南都サウセン
無数の壁がそびえる広大な平原。
秋とは思えない日差しが降り注ぐこの南の地に、今日も明るい少女の声が響いていた。
『おはようございますっ! まだ早朝ですが、南都防衛戦の始まりです! 司会はいつもどーり、このデネビオラ・スワンと私の騎士、ソーマ・レイクです! よろしくお願いしまーすっ!』
『よ、よろしくお願いします』
『今日の相手は……猪型魔物の群れですね。推定マテリアルは《Ⅲ》以上。過去、猪型の大群が防壁をばったばったとぶち壊し、南都の城壁に迫ったことがあるそうです。これは、数次第では大変な相手になりそうです! いざというときは、私の騎士にも出張ってもらわねばなりませんね!』
『いや、大群相手とかむ――』
『しっかし、そんな心配はいりません! 今日の防衛戦にはこのお方も参戦しております! 騎士選定本戦にも出場された、ツバメ・ヤクラさんですっ!』
その紹介とともに、颯爽と現れた黒髪の少女が猪型魔物に魔法を放つ。
無数の緑の燕が猪の魔物を迎えうち、南都の衛兵と駒者が平原へ駆けていく。
そんな映像が町のいたるところで流れているが、南都の住民は欠片も気にしていない。
もの珍しそうに映像に見入っているのは、精霊祭のために初めて南都に訪れた人たちだけだ。
これが南都の日常。
南都サウセン。ここは王都に並んで安全とされる南の地。
こんな魔物の襲撃が頻繁にあるというのに何故、安全とされているか。その理由は南都より南西に位置する魔瘴方界にある。
炎鎖の嶽。
そこは噴火を繰り返す活火山。
苛烈に過ぎる自然が暴威を振るう炎と煙に覆われた地。
そう、南都を襲撃しているのは、噴火という自然現象から逃げてきた魔物だ。
あの地は魔物の生存すら許さない。
僅かな火山活動の休止中に魔物が増え、火山活動の再開とともに魔物の数は減少する。そのため、漂う瘴気すら他の魔瘴方界に比べれば薄い。
魔瘴方界のレベルは最低のⅠ。
方界反転現象リバーシの予兆もなく、奥に住まうと言われる魔物さえ出てこなければ何の不安もない領域。
炎鎖の嶽は大陸の四隅にあるとされる魔瘴方界と同じだ。
天険の山脈の向こう。
瘴気舞う砂漠の遥か先。
荒れ狂う大海の底。
そして、溶岩と噴煙に封鎖された最奥。
人の白でも魔物の黒でも染めきれない強烈な自然の色に染まった領域。
そんな魔瘴方界しか付近にないからこそ、南都サウセンは安全と言われている。
加えて、
『おおっと、これは……ファスターさん、エドモンドさんも参戦だあ! どちらもツバメさんと同じく騎士選定の本戦に出場していた強者です!』
南都の防衛戦はマテリアル《Ⅳ》の登竜門と言われている。
グレイスの潮と違い地形の障害もなく町に近い場所で強い魔物と交戦できるため、南都には強者が集まりやすい。駒者と衛兵の質はどの都にも勝るだろう。
『いやあ、すごいですね。魔物がどんどん駆逐されていってます』
『ええ、ほんと。あの面子と戦って、僕が五体満足でいられたことが不思議です……』
『またまたあ~』
飛び交う燕に穿たれ、鉄球に吹き飛ばされ、スライムみたいな魔弾に動きを封じられ、猪型魔物は数を減らしていく。
この群れが瘴気となり霧散するまで、そう時間はかからなかった。
『防衛戦しゅうりょーですっ! お疲れさまでした! 怪我をした人は救護班に、報酬は後ほどギルドで分配します。さてソーマ、出番です。まずは結界魔具のとこに行きますよ!』
一応は浄化師である少女の声が響き、防衛戦は終わりを告げる。
今日も人側の勝利。
南都の城壁に魔物が近づくことも許さない、完璧な防衛だった。
しげしげと映像に見入っていた人たちも、少しずつ慌ただしい朝の人混みに戻っていく。
これが、南都にとっては普通の朝だった。
外の喧騒も、浄化師の少女の声からも、切り離された静謐な聖堂。
