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盤上のピーセス  作者: 悠々楽々
一章
13/196

ルーン・ハーレキンの舞台

 体を揺り動かされる感覚に、ハンスは目を覚ました。

 何もかもが鈍い。体は重く、思考は遅い。

 そんな微睡むような意識の中で、ハンスの視界に泣き出しそうな女の顔が映る。


「ハンス! ハンス、起きなさい!」


 その顔を見れば、ハンスの意識は覚醒する。

 その声を聞けば、ハンスの記憶は今に追いつく。

 がばり、とルーンを押しのけるようにして起き上がったハンスは周囲を見回し、叫んだ。


「おい、ファル団長と……ミケはどうした!?」


 ハンスが覚えているのは、魔法で自分たちを突き飛ばしたファル団長が微笑む姿と、自分と抱き寄せたタマを突き飛ばした小さな手の感触。

 それが意識を失う前に覚えている最後のものだ。

 傷だらけだがルーンは生きている。

 自分の左腕はタマを離していない。意識を失っているがタマは無事だ。


 だが、ファル団長とミケの姿は何処にもなかった。


 木々が吹き飛ばされ、陽の光を遮るものもなくなった開けた大地。

 その何処にも二人の姿は見当たらなかった。


 代わりに存在していたのは、黒い水晶のような塊。


 夜闇が凝縮されて生まれたかのような漆黒の水晶が地面に転がっていた。

 瘴気を封じる魔石にも似たそれは、ちょうど人が中に入るほどの・・・・・・・・・大きさだった。


「何だよ……これ……?」


「……多分、二人はあの中だよ」


 感情の抜け落ちた蒼白な顔でルーンは言った。

 それを告げてしまったことで、悲しみが追いついたかのようにルーンの頬を幾筋もの涙が流れていく。

 ハンスはその姿を呆然と見ていることしかできなかった。


「あの中って、何だよそれは!? 生きてるのか? 中から出せねえのかよ!」


「私だって、思いつくことは全部試したよ! でも、駄目だった。どうなってるのかすら分からないっ!」


 ルーンの叫ぶ声に、ハンスは現実を思い知らされる。

 漆黒の水晶に囚われる……こんな現象はハンスの知識にはない。

 なにより、ルーンの知識が及ばない。その事実がハンスを打ちのめした。

 この漆黒の水晶から救い出す術がないのなら、それは――死と同義だ。


「嘘だろ。あの馬鹿団長が……死んだのか? あれは殺したって死なない奴じゃねえか……そうだろ、ルーン?……泣いてないで何とか言えよ。おい……それにミケの奴、妹はここにいんだぞ…………ああ、くそっ! くそっ! くそおっ! あいつガキのくせして俺を庇いやがった! ふざけんなっ!」


 あの一瞬。

 ファルグリンの最後の魔法を前に、ハンスはミケとタマを抱き寄せようとした。

 だが、ミケは違った。

 三人では逃げられない(・・・・・・・・・)と冷静に判断していた。

 だから、妹を助けるためにハンスの手を逃れ、突き飛ばした。

 それを理解していても、ハンスは納得ができなかった。

 なぜなら、それは大人である自分がやらねばならなかったことだ。

 あの魔法で三人を取り込んで飛ばすことや、それを三方向に同時に放つことが、どれだけ……


 そこまで考えてハンスは自分の頬を殴り飛ばしたい衝動に襲われた。


 テルスがいない。

 ここにある黒水晶の塊は二つだけだ。

 二人が死んだかもしれない衝撃に、そんな大事なことにすら気づけなかった。


「おい、テルスの奴はどうした! 生きているのか!? さっき、二人って言ってたよな、ならテルスは生きてるのか!?」


「生きてる。テルスは今、一人で魔物を引き付けているよ……だから」


「おい……ルーン待て」


 そこから先のルーンの言葉は容易に想像ができた。

 だからこそ、ハンスはそれを聞けない。

 聞いてしまったら戻れなくなる。

 もう振り返っても、自分が引く荷馬車の後ろにその姿がないということを、認めなくてはいけなくなる。


「私が助けにいく。時間も経ってないし、今ならすぐに追いつける。だから、ハンスは皆を連れてリーフに戻って」


 ルーンは一切の迷いもなく、それをハンスに告げた。

 咄嗟に言葉が出なかった。想いは荒れ狂い、波の如く押し寄せる。

 しかし、ハンスの思考は冷静にそれを鎮めていってしまう。


 俺も一緒に――タマは? この水晶に閉じ込められた団長とミケはどうする?

