響きの如き重い足音。その正体が木漏れ日により照らされた瞬間、テルスはあまりの自分の運の無さに、がっくりと肩を落とした。
(トロルとか……なんでこんなとこにまで……)
人型魔物トロル。
《Ⅰ》から《Ⅴ》――いや、《Ⅵ》まであるマテリアルの《Ⅲ》に分類される、中位の魔物。
キャタピラーというマテリアル《Ⅰ》の魔物を狙っていたテルスからすると相手にしたくない魔物。面倒だからさっさとあっちいけー、とありったけの思いを視線に込めてトロルを睨む。
だが、そんな思いを裏切り、トロルは一直線にどすんどすんと歩を進め、テルスが隠れる茂みに近づいてきていた。
(いや、こっち来んな。来るなー来ないでー……駄目かあ……)
現実は儚く無情なもの。
テルスに気づいている様子はない。気づいているのなら、牙をむき出し、涎を撒き散らしながら突進してくるに違いないのだから。
ようは運が悪い。たまたま、テルスのいる茂みが進行方向であったのだろう。今から逃げようにも、この距離ではもう遅かった。
「はあ……仕方ない。頑張りますか」
これはもう戦うしかない。今日一番の深いため息をつくテルス。
どうせ戦うなら、最初から大物狙いにすれば良かった。そんな後悔を胸にテルスはタイミングを計る。
(一……二の……三!)
そして、トロルが茂みの前に足を下ろした瞬間、テルスは獣の如く飛びかかった。
ズブリ、と刀身が肉に埋まる感触。すれ違いざまに、肉の薄い足首を切り裂くも……浅い。トロルは体勢を崩すこともなく悠々と振り返り、テルスの姿をその濁った目に捉えた。
ゆっくりと獲物を見つけたトロルの口元が裂けていく。次の瞬間、三メートルに及ぶ巨体からは想像もつかぬ速さでその手が伸びた。
本能のまま餌を捕まえようとするトロル。だが、目の前の獲物はただ喰われるような餌ではない。トロルの丸々とした腕を払い、返す刀を肘に突き立てる。
深く突き刺さった刃。しかし、トロルは怯む様子もなく両腕を広げた。
その行動に悪寒が走る。攻撃でも何でもない、ただの抱擁が目の前に迫ってきていた。視界はぶよぶよとした肉の塊で埋まり、獣臭が鼻孔を満たす。
「うげっ」
間一髪、太い股の間を転がりぬけ巨体を躱したテルスの背後から、大地を揺るがす轟音が聞こえてきた。
僅かに陥没した地面に埋まるトロルを見て、テルスの顔が引きつる。あんな巨体にのしかかられたら、ぺしゃんこになることだけは間違いない。先程の抱擁といい、そんな死に方だけはごめんだった。
「やだなあ……」
「グオオオ!」
泣き言の返答は咆哮。我武者羅に自らを追うトロルを、木を盾に、茂みに飛び込み、テルスは身軽に躱していく。助けてくれる仲間もいないこの状況では、一回のミスが死に直結する。
しかし、悲しいことにテルスにとってはソロでの魔物退治なんて日常茶飯事だ。こんな状況にも慣れ切っているテルスは冷静にトロルを攻撃していく。が、その身をいくら斬ろうとトロルの傷はすぐに癒えてしまう。
これこそがトロルが中位の魔物と恐れられる理由。
無尽蔵の体力。傷を瞬時に回復する肉体。この二つを持つトロルは生半可な攻撃では倒すことができない。いくら傷を負おうとトロルは止まらず、巨体に似合わぬ俊敏さでテルスを追い続ける。
「ああもう、やっぱり面倒だ」
言葉通り、面倒くさそうに顔をしかめ、テルスはぼやく。トロルを倒すには数に頼るのが一番だ。ソロのテルスではトロルを相手にするのは色々と割に合わない。
だが、逃げようとしてもトロルはどこまでも追ってくるだろう。この魔物は獲物が逃げる先がどこだろうと気にしない馬鹿なのだ。ある意味、情熱的ともいえるかもしれない。
「運が悪いのかな、俺……」
結局は一人のときに、罠などの用意もなく、トロルに遭遇したのが運の尽き。
この状況でテルスがトロルを倒すために頼るものは一つしかない。
ひたすらに追いかけるトロルを翻弄し、右膝だけに攻撃を集中させる。そして、数十秒後。ついにテルスが待ちかねたその時がきた。
テルスに追いつこうと振り向き、足を踏み出した瞬間、僅かにトロルの体勢が揺らぐ。治りかけの右足では自身の巨岩のような体重を支えきれないのか、たたらを踏んでいた。
――隙あり。
「【道化の悪戯】」
数年前に名付けたその呪文を唱える。
行使するのは魔法。人間という弱者が、強者たる魔物を屠るための力。遥か昔から続く人と魔物の戦いの中で研ぎ澄まされていった力が牙を剥く。
テルスが使った魔法は、精霊の力を借り自然を操ることができるもの。今回は土の精霊の力を借り、大地を統べる力をテルスは得た。つまり、
「グオオ!?」
落とし穴をつくれるようになった。
突如、現れた小さな落とし穴に片足を取られ、トロルは吠えながら膝をついた。そして、三メートルの巨体ゆえに届かなかった急所がテルスの前に差し出される。
「これで詰み」
膝をつきながらも、未だ頭上にあるトロルの首に鋼の光が閃く。首を切り裂かれ、何が起きたかも分からぬまま地に伏していくトロルは次の瞬間、大量の瘴気へとその姿を変えた。
「ふー……【チェック】」
視界を覆う黒煙が魔石へと吸い込まれると、テルスは上機嫌で胸元で揺れる魔石を指でピンと弾いた。
魔石は瘴気を吸収するたびに黒く染まっていき、価値を増していく。今の魔石は大部分が黒く染まっていた。これならば、大丈夫。しかし、念には念を入れて……換金所の係員に胡麻をすらねばなるまい。
なんて言ったら、色をつけてくれるだろうか。
やっぱり、女の人だし「綺麗です」とか……いやそれではありきたりすぎる。もっと独創的で、思わず倍くらいの報酬にしてくれる殺し文句はないものか。指をあごにかけ、悶々と悩むテルスだったが、いつまでたっても閃きはやってこない。
「まあ、天気も悪いし、さっさと帰るとしますか」
暦の上ではまだ五月なのにここ最近は雨が多い。森の木々に日差しが遮られていることもあり、じめじめと湿った空気が今も肌にまとわりついていた。
嫌な感触だ。早く帰って風呂に入り、汚れた服を着替えたい。
「それにしても、トロルは勘弁してほしいな。あいつの攻撃、掠るだけで死ぬかと思うんだよ、ほんと」
そうやって、ぐちぐちと呟くテルスの背後から、さっきとよく似た枝が折れる音が聞こえてきた。
――もう嫌だ。
その音を聞いた瞬間、テルスは脱兎の如く町に向かって逃げ出した。