悪意なき無垢
葉風の町リーフの中心地。
夕闇に包まれたこの大広場は痛いほどの静寂に包まれていた。
人がいないわけではない。
そびえる精霊樹の影に隠れるようにして、多くの人がここに集まっている。
町中の、なんて比喩は大袈裟だが、そんな言葉も不釣り合いではないほどの数だ。
しかし、大広場には誰の声も響かない。
誰もが静寂を求めていた。呼吸の音すら殺し、交わすのは微かな囁きだけ。
物音一つがあの魔物の群れを呼び寄せることになるかもしれない。
今がどういう状況か体感したからこそ、誰も大声なんて上げられなかった。
静寂の中、子供たちの頭を撫でながらタマは大広場の隅に視線を向ける。
そこには使われる予定だったいくつもの屋台が放り出されていた。
――本当なら今日は精霊祭だったのに……。
こんなことにならなければ、精霊樹を取り囲むようにあの屋台が並び、多くの笑い声がこの大広場を満たしていただろう。
自分にしがみついているハルたちだって、この日をずっと楽しみにしていたはずだ。
――そういえば、あの人たちはどこにいるのだろうか。
この子たちと一緒に精霊祭を回る予定だった二人の駒者。
それに、ケーキ屋のマルシアの姿もない。
もしかして、という不安に駆られタマが大広場を見回すのと、駒者の一団がこの大広場に走ってくるのは同じタイミングだった。
「……タマさん、どこ行くの?」
「ちょっと話を聞いてくる」
怯えているハルにタマは駒者の一団を指差す。
そこにいる馴染みの姿を見て、子供たちの表情が少しだけ明るくなる。
「あ、メルクにコングさんだ」
「おやっさんたちもいる」
「でも、先生はいない……」
フゥの言葉に再び子供たちの表情が沈む。
あまり面識はないが、タマもマルシアのことは心配している。
教会など避難所として指定されている建物にいるのならいいのだが、逃げ遅れているのだとしたら今のリーフはあまりに危険過ぎる。
「マルシアさんのことも聞いてくる。待ってて」
頷く子供たちに微笑むと、タマは駒者の一団の方へ歩き出す。
ここにいる人々も状況が気になるのか、おやっさんたちに視線が向いている。
だが、肝心の駒者たちから何の話も説明もないということは……そういうことなのだろう。
薄っすらとその答えを予感しながら、タマは背後からハンスに話しかける。
「どう?」
「どうも何も最悪だな」
びくり、と肩を震わせながらハンスがため息交じりに答える。
聞き耳を立てている人々に届かないほど小さな声。
そして、この場にいる駒者たちの疲労が滲む暗い表情。
ハンスが告げる最悪に誇張などないことが嫌でも理解できた。
「おう、ちょうど良かった。タマ、ギルドの方で状況の把握はできているか?」
「避難、死傷者、住民全員の把握は現状だと無理。でも、この大広場と他の避難所にいる人数を見る限り、大半の人は避難できていそう」
おやっさんの問いに、ギルドの職員としてタマは分かっている状況を伝える。
「そうか……今にも落ちそうな避難所はあるか?」
「ない。でも、いつそうなるかは分からない。それに一番危険なのは……」
ここ。そう、タマは小さな声で言う。
各避難場所の通信を聞く限り、魔物たちはまだ屋内に強引に入ろうとはしていない。
人がいると気づかれさえしなければ、魔物たちは外で戦っている駒者たちや逃げ遅れた人を狙うだろう。
だから、危険なのは屋外であり、一番多くの人が集まっているこの大広場だ。
バリケードや迎撃の用意があっても、あんな魔物の数は想定していない。魔物たちからすれば、獲物が一か所に集まって都合がいいだけだ。
「それで、避難はできそう?」
この大広場が安全でもなく、魔物という危険を排除できないなら答えは一つ。
他の場所に避難するしかない。だが、タマの問いにおやっさんは首を振る。
「無理だ。すぐそこまで魔物の群れが来ている。今は煙玉や罠とかで上手く誘導できてるが時間の問題だな」
「駅の方に人は? この大広場なら気球も降ろせるだろ」
「あの蝶とか飛べる魔物が多いことがネックね。確実に群がってくるでしょ、あれ。町から脱出する方向で考えるべきなんじゃない」
「だが、もう夜だ。失敗する可能性が高すぎる」
おやっさんの言う通りだった。
メルクとコングの案はどちらも悪くはない。というより、もうその二つしか方法がない。
しかし、夜は駄目だ。
夜闇の中、あの魔物の群れと戦うのは自殺行為でしかない。
灯りなんてつけたら、それこそ虫型魔物をおびき寄せてしまう。
つまり、
「耐えるしかねえな。一晩耐えきって東都に向かう」
「気球は使わねえのか?」
「いや、気球を囮にしよう。気球と駒者、衛兵たちで魔物を誘導し、住民を避難させる。これが一番、現実的だろう。一晩立てば東都からの応援もギリギリ間に合うかもしれねえしな」
「そうね。あとは、一晩をどうもたせるか、か……」
この状況で、さらに不利となる夜をどう明かすか。
誰よりも現状を体感したからこそ、それが如何に難しいか分かっている。
だが、暗い雰囲気の中、おやっさんが声を上げた。
「俺に任せろ」
「任せろって、一人でなんとかなるもんでもないだろ」
「いや、一人ではない。それに、大量に使った煙玉に町では火事も起きている。夜ってのもちょうどいいだろ」
メルクすら一人では無理と言っている。
それなのに、不利なはずの夜すら「ちょうどいい」と言うおやっさんに、同じクランに所属する者たちすら首を傾げていた。