 テルスを見捨てろ――こいつにできるわけがない。

 応援を――間に合わない。

 勝てるのか――分かっているだろ。

 失いたくない――それでも、ルーンは行ってしまうだろう。


 何も言えない。

 どんな言葉もルーンを止められず、自分にできることは何もないとハンスは残酷なまでに理解していた。


「俺に……俺にお前を……」


――見捨てろと。


 声にならない声の返答は、想い人からの抱擁だった。


「ごめんね。私は――」


 耳元に残した囁きを最後に、その温もりはハンスの腕の中から離れていった。

 死に恐れを抱かない者はいない。

 それでも、誰かを救おうとしたファルグリンとミケに後悔はないはずだ。

 そして、結果がどうなろうとルーンにも後悔はないだろう。

 いつだって、耐えがたい後悔を抱えるのは見ていることしかできない者。

 取り残されたハンスは拳を強く握りしめ、無力な己を殴りつけた。











――なんで、こんなことになってしまったのだろう?


 テルスは独り森を走る。

 ルーンたちが助けに来てくれる前と同じ絶望的な逃走。

 しかし、今のテルスに魔物への恐怖はない。

 疲れも体の痛みも今は気にならなかった。

 あのファル団長とミケがいない光景が脳裏から離れない。

 粉塵が晴れて、二人の姿が黒い水晶に変わっていたことに気づいたルーンの顔が忘れられない。

 力なく倒れたハンスとタマが生きているのか心配で仕方がない。

 

 そして、皆に向けられるであろう感情がテルスは怖かった。


 魔物をルーンたちから引き離すこと以上に、それを見てしまうことが怖いがためにテルスの足は動いたのかもしれない。

 後悔ばかりが胸を刺す。

 森に来なければ。あの魔物に近づかなければ。エレンリードに声をかけなければ。さっさと自分が死んでいれば。きっと、こんなことには……


(違う……それじゃあ駄目だ……)


 そう。それでも、この結末は避けられなかった。

 何故なら、あの魔物はテルスに気づく前からリーフに向かって来ていた。

 だからこそ、テルスは魔物の気配に気づくことができた。

 そして、あの魔物がリーフに来れば、ルーンたちは絶対に戦っていただろう。


 だって、『悪戯大好き、世界に笑顔を届けるトリック大道芸団』なのだから。


 そういう人たちだから、死んでほしくなかった。

 そういう人たちだから、笑っていてほしかった。


(もっと、おれが強かったら、こんなことにならなかったのかな……)


