禽忌の庭Ⅺ
彼女を見た。
黒雲の隣に立つ、赤く染まったその姿を。浮かべる寂しげな微笑を。
シリュウは見た。見て、しまった。
痛い、なんて言葉では表せないほどの想いがシリュウの胸を締め付ける。
不甲斐なさが。怒りが。広がる混沌とした感情が行き場も定まらないまま燃え上がる。
「ああああっ――!」
斬る。絶対に、どうなろうと、こいつは斬り刻む。
迫る黒羽根にシリュウは刀を振り上げ――ふわり、と肩に舞い降りた赤い猫に動きを止めた。
――ああ、分かってんだよっ……!
頬に走る痛みと爪痕。刃に灯る自分じゃない紅。
それが何を伝えたいかなんて分かってる。そんなことをされなくても、分かっている。
「やれ、茜」
焔が爆ぜ、刹那の内に彼我の間合いは消え失せる。
黒羽根の群れを貫く陽炎だけが、刹那の軌跡を物語っていた。
「キィィイイィ!」
眼前に現れた赤に魔鳥が叫ぶ。
その声には、ただ命を脅かされる生物としての焦燥が滲んでいた。
肥大化した翼が無数の羽根をまき散らしながら、ただ一人に振り下される。
退路はない。そもそも、避けるという選択肢を取る気など微塵もない。
ただ、真っ直ぐに。己に出来ることは斬って、燃やす。それだけだ。構えた刃に宿る赤と紅が煌々と燃えさかる。
――焔閃火!
――咆閃華!
峡谷に咲き誇る二輪の鳳仙花。
爆ぜる紅が黒羽根を吹き飛ばし、燃える赤が黒翼を斬り落とす。
そして、返す刀が再び必殺の赤を帯び、禽忌の庭を統べる王に手向けの花が贈られた。
「焔閃火あああっ!」
一閃。溢れる火焔が悲鳴すら飲み込み、王を染め――一陣の風が灰と瘴気の残滓を巻き上げていった。
――終わった。
王を倒した感慨などなかった。
心は虚ろに沈み、力なく落ちていく体は伸びた茨に受け止められる。
体が重かった。たった一度の【火】を発現させる気力すらない。シリュウは身じろぎもせず、ゆっくりと茨に運ばれ……仲間たちと合流する。
誰も何も言わなかった。薄れていく瘴気に歓声の一つも上がりはしない。
王を倒し、瘴核を祓った。魔瘴方界を解放するという二度目の偉業を果たした。それなのに、ここには静寂だけが広がっている。
壊れたアイラの杖があった。刃が欠けたベンの剣があった。そして、
「……あいつはアイレを置いていって、お前まで……逝ってしまうのか……」
ぽつりと呟くチェレンの前に、エリュテイアが倒れていた。
赤く染まった浄化師の白装束。転がるポーションの瓶、応急手当の道具。思い浮かぶ可能性を一つ見つけ否定されるたびに胸の奥が冷たくなっていく。
「ごめ、ん、ごめんなさい、兄さん。助け、られなかった」
「……お前のせいじゃねえよ」
泣きじゃくりながら、浄を灯す弟の頭にシリュウは手をおいた。
「ほら、泣くな。こいつがこういうとき何て言うのかくらい分かんだろ」
「うん。さっきも言われた……」
アスケラがゆっくりと頷く。
たった数ヶ月間しか孤児院にいなかったとしても、この少年はちゃんとシリュウやエリュテイアを理解している。それは多分、孤児院の皆を、養子となった貴族の人たちと同じように大事に思ってくれているからだ。
それなのに、一番近くにいたシリュウは理解しているのに、彼女の想いから背を向けた。
「悪いな、ガウル」
「……南東、リーフ側に一直線に走れ。俺たちもすぐ出発する」
「ああ。キーンもありがとな」
「……礼など不要だ。あのとき、もっと……私が茨を伸ばせていれば……」
「違げえよ。あれは……俺のミスだ」
誰もエリュテイアを背負うシリュウを止めようとはしなかった。
崖へと茨を伸ばすキーンの肩を叩き、シリュウは走り始める。いつの間にか空を覆っていた雲から冷たい雨が降り始めていた。
不自然なほど魔物が少ない道を走る。
魔瘴方界を解放し、瘴気が晴れたからだろうか。行きの騒がしさなど嘘のように、禽忌の庭は静まり返っていた。
ただ、そんなことなどシリュウはどうでもよかった。
魔物が少ないならちょうどいい。人ひとりを担いで走るなんていつもなら余裕なのに、疲れ切った体は少しずつ悲鳴を大きくしている。