鮮やかなステンドグラスから注ぐ柔らかな日差し。穏やかな空気。一定のリズムで語られる子守歌のような教皇の長い、長ーいお話。
全てが眠気を誘うその場所で、テルスは意識を落とすまいと戦っていた。
膝を抓り、舌を噛み、それでもまぶたが落ちていく。
すでに、この場で一緒に教皇のお話を聞いているペアの半分は眠気に敗北している。
お隣のペアなんて空を仰いでいる相棒を起こそうと、何度も浄化師が叩いている。その隣はもっと酷い。二人仲良く眠っている。
こんな状況だというのに隣のルナは微動だにせず、その唇に微笑を浮かべる余裕すらある。
流石は聖女様。お偉いさんのお話にも慣れていらっしゃる。
でも、よく見ると目が虚ろだった……多分、この少女は目を開けながら寝ている。
(本番、大丈夫かなあ……)
今日の夕方から始まる精霊祭の式典。
これは、そのリハーサルみたいなもの。
この式典におけるテルスとルナの出番は教皇の長くありがたい話の次、勲章授与の場面だ。
決められたタイミングで前に出て勲章をもらう。
それ以外は椅子に座ってじっとしている。
それだけのことにテルスは心が折れそうだった。
本番は教皇だけでなく、王様の話やら何やらが増えてしまう。
それに勲章の授与が終わっても式典は終わらない。
今日一日のスケジュールを思い出し、テルスはまた憂鬱な気分に沈んでいく。
(俺もあっちが良かった……)
リーフで普通の精霊祭を楽しむであろう、メルクやコングたちが羨ましかった。あの二人のようにこの面倒事を回避できたらどれほど良かったか。
一刻も早く今日が終わり、リーフに戻ってノルンに会えますように。
精霊教の本拠地であるこの大聖堂で、テルスはひたすら祈っていた。
そして、十五分後。
ようやく祈りが届いたのか教皇の話が終わり、このリハーサルも小休止に入る。
その瞬間、蛙が潰れるような声が響いた。
お隣を見ると、テルスの想像通り浄化師が自分の騎士を叩いていた。
「ぐえっ……痛い、もう少し手加減をしてくれてもいいんじゃないか、ベガ」
「うるさい。ペアならあんまり恥をかかせないで」
特徴的な淡い桃色の髪ともじゃもじゃの茶髪。
ペアというより、生真面目な姉とマイペースな弟みたいなこの二人は、テルスも何度か会ったことがあるペア――浄化師ベガ・コートとその騎士ラブレ・B・アンホースだ。
またやってる、というテルスの視線に気づいたのだろう。
ベガは恥ずかしそうに頬を染め、ラブレはいい口実ができたとばかりに、こちらに逃げてくる。
「やあやあ、久しぶりだな、テルス君!」
「お久しぶりです。ラブレさん」
いつだったか、ドラグオン家のメイド、ティアに聞いたことがある。
四大貴族アンホースの馬鹿息子。ヴィヌスと同じ『B』の貴族なのに、騎士を目指している変わり者。そう、ラブレは思われている、と。
でも、テルスから見たラブレはとてもいい人だ。
色々と教えてくれるし、戦い方も参考になる。
少なくとも、テルスはラブレが苦手ではなかった。
「聞いたよ、雪花の湖の話! すごいなあ、俺もそれくらい活躍できれば爺ちゃんに顔向けできんだけど」
「でも、普通に考えたら無茶よ。怪我はしなかった? ちゃんと教本どおりに魔瘴方界の調査とかしたの?」
「ま、まあ、一応……」
「本当に? そういう関係の本はあんまり渡せてなかったし不安だな……今度、持ってこようか?」
「だ、大丈夫です。ルナに聞いときます」
分厚い眼鏡の奥に見えるベガの目は心配そうだ。
ルナの先輩だからか、ベガは色々とテルスたちを気にかけてくれる。
だけど、テルスは正直ベガが苦手だった。
この人の勉強の量はテルスには重すぎるのだ。
「そ、そうだ。雪花の湖はどんな感じだったんだい? 報告書は見たんだけど、やっぱり直接聞きたいな」
「あ、その話なら俺たちも聞きたい!」