 別になんでもいい。こんな結末を覆せる力なら何でも。

 しかし、テルスにそんな力はない。

 それが結果。

 敗者は無力を噛みしめ、後悔と共に逃げることしかできない。

 視界が歪む。涙が溢れて止まらない。

 そんな俯いて走るテルスの頭に……ぽんと優しく手が置かれた。


「やっと、追いついた。走るの速くなったね」


「ルーン姉……」


 テルスが今、一番会いたくて、会うのが怖い人が、当たり前のように隣にいた。


「そんな笑顔の欠片もない顔しないの。ファルさんとミケはテルスに生きていてほしかったんだよ。だから、テルスは前を向いて、あの魔物から逃げないと」


「でも、おれは……二人とも無事でいてほしかった」


「私だってそうだよ。でもね、テル――」


 ルーンの言葉は最後まで聞けなかった。

 隣りを走るルーンの手を引き、テルスは立ち止まる。

 また、あの気配だ。

 魔力の震えに集中すれば、あの魔物が近づいているのを感じた。


「くる……!」


 まだ、姿は枝葉に隠れて見ることはできない。

 だが、行く手を阻むように森の奥で突如、その気配が現れたのをテルスは感じ取った。

 いる。確実に、あいつがまた近づいてきている。


「え……なんで、分かるのテルス?」


「なんか、体の中の魔力がおかしいんだ。震えているというか……ルーン姉、早くここから離れて! また魔瘴方界(スクウェア)が広がるとまずい」


「ちょっと待って。魔瘴方界(スクウェア)? なんで、その言葉が出てくるの?」


「え? だって、さっきのは魔瘴方界(スクウェア)でしょ? そっくりだったけど」


「テルス、何を――ほんとに来た。テルス走るよ!」


 森の奥へ視線を向けたルーンが、テルスを抱きかかえて走り出した。


「ねえ、思い出したくないことを聞くかもしれないけど、テルスは魔瘴方界(スクウェア)の近くで拾われた子なんだよね?」


 唐突なルーンの言葉をテルスは不思議に思う。

 テルスはルーンたちに自分の生い立ちを話したことがなかったし、ルーンたちもまた聞くことはなかった。

 孤児院にいる。その事実だけで、ある種の暗黙の了解があったのだ。


「そうだけど、どうして知ってるの?」


「孤児院のおばあさんから聞いたんだよ。ほら、一番最初に皆でご飯を食べたときにテルスは寝ちゃったでしょ。それで、孤児院に送り届けたら教えてくれたんだ」


「そっか……でも、おれが魔瘴方界(スクウェア)で拾われたとしたら、どうかしたの?」


「テルスは魔瘴方界(スクウェア)がどんな場所か見たことがあるの?」


 瘴気により陽の光が遮られたほの暗い空間。

 さっき広がっていたあの空間が魔瘴方界(スクウェア)だというのに、まるで、ルーンはそれに気づかず、見たことがないかのような口ぶりだった。


「見たというか、さっきと同じような場所の中にいたよ。ほとんど覚えていないけど、ずっと走って逃げていたのと――」


「ちょっと待って!」


 ルーンの目は見開かれ、信じられないといった面持ちでテルスを見ていた。


「ずっと走って逃げていた(・・・・・・・・)? 魔瘴方界(スクウェア)は浄化師以外は入っただけで、数十分とせず死ぬ場所(・・・・)なのに?」


「え……浄化師以外は死ぬ場所……? 浄化師以外は入ったら、苦しいとかじゃなくて?」


 汚染された魔力が漂う魔瘴方界(スクウェア)では人は生きてはいけない。

 それは、テルスも知っている。

 そこに入っても影響がないのは『浄』の魔力を持つと言われる浄化師だけということも。

 でも、入っただけで死ぬなんて、テルスは思いもしなかった。


 だって、自分はあそこでずっと逃げていたのだから。


 あの領域でどれくらい逃げていたかは分からない。

 ただ、どんなに少なく見積もっても、数時間はテルスはあの場所にいた。


「なんで……まさか」


 ルーンは走りながら小脇に抱えたテルスの胸に手を当てる。

 焦りが滲んだその表情と真剣な眼差しに、テルスは何をしているのか聞くこともできない。

 数秒後、テルスの胸から手を離したルーンは呆然と呟いた。


「嘘……なんで、生きているの?」


「えっ?」


「……テルス、今から言うことは大事なことだから、ちゃんと聞いてて。テルスの体には瘴気がある(・・・・・)。本当に微かだけど、魔力に混じっている。もっと早く気づかないといけなかった! 違和感はずっとあったのに、こんなことがあるなんて思いもしなかった! テルスが魔物への恐怖が薄いのも、何故か精霊が魔法を手伝うのも、他の人よりも瘴気の気配に敏感なのも、これが理由だったんだ!」


 恐怖を抱くはずの魔物が怖くなかったのは、テルス自身にも同じ瘴気が入っていたから。

 精霊が魔法を手伝うのは、瘴気に侵されながらも生きているテルスの存在に興味を持っていたから。

 瘴気の塊である魔物の気配に敏感なのは、テルスの魔力に瘴気が混じっており、その波長が似通っていたから。


 ルーンは焦った様子でテルスにそれを説明していく。

 だが、テルスにはその理由が分からない。

 たとえ、自分の体に瘴気が入っていても、どうしてこんなにルーンが必死に話しているのかが分からなかった。


「だからね、テルスはもう魔物には近づいちゃ駄目! あと人にこのことを言っても駄目!」


「な、なんで?」


「瘴気が体に入っているのに生きているなんてありえないことなの。テルスの魔力が中々増えないのは、自分の魔力で瘴気を中和とか希釈とか、とにかくそれに近いことをしているからだと思う。こんなの、奇跡みたいな確率で天秤が釣り合っているだけ……! 瘴気に近づきすぎたらいつこの天秤が傾くか分からない。だから、テルスはもう魔物には――ああ、もう大事なときに!」


