テンペスト
くるくると世界が回っていた。
青い空。南都の町並み。白い雲。大聖堂。遥か遠くの火山。広場にいる人々。
つむじ風の牢獄から見える景色は次々と過ぎ去っていく。
「あーもう、気持ち悪いし、眩しいし、最悪だ」
妖精の風に弄ばれる中、テルスは沁みる明るさに目を細めながら瘴気を追う。
あの魔物たちが地上に出てしまった。
テルスたちがいた地下は大聖堂のほど近く。つまり、南都のほぼ中心に災魔やマテリアル《Ⅳ》の魔物が放たれたということだ。
ここで仕留めなくては。
この空で倒すことさえできれば南都の町に被害は出ない。
だが、この風が邪魔だ。【道化の悪戯】を行使しようと、すぐにそれ以上の風でピクシエルはテルスを封じ込める。
「テ、……ス、たす……にゃ……」
「こ、のっ!」
余計なことはさせないとばかりに、ピクシエルの風が執拗にテルスを絡めとる。
視界は定まらず、肩にしがみつくソルの声すら聞き取れない。
こんな状況では誰かに助けを求めることも難しい。
強引にこの風から脱出しようとテルスはディールを起動し――
『テルス、真上―!』
風鈴を思わせるその声に、ぴたりと風が止んだ。
「うそおっ!」
すぐ近くからピクシエルの悲鳴が聞こえてくる。
どこからか響いてきたティアの声に従い、空を見上げれば巨大な岩塊が瓦礫とともに広場に落ちてきていた。
地上に大きな影を落とすその岩塊にテルスは刃を向ける。
あの”歩く火山”なんて異名の爆弾はここで倒す。
刀身に灰を纏わせながらテルスは構えるが、妖精の小さな呼び声がその動きを止めた。
「やっちゃえ、ペデス様」
タロスのさらに上空で黒が溢れた。
陰る空。青は黒に。白は灰に。青空を閉ざし、雲を染め上げる瘴気の奔流は隕石の如く地上に迫る。
――どっちに……!
再び赤を帯び始めたタロスか。
それとも、黒い瘴気をまき散らす災魔ペデスか。
二体とも無視なんて絶対にできない脅威だ。
しかし、タロスを倒すにはペデスが展開した魔瘴方界や降ってくるポーンが邪魔で、ペデスを倒すにはタロスの上に行かなくてはならない。
ピクシエルの妨害の中、必殺を届かせることができるのか。
何より、ハバキリや、あの未完成の必殺で倒すことができるのか。
刃を向ける先を決められない。
そんなテルスの迷いを吹き飛ばすかのように、一陣の風が吹いた。
轟音とともに地下から空に打ち上げられた瘴気の塊。
暴風と揺れる地面に耐えながら、広場にいる誰もがそれを追うように空を仰ぐ。
青い空、白い雲。そして、濃密な瘴気を湛えた黒い影。
視界に入るその黒が何か理解すると同時に、浄化師の少女たちは動き出す。
「【浄光結界】!」
当代、最大の魔力量を誇る浄化師の結界が広場を越え、南都の町を覆っていく。
三浄天アリス・ラムダ。そして、その隣の四浄天ミユ・リースはあの異質な黒が何か体感している。
だからこそ、誰よりも早く彼女たちは対処に動いた。
「アリスちゃん、こ、これ!」
あの眼球と同じなら、広がる魔瘴方界はこの南都の大部分を覆いかねない。
ミユは白峰の町を守ったときのように、アリスに神霊魔具である大剣を渡そうとする。
「バカ! そっちじゃない。浄天が揃ってるならこれが使えるでしょ!」
ミユが押し付けてきた大剣から逃れながら、アリスは浄天の証であるペンダントを服の中から取り出した。
銀の鎖の先にぶら下がった白い欠片。
硝子片にも似たそれは綺麗ではあるが何の装飾もなく、浄天の証と考えるといささか質素に思える。
しかし、これはただの証やアクセサリーではない。
浄天の象徴であり、神霊魔具の欠片。
アリスはミユの嫌そうな顔を無視して、その呪文を【浄光結界】に重ねた。
「――【浄光大結界】」
ペンダントから溢れた白い光が五本の糸となって伸びていく。
三本の行方は雑踏の向こうへ。残りの二本はミユと――アリスたちと同じように動き出していたルナに繋がった。
「あら、ルナがもう持ってるなら好都合じゃない。この魔法の効果が分からないなんて馬鹿なことは言わないわよね?」
〈大丈夫、言わない!〉
そう文字を浮かべてルナはアリスやミユたちとは逆の方向に走り出す。
走りながらルナは教皇からもらった胸元にぶら下がる白い欠片を握りしめ、浄を込める。
神霊魔具は魔力を周囲一帯に拡散し、自分の魔力に染まった領域を作り出せる。
このペンダントはあくまで欠片のため、一つだけでは自身の魔法の強化程度にしか使えない。
だが、浄天の代名詞であるこの魔法の発現には必要なものだ。
〈うん、発現してる〉
視線を後ろに向ければ、通常の【浄光結界】とは違う三角形の領域が広場に広がっていた。
ルナ、アリス、ミユを頂点とした結界。