何をするのか。そんな無言の問いかけから逃げるように、おやっさんは早口で話を続ける。
「そこそこは魔物がこっちに来るのを止められる。夜明けまでは正直ちょっと微妙なとこだ。まあ、その後は俺は使い物にならなくなるから、夜の内に休んでおいてくれ。じゃあ、ほら、あっち行け。まだこっちに来てない奴らも呼びに行かないとだろ」
「いや、何すんだよ」
「……秘密だ」
「そんなこと言っている状況じゃないでしょ」
「さっさと言えよ。めんどくせえ」
「お前ら、気遣いって言葉を知っているか?」
メルクの問いに答えないおやっさんに、コングとハンスが畳みかける。
まあ、離れてほしいとか見せたくないんだろうなとはタマも察していた。多分、他の人も分かっているだろう。でも、この場から離れる気遣いを見せてくれる人は誰もいなかった。
「こいつら嫌い……」
そう、おやっさんは一頻り嘆くと、何をするか答えを告げた。
「……霧を呼ぶんだよ。ほら、お前らはとっとと他の奴を呼びに行け!」
そう言って、おやっさんは自分のクランの駒者たちを追い払う。
文句をぶつぶつ言っている仲間たちが十分に離れたところで、おやっさんはため息混じりにその名を呼んだ。
「はあ……出てこい【霧迷妖精】」
藤色の光とともに現れたのは――美しい妖精だった。
淡く輝く体。幻想的な優美な翅。おやっさんの肩に腰かけて笑う小さなその姿はまさに、絵本から飛び出て来た妖精そのものだった。
召喚魔法。
精霊を呼ぶその珍しい魔法にタマたちは驚く。しかし、おやっさんに何かを聞くことはできなかった。
霧が溢れた。
おやっさんを覆い隠した霧はすぐに大広場中を埋め尽くし、風とともにリーフの町に広がっていく。
「……すごい」
この霧をおやっさんが呼んだ精霊が操っているというのなら、相当な格だ。
でも、おやっさんが召喚魔法を使えるなんて、タマは知らなかった。遠くで驚いている駒者たちを見るに、おやっさんは同じクランの仲間たちにも話していなかったらしい。
――何で?
こんな精霊と契約しているなんて自慢できるくらいなのに。
それに、ランスロット……おやっさんが呼んだ精霊の名はどこかで見た覚えがある。たしか、ギルドの何かの名簿で……
「何だっけ?」
まるで、霧に閉ざされたように思い出すことができなかった。
しばらく、タマは首を傾げていたが、いつまでも突っ立ってはいられない。マルシアのことだって聞かなくてはいけないのだ。
籠城の準備を始めるメルクやコングたち駒者と同じように、タマも自分の役目を果たすために歩き出す。
そして、歩くたびにその名は記憶から薄れていった。
深い霧の中、クスクスと笑う妖精の声だけが聞こえていた。
「……お前は満足だろうさ。名の拘束が強まるもんな」
そんな文句の返答も笑い声。
はてさて、この妖精は自分をどうしたいのか。これと契約して随分と経ったが、未だにこの泥棒の考えは分からなかった。
この精霊と出会ってから、男はずっと霧の中。
誰の記憶にもその名が留まることはない。
おやっさんなんて馬鹿げた呼称だけが広がっていく。
「はあ、やだやだ……ほんと面倒な世の中だよ」
霧の中、男は心底思うのだ。
精霊なんて――ろくなものではない、と。
――それは、とある少女にとっても共感できる思いだった。
深い霧の中で一人の男が文句を呟いていた頃。
それに深く同意するであろうエルフの少女は一人、夜の町を彷徨っていた。
――私、何をしなくちゃなんだっけ?
うだる頭で少女は考える。
なんだっけ。誰かを助けなきゃなんだっけ。でも、誰を? どこにいるんだっけ?
自分がどこを歩いているかも少女には分からない。
近づく全てを燃やしながら、夜闇に劫火の足跡を刻んでいく。
精霊に好かれる者たちの好例がテルスや精霊憑きであるシズク、ファイなのだとしたら。
おやっさんやこの少女は悪例である。
テルスのように影響が小さい精霊ではない。
ティアのように自身の魔力が微小なわけでも、魔力という力を操る技量が飛び抜けているわけでもない。
まして、シズクやファイのような精霊を自在に従える域なんて夢のまた夢。
ただ、その力に振り回されているだけなのだから。
「燃やさないと……燃やさないと……」
俯いたまま歩き続ける少女にとっての不運は何だろうか。
精霊に好意を向けられていること。
魔力が他の人よりも多かったこと。
家族を含め、誰もが故郷である森を燃やした『火』に忌避感があったこと。
全てを燃やし森で泣く少女に道化が声をかけるまで、誰も少女に魔法という力を教えてくれなかったこと。
そう。きっと、生まれた場所があの村でさえなければ、少女は普通でいられたのだろう。
かつて、レストにあったエルフの村。
そこでは成長した子供を山に登らせ、精霊と契約を結ばせる慣習があった。
それは村を作ったエルフたちにとっては遥か昔から続く伝統で当然のことであった。
しかし、村を取り囲む自然はエルフの森ではない。
火焔の吐息を吹く竜が住まう山だった。
そんな山に『火』の精霊憑きが登れば『火』の上位精霊が寄ってくるのは当然の帰結だった。
そして、膨大な魔力の扱い方を知らない少女の手にそんな精霊が余ることも。
「……燃やしたい」
熱を持った体で少女は呟く。『火』なのだから燃えるのが当たり前。
そんな精霊の意識に少女は引きずられていく。
そして、行かなくてはならなかった場所に這いずり回る魔物を見て、少女の意識は完全に燃やし尽くされた。
「――来て、【劫火霊竜】」