 テルスを抱えたまま、ルーンは横に飛びのいた。

 すぐにその場所を白骨の枝が穿ち、前方にあった木々に風穴を開けていく。


「でも、ちょうどいい。テルスが狙われている理由が、瘴気を抱えた人間への警戒なら、それ以上に私を警戒させればいい! 幻想発現(リアライズ)【魔弾《翡翠(ジェイド)》】」


 その呪文をルーンが唱えると、翠緑の魔法陣が現れる。

 ルーンの【魔弾《翡翠ジェイド》】の魔法陣。

 だが、そこから感じる魔力は、基本魔法である【魔弾】の域を超えていた。


「――撃ち抜け」


 夜空を駆ける流星群の如き弾幕が森の奥、未だ姿が見えない災魔へと殺到する。

 意趣返しのように、木々を穿ちながら突き進んでいく魔弾の群れ。

 その威力は単純な破壊力なら、ルーンの精霊魔法よりも明らかに上だ。


「なに、それ……?」


「はあ、はあ……『幻想発現(リアライズ)』って言うの……魔法陣を展開して精霊とか、世界に満ちる力を借りながら魔法を撃つ技術。言ってみれば、誰でも使える精霊魔法だよ。単純に魔法陣を展開すれば使えるわけでもないし、魔法陣を展開するから弱点を読み取られる可能性もあるけどね……ふー、ここまでやれば流石に傷の一つはつくんだ。ちょっと安心した」


 木々がなぎ倒され作られた緑道。

 その先には、黒く焦げた左腕を失った災魔が立っていた。

 傷口が蠢いたかと思うと、すぐに左腕は元の形に再生される。

 だが、今までどんな攻撃でも傷をつけることすらできなかった災魔に、ルーンの魔法は確かに一矢を報いた。


 しかし、テルスに安堵はない。むしろ、その逆だ。


 災魔から受ける圧力が変わった。

 瘴気が濃くなったわけでも、何か動きがあったわけでもない。

 その気配に刃のような鋭さをもって、災魔は静かに佇んでいた。


「こっからが本番か……【ウェント】――テルス、そこでじっとしてて。そして、しっかり見届けて」


 何を見届けるのかは問わずとも理解できた。

 張りつめた空気が、喉が干上がるような息苦しさが、それを告げている。


 これから始まるのは、ルーンの戦いだ。


「《トリック大道芸団》副団長ルーン・ハーレキン。最後の大舞台は緑濃い森の中。相手は絵本の魔物。客席には大事な仲間がただ一人……燃えるね。さあ、開幕だ。頑張るとしますか」


 そして、道化は舞台に上がる。

 そこから先の戦いは、もはやテルスの目では追いきれなかった。【強化】をしても捉えられるのは魔法の残滓と、災魔が振るう骨剣の残像だけだ。

 ルーンが放つ【魔弾】は徐々に増え、隙間のない弾幕となって魔物に押し寄せていく。

 それを災魔は骨剣の一振りで切り開き、ルーンへと駆ける。

 足を引きずるように歩いていた魔物の動きとは思えない。

 目の前のものを敵と認識し、それを切り伏せようとする鋭い動きだ。

 そう、ルーンは敵とみなされた。

 それはつまり、骨剣の切っ先が本当の意味でルーンに向けられたということに他ならない。


「だ、駄目だ!」


 戦う意思を見せた魔物を見て、テルスの体に震えが走る。

 このままでは、ルーンが死んでしまう。

 それが怖い。もう、それだけは嫌だった。

 何ができるかは分からない。

 それでも、数多の魔法を放ちながら遠ざかっていくルーンを追うために、テルスは踏み出す――が、数歩もいかず、見えない壁に阻まれた。

 いつの間にか、透明な風の檻がテルスを閉じ込めるように囲んでいた。


「待って、行ったら駄目だ! 出して!」


 壁を叩けども出ることはできない。

 誰かの必死な掠れた声が反響するだけ。

 予定調和の結末へ駆けていく舞台をテルスはただ見ていることしかできない。

 小雨が降る薄暗い森を雷光が照らす。

 無作為にばら撒かれる弾幕。狙い澄まされた雷電の一撃。

 本来なら、弾幕を躱す隙を『雷』の精霊魔法が撃ち抜いていたはずだ。

 