ラブレが察して、出してくれた助け船。
それに乗っかったのはテルスではなく、もう一組のペアだった。
「お久しぶりです。テルスさん」
振り向いた先にいたのは、褪せた銀髪と眠そうな碧眼の元駒者。
騎士選定で優勝したリシウス・ジャックと浄化師ロキオン・バードのペアだった。
「おひさー。なーなー、やっぱ王って強かったか?」
燃えるような赤毛とライドブラウンの目。
そんな明るい色彩の印象通り、この浄化師は陽気で、距離が近い。
ろくに話したのなんて顔合わせのときだけなのに、後ろからテルスの首に抱きつくようにして話しかけてくる。
そして、小休止とはいえ、こんなふうに集まっていたからか。
「ほほ、皆さん、お元気ですね」
教皇――ハンナ・プリエントまで杖をつき、お付きの人と共にやってきた。
「すみません。うるさかったですか?」
「え?」
大聖堂で騒ぎすぎただろうか、とテルスは謝るが教皇ハンナは耳に手を当てている。どうも、聞こえなかったようだ。
「すみません、うるさかったですか?」
「え?」
もう一度少し大きな声でテルスは繰り返す。それでも、反応は変わらない。
教皇ハンナは齢九十に近いお婆さんだ。常にお付きの人がいるのも、高齢な教皇をサポートするためだと聞く。
きっと、あまり耳が良くないのだろう。
そう思って、もっと大きな声で話そうとテルスは息を吸い込むが、ロキオンが笑ってそれを止めた。
「やめとけ、やめとけ。この婆さん、性格が悪いんだよ。聞こえてんのにこうやって、からか――痛て!」
ごつん、と杖がロキオンの頭に叩きつけられた。
色々と装飾品がついた教皇の杖は重そうで、無駄にとげとげしている。実に痛そうだった。
「痛いだろ、婆さん!」
「ロキオン様、いくら幼い頃からお知り合いとはいえ――」
「いえいえ、構いませんよ。ロキオンもリシウスも、こーんな小さな頃から教会で面倒を見てきましたものね。お友達におねしょの回数でも話して差し上げましょうか」
「ほんと、性格が悪いな! これでなんで教皇やれんだよ!」
「……え、僕も?」
可哀想なことに、リシウスがとばっちりを受けながら、教皇の話は続いていく。
おねしょの回数とか、幼い頃は可愛かったとか、初恋のシスターの話とか。
いい子たちなんですよー、仲良くしてくださいねー、と完全に二人のおばあちゃんのようだった。
お付きの人がガードするからロキオンは近づいて止められないし、リシウスはおろおろしている。
そんな二人の困った様子を見て、教皇はさらに生き生きと語っていく。
さっきのお話もこれくらい饒舌だったら、多分あそこまで眠くはならなかっただろう。
だが、そんな話もぴたりと止まる――テルスの胸ポケットからソルが顔を出したことによって。
「ん~、テルス、もう終わったのか……い……?」
騒がしかったから、もう終わったと思っていたのだろう。
うっかり出てきてしまったソルの顔がみるみる青くなっていく。それほど、精霊教の信徒たちの目は怖かった。
「……あらあら」
教皇とお付きの人の目は完全に獲物を見つけた狩人の目だった。
こうなるから、来ない方がいいよって言ったのに……。
「あなたがソル様ですね。どうですか、こちらでお菓子でも。是非、お話を聞きたいわ。あ、サニーさん。色々と準備をお願いします」
「かしこまりました」
お付きの人が颯爽と駆け出していく。はたして、それは何の準備なのか。
助けてほしそうに見上げてくるソルに返す言葉はない。
テルスの心はすでに信徒たちの目によって半分折れている。
そして、これほど近くに浄化師、騎士、教皇が揃っているのに、ルナは未だに動かない。この聖女擬きは本当にいい根性をしているとテルスは思う。
ただ、ソルにとっては幸運なことに、お話は流れることとなる。
勢いよく大聖堂の扉が開き――浄天が姿を現したことによって。