近くにいるはずのファイたち他の浄天が加われば、この白い結界はさらに大きな聖域となる。
最低三人の術者が必要となる魔法。
浄天が何人も揃うことは稀で、こんな大結界が必要となる場面も滅多にないため、この結界は実用性の薄い魔法だ。
しかし、へクスという名の由来であり、本来の【浄光結界】であるこの魔法ならば災魔が撒き散らす瘴気を封じ込める。問題は……
〈何でタロスが……それに、テルス……!〉
上空の相棒と炎鎖の嶽の魔物を見上げ、ルナは手を強く握りしめる。
あの隕石みたいな異質な瘴気はおそらく災魔だ。
レギナであるかは分からないが、あの魔物がいる可能性があると話があったからこそ、ルナたちはすぐにあの瘴気を災魔と結びつけて行動することができた。
でも、この南都から遠く離れた炎鎖の嶽の魔物が、それも爆弾みたいなマテリアル《Ⅳ+》の魔物がいるなんて想像もしていなかった。
災魔の瘴気を【浄光大結界】で対処できても、このままタロスが落ちて爆発したら広場にいる人を守れない。
最悪、結界を破られる可能性だってある。
タロスを倒さなくては。だけど、それを一番近くにいる相棒に伝えられない。
一か八かとルナが話石をポケットから取り出そうとし、
「あ、ルナ様!」
〈ティアさんに……ヴィヌスさん!?〉
落ちてきた栗色の髪の少女と、簀巻きにされている貴族の少年に文字が揺れた。
行方不明のヴィヌスを何でドラグオン家のメイドが簀巻きにしているのか。
混乱するルナにティアが恭しく礼をする。
「お久しぶりです。やっっっと、地上に出られました。シリュウ様がどちらにおられるか――」
「ティアあああっ!」
「あ、くそ主人が走ってきてますね」
ティアの視線の先には彼女の主人であるシリュウが走ってきている。
その後ろには金髪のエルフの少女、共に雪花の湖を解放したアイレもいた。
「……いやあ、あの人のこと一発ぶん殴りたい気分なんですよー、ほんと」
この少女は礼を尽くす相手を間違えているような気がする。
自分を見るキラキラとした目と主人に向ける氷点下の眼差しのギャップに、ルナの混乱はさらに加速する。
「何で地下から出てきたんだと聞きたいとこだが、今はそれはいい。仕事だ」
「ええー、もう十分すぎるほど私は働きましたー」
「これで最後だ。アイレと一緒にタロスを南都の外まで吹き飛ばせ!」
ティアはシリュウとアイレ、そして、上空のテルスを見上げて……はあっと深くため息をついた。
「……テルスには地下で助けてもらったし、しょうがないかー」
そう言ってティアは軽く右手を振り、糸のようなものを空に放った。
「テルス―、タロスは私がどうにかするから、妖精と上の骨の奴をお願いー」
囁くようなその声が遥か上空のテルスに届いたとでもいうのか。
テルスはタロスを無視して、上空の災魔に刀を向けていた。
「じゃあ、この仕事が終わったらボクは寝落ちしますからね、シリュウさまー」
ティアの纏う空気が変わる。
辛うじて保っていたメイドの慎ましさは消え去り、ぐてーっとやる気のない少女がめんどくさそうに糸を振るう。
だが、そんな少女の糸にルナとヴィヌスは目を見開いた。
「な、何をしているんですか?」
簀巻きにされたヴィヌスの声は動揺に震えていた。
無理もない。おそらく、目の前のこれは魔法の大家であるブルードから見ても理解不能の行動だからだ。
浮かびあがる【風】の魔法陣。
そして、それを模写するように糸が無数の魔法陣を象っていく。
一つ、二つではない。
数え切れないほどの魔法陣が広場の端を埋め尽くしていく。
「ボクは小さい頃に魔物に襲われた後遺症で魔力が少ないんですよねー。だから、下位の魔法しか発現できないんです。でも、なんか『風』の魔法だけは精霊が手伝ってくれるんですよー」
メイドから完全に素に戻った少女は魔法陣を描く片手間にそう語る。
表情を見る限り、ヴィヌスや他の人はこの話をよく理解していない。
でもルナは違う。
〈……精霊憑き〉
それは、いつか精霊の白鼠が語っていたものと同じ特徴。
メルクの幼馴染であるマテリアル《Ⅴ》と同じ、精霊に愛された者の証であった。
「幻想発現【風】。吹き飛べー……」
あたかも人形劇のように。淡く色づく緑糸に導かれて精霊の風が躍り出す。
開演は間近。
幕が上がるのを待ちきれずはしゃぎ始めた風に、シリュウやアイレたち《黒騎》から声援が飛ぶ。
「よしいけ。デネビオラたちがいる門の辺りに落としてやれ!」
「……え、私いらない子?」
騒々しい観客にめんどくさそうなため息を。
そうして、ティアは幕を上げる呪文をゆっくりと紡いだ。
「はあ――テンペストー」