 しかし、災魔は止まらない。


 弾雨を跳び越え、電光を切り捨て、王手をかけようと、標的へと歩を進める。

 地面が崩れ、災魔の足元に大穴が生まれる。

 テルスのお株を奪う落とし穴戦法。

 それにとどまらず、ルーンは竜巻の如き風を放ち、災厄の魔物を遥か彼方へと吹き飛ばそうとする。


 しかし、災魔は止まらない。


 巨大化した骨剣を振るい敵に叩きつける。

 ルーンはこれを飛ぶようにして躱した。

 だが、災魔は攻撃の反動で大穴を跳び越え、骨剣を枝の如く自在に伸ばしながら、また一歩、ルーンへと歩を進める。

 水が押し寄せ、炎が舞い、一条の光が閃く。

 ルーンが持つ数多の手札が次々と切られ、そのたびに魔法が災魔を襲う。


 しかし、災魔は止まらない。

 止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない………………


「あ………………」


 離れていく。

 魔法を撃ちながら、森の奥へ走っていくルーンの姿が小さくなっていく。

 木陰に姿が消え、見失う回数も増えていく。

 テルスはそれを見ていることしかできない。

 本当はその瞬間を見てしまうのが怖くて、目を閉じたい思いで一杯だった。

 だけど、ルーンは見届けて、と言った。

 だから、テルスは大事な人が戦っている姿から、目を離そうとはしなかった。


 そして、ついに――ルーンの姿が森の奥へと消えた。


 戦っている音すらも、微かにしか聞こえなくなってしまった。

 独り残されたテルスは崩れ落ちるように膝を突き、


『ごほっ、はあ……あー、聞こえるテルス?』


 聞こえてきたルーンの声に目を見開いた。


「え……?」


『ああ、良かった、いっ……はあ、はあ……精霊に頼んで声だけ飛ばしてもらってるんだ。話石(フォン)みたいなものだね。まあ、そう長くは話せないけど……でも、テルスに最後に言っておきたいことがあったんだ』


 予感があった。

 これがルーンと話す最後になる、と。


「ルーン姉、おれ……おれは……」


 言葉が出なかった。何を言えばいいのか分からなかった。

 溢れる涙は何度拭っても、止まることなくテルスの頬を流れていく。

 最初から誰か一人が犠牲になれば、あの魔物をリーフから遠ざけることもでき、犠牲者も一人で済んだ。


――そして、その犠牲者は自分(テルス)だった。


 テルスが災魔をリーフから遠ざけ死んでいれば、犠牲者はテルスだけだった。

 そうしていれば進行方向がずれた災魔はリーフには行かず、ファル団長とミケも無事で、ルーンやハンス、タマは悲しい思いをせずにすんだかもしれない。

 でも、そうはならなかった。

 捨て駒となったのがテルスだったからこそ、《トリック大道芸団》は命を懸けて戦った。


 そして、今はルーンがテルスの代わりに犠牲になろうとしている。


 やりきれない思いをぶつけるように、テルスは地に拳を叩きつけた。

 どうすればこんな結末にならなかったんだろうか。

 何度も何度も、その言葉だけがテルスの中で反響する。

 しかし、この結末を悔やみ涙を流すテルスに対し、ルーンの声は穏やかだった。


『泣かないでテルス』


「でも……! ルーン姉だって、まだ死にたくないって言ってたじゃないか! それなのに、こんな代わりに死ぬみたいなこと……」


 思い出すのは、初めて皆で食事をしたときのこと。

 あのとき、エレンリードに勧誘されたルーンは「まだ死にたくない」とそれを断っていた。

 死にたくないルーンを死なせてしまう元凶。それは――


『そうだね。私もながーく生きてきたけど、死にたくないよ。ファルさんとミケが生きているのか心配だし、もう一度会って、謝って、色んなことを話したい友達もいる――でもね、ここでテルスを助けなかったら、これから先は楽しくない・・・・・