瘴気がない外に行けば。一刻も早くリーフにたどり着けば。
希望だけを見つめ、ひたすらに前へ。それだけを考えて走り続ける。それでも、その事実から逃げることはできなかった。
「何が、死なないでよ、だ……!」
気づいていた。呼吸なんてずっと前に止まっていることに。たとえ、今すぐ医者に見せたとしても間に合うなんて奇跡が起きないなんてことに。
だけど、走らずにはいられなかった。
「お前が死んでんじゃ、意味ねえだろ……」
結局、あれが最後に聞いたエリュテイアの声だった。
あのときの体温が嘘のように背負う体は冷たい。染み込む雨とその冷たさにシリュウは想い人の死を実感していく。
「――シリュウ、あっち!」
だから、突然聞こえてきた声は幻聴なのだと思った。
「早く! あっちに走って」
「は、お前……生きてんのか? さっきまで死んでたよな?」
ほんの一瞬前まで冷たかった体は確かに熱を伝えてくる。
もう二度と聞けないと思っていた声がうるさいくらいに響いている。
これは幻覚か。白昼夢か。思わず立ち止まったシリュウは正直、自分の正気を疑っていた。
「死んでたよ」
「そんな元気な死人がいるわけねえだろ。何で――」
「時間をもらったの! あーもう、早くそっちに行って、間に合わない!」
強引に顔を動かされる。さっきまでの悲しみはなんだったのか。ゾンビになってもうるせえ、と悪態をつきながらシリュウは再び走り始める。
「こっちはリーフからは少し外れてるぞ」
「道は合ってる。ほら、子供の声が聞こえる」
「声?」
シリュウには何も聞こえない。
だが、エリュテイアの耳は確かにその声を捉えているのか、場所を示す指に迷いはない。
子供なんているはずがない。ここはまだ魔瘴方界の中、それも王域から脱しているのかすら怪しい場所だ。いくら混乱していようと、それくらいの判断はつく。
――だが、それなら、これは何だ?
木が倒れていた。
切ったような断面、魔物の仕業には思えないそれがいくつも転がっている。
抉れた地面。焼け焦げた枝葉。進むほどに見つかるそれは間違いなく誰かがいた証だった。
そして、たどり着いたその場所には、泥に塗れた黒髪の子供が倒れていた。
「おいおい、まじかよ……」
人がいるとしても、王域ではぐれた誰かか、王に吹き飛ばされた仲間だと思っていた。
しかし、目の前で倒れているのは確かに子供だった。
信じられない思いで近づき、シリュウは脈と呼吸を確認する。
「生きてるぞ、こいつ」
いったい、どうやって。
魔瘴方界の中で生きていられるということは浄化師なのだろうか。
だが、たとえ浄化師だとしても一人で生き延びられるはずがない。なら、誰か、家族や仲間がいたのだろうか。疑問は次々と浮かび上がってくる。
「間に合った。約束を守れた……」
安堵の吐息が耳にかかり、背後から伸ばされた手から白い光が零れた。
暖かな光が子供とシリュウを包み込む。その輝きは強く、蝋燭の終わりのような灯火だった。
「おい、エリュ――」
こんなに浄を使って大丈夫なのか。
振り返り、確かめようとするシリュウの声は柔らかな感触に塞がれた。
「……はい、お礼」
ゆっくりと離れたエリュテイアは消え入りそうな声で呟き、そっぽを向く。その頬は燃えるような赤に染まっていた。
「ほんっと、お前は……俺にもやらせろ」
「え、ちょ」
お返しとばかりに声を塞ぐ。長く、長く。白い光に伸びる影が離れると、文句にたっぷりと濡れた瞳が目の前にあった。
「もう……でも、ふふ……こんなふうに終われるなんて私は運がいいなあ」
真っ赤に染まった顔でエリュテイアは嬉しそうに微笑む。
その言葉に、薄れていく白い光に、シリュウはこの優しい時間の終わりを感じていた。
「……やっぱ駄目なのか?」
「……うん、ごめんね」
「たく、俺の方が先に死ぬと思ってたぜ」
「私もシリュウの墓参りに何回行くことになるんだろって思ってたよ」
「俺が行くよりかは少なそうだな」