 ルーンはそう断言した。

 いつか話していたルーンが決めたルール。


 駒者(ピーセス)が命の重さを忘れず、目指す道を見失わないための信条であり、誓い。


いつも楽しく・・・・・・……我ながら、本当に難しいルールにしちゃったものだよ、まったく。だけど、私は自分がしたいから、こうしているんだよ』


 その穏やかな声にどうしようもなく終わりの影を感じる。

 伝えたい事なんて、山ほどあった。

 しかし、声にならない声は胸の内で堰き止められ、テルスはルーンの言葉を心に刻むことしかできない。


『ねえ、テルス。ある日突然、大事な物はなくなっちゃうんだ。だから、人は何かを遺していく。言葉とか想いとか、そういう大切なことを。そうしたら誰かが繋いでくれる。ファル団長の皆に笑顔を届けるって想いを、ハンスたちが繋げていってくれるようにさ……だからね、そんなに泣かないで』


 おそらく、その言葉はルーンにとって特別なものではなかった。

 だが、テルスはその仲間への信頼に満ちた言葉を聞いて、ずっと抱えていた思いが晴れていくのを感じた。

 

 何処か。見たこともないその場所に戻らなければいけない気がしていた。


 記憶を失くしても、その想いだけは残っていた。

 だから、その場所に戻って、大事な人達を思い出す。

 それだけが、もう覚えていない誰かに報いることだとずっと思っていた。


 でも、きっと。それだけが答えではないのだ。

 

 いつか、そばにいてくれた誰かは自分がただ過去に手を伸ばすことを望んでいただろうか。

 友達とも遊ばず、ひたすらに魔物と戦い、誰とも喜びを分かち合うこともなく、たった独りで、その場所に戻ってくることを望んでいたのだろうか。


「……なら、ルーン姉が残したいものはなに?」


『私は……ううん。私も・・やっぱり笑顔かな。皆が楽しく後悔のないように生きてくれればいい。そうしたら、私も何かを遺せたって気がする』


――これが一つの答えなのかもしれない。


 きっと、どんな人であろうと、大事な人に想うのはその人の”幸せ”だ。 

 死を前にしたルーンの言葉だからこそ、その言葉と想いは心の奥底まで届いて、一人の少年を本当の意味で立ち上がらせた。


『特にテルスは体に気をつけて――』


「おれさ、入るよ」


『え?』


「さっきの答え。おれは《トリック大道芸団》に入る。そして、皆の想いを繋ぐ。笑顔が増えるように頑張るし、もう、こんな結末にならないように強くなるっ!」


 届け。

 ルーンだけではない。ファル団長に、ミケに。

 そして――思い出せない誰かに。

 この誓いを届かせようと、テルスは叫んだ。

 

『……あーあ、言葉を間違えちゃったなあ。私はテルスにはもう危ないことをしてほしくなかったんだけど……その道は、あんまり長生きできないかもしれないよ。苦しいし、辛いことも多いと思うよ。それでもいいの?』


「いい。それに、ルーン姉が前に言っていたことも決めたよ」


『前に言っていたこと?』


駒者(ピーセス)のルール。おれのルールは『約束を守り抜く』! 絶対に、交わした約束は守ってみせる! だから、だからっ……!」


 涙を拭い、少年は覚悟を決める。

 今度は間違えない。

 取り戻せない過去に手を伸ばすのではない。

 手に入れたい未来のために歩いていく。

 そのための最初の一歩。最初の約束。自分に誓うのはこれしかない。


「いつか、皆を助け出す!」


 もしかしたら、もう手遅れなのかもしれない。

 あそこから救い出そうと、もう皆の笑顔を見ることはできないのかもしれない。

 それでも、この言葉には意味があるとテルスは信じている。


『……そっか。なら安心、かな。でも、私たちがもし助かったときに、楽しい話の一つもできない人生じゃ駄目だからねっ! だから、最後に約束』


 ルーンの声に混じって、終わりの足音が近づいてくる。

 もう、あいつはルーンのすぐそばにいる。

 それでも、ルーンは恐れなどまったく感じない、楽し気な声で笑っていた。


『楽しく、後悔なんて思いつかないくらい真っ直ぐに生きなさい。テルス――ありがとう。また会おうね』


 それがルーンと話した最後だった。

 雨音だけが森を包む。

 灰色の曇天を見上げ、テルスは一人、もう届かない言葉を呟いた。




「……ありがとうは、おれの方だよ……」

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