「そ、だから墓の下で健気に待ってる私のために、五十年ちゃんとかかさず来るんだよ」
「おお怖。さぼったら墓の下から這い出てきそうだ。それに、五十年って俺の死因は老衰かよ」
「うん。すぐにこっちに来たら私が追い返してあげる。それにこの子がいるんだから、ここで死ぬのはダメだよ。ほら、走る、走る」
「へいへい。で、こいつはどこの誰の子なんだ? 魔瘴方界で子供拾いましたとか、お前が生き返ってましたとか、俺はガウルに何て報告すりゃいいんだ」
「私もよく分かんない。でも、おじさんたちなら知ってるかも。私が何をしたのかも長い話だし……とりあえず全部おじさんに聞くといいよ」
「丸投げかよ」
「ふふ、丸投げついでにあっちの皆にもよろしく言っておいて」
「ああ。まあ、旅ばっかのあの人たちにいつ会えるかは知らねえけどな」
「旅、か。もう一回くらいはありだったなあ。おじさんたちみたいに竜とか会ってみたかったし……」
「は? おい、俺はその話知らねえぞ。いつだ? いつ、そんな面白そうなことしてたんだ、あの人たち」
走る。とりとめのないことを話しながら、思い出話に花を咲かせながら、シリュウは葉風の町へと駆けていく。
白い灯火は次第に陰り、エリュテイアの声は徐々に小さく、少なくなっていく。
それでも、シリュウは話し続けた。
二人で笑い合った懐かしい記憶を。
なんてことはないただの愚痴を。
とりとめのない自分が覚えている出来事の数々を。
そして――
「ねえ、シリュウ――」
耳元で囁かれたその声が最後だった。
風に消えていく浄の光が向かう先には、リーフの精霊樹が見えている。
結局、エリュテイアはシリュウと名も知らぬ少年のために最後の最後まで浄を灯し続けた。
もう、彼女に声が届くことはない。
二度と自分が彼女の声を聞くこともない。
それでも、今はまだこの耳に、記憶に、心に、その声が響いている。
空を仰いだシリュウは口を開き――何の言葉も発することなく、その口を閉ざした。
最後の返事はいつか、彼女の顔を見ながら。
死後の世界なんて信じてはいない。でも、いつか自分が死して彼女と再会するような”もしも”があったのなら、まだ言葉にしたことがないこれを聞いて真っ赤になっていく彼女の顔を見てみたい。
だから、とっておく。伝えきれず燻るこの想いも、この言葉も。
彼女が最後に繋いだ命を抱え、シリュウは葉風が流れる町へと再び走り始めた。
こうして、禽忌の庭攻略の表舞台は幕を降ろす。
魔障方界の解放という二度目の偉業。
誰もがこれに歓喜し、拍手を送る中、禽忌の庭から生還した者たちはどこか他人事のように、その歓喜を眺めていた。
これは、まやかしの希望だと彼らは痛感していた。
多くの仲間を失った。親友を、想い人を、父を、母を、恩人を犠牲にした。
それで解放したのはたった一つの魔瘴方界。西の砂漠どころか、北の湖にすら及ばない黒の領域だ。
最初の解放もこれほどの犠牲を強いられたのだろうか。それすら知らない歴史の重みと、知ろうともしなかった半世紀の怠惰が重くのしかかってくる。
しかし、無知と無力で塗れた現実に膝を折るものはいなかった。
後進を育てようと前を向く浄化師がいた。
自分には資格がない、と言いながらも北の湖へ旅立った新しい浄天がいた。
全身に傷を負いながらも再び活動を始めた駒者がいた。
父の残した騎士団を継ぐ白い騎士がいた。
想い人の親友に尻を蹴られ、ようやく騎士団を立ち上げた黒い騎士がいた。
そして、紅の浄化師の『浄』もまた次代の少女に灯された。
時は止まらない。
傷が癒える間もなく、全てが未来へ進んでいく――ただ一人、記憶を失った子供を残して。
進むべき未来も分からず、顧みる過去もない。
空っぽになってしまった子供は今日も、精霊樹の上で空を仰ぐ。
彼の時計が動き出すのはもう少し先の話。道化の姫と出会い、再び浄の光に救われ、北の湖を解放し、少しずつ錆びついた針は時を刻み始める。
再会まではあと少し――。